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30:事件の翌日


 その日はお店を閉めて解散になった。

 店はしっかりと戸締まりをしてもらう。

 ティトスは新しく来た護衛と一緒に、私を家まで送ってくれた。

 真っ青な顔で帰ってきた私を見てお母さんが驚いている。


「そう……。そんなことがあったのね」


 ティトスを見送った後、私は途切れ途切れに事情を説明した。

 前世の記憶のせいで恐怖が込み上げたとは話せない。

 けれどお母さんは優しく肩を抱いてくれた。

 私の震えはなかなか止まらなかったけど、お母さんの匂い、着古した羊毛の布の匂いをかいでいたら少しずつ落ち着いていった。


 その日は寝付きが悪く、明け方にうとうとしただけになってしまった。

 そのまどろみの中、私は前世の夢を見ていた。

 血溜まりに倒れ伏す私を、暴漢からかばった中学生の女の子が泣きながら見ている。ごめんなさいと繰り返している。

 棺に入れられた私の前で両親が泣き崩れている。

 考えなしの行動でたくさんの人を悲しませてしまった。

 もちろん悪いのは暴漢だけど、それでもだ。


 今日だってそうだ。

 もしもエラトや私に万が一のことがあれば、みんなどれほど悲しんだだろう。

 エラトが死んでしまったら、おじさんとおばさんは私を許さないだろう。

 死んだのが私であれば、お母さんとティトスはどれだけショックを受けることか。


 もっとちゃんと大事なものを守らないといけない。

 護衛は増やす。それは大前提として、護衛だけではカバーしきれない部分も考えないと。


 そんなことを考えながら目覚めた朝は、夏のユピテルとしては珍しい曇天だった。







「リディア。昨日はあれから大丈夫だった?」


「うん。あんまり眠れなかったけど、それだけ」


 朝になって迎えに来たティトスとそんな話をする。

 エラトの店に行って様子を確かめるが、こちらも問題なさそうだった。


「今日はちゃんとお店をやるわ」


 と、エラト。擦り傷には布を巻いていて痛々しい雰囲気だった。


「護衛を増やすよ。でも無理はしないで」


 ティトスが言えば、彼女は微笑んだ。


「大丈夫。昨日はステージを一回しかやれなくて、お客さんに迷惑かけちゃったから。今日はその分サービスするの」


 エラトはいつの間にかプロ意識を持つようになっていたみたい。


「あたしも、エラトさんに危険がないよう見張りますっ」


「わたしももっと気を配ります」


 新人のミミとサリアも頷きあっている。二人とも昨日の事件でショックを受けながらも、やる気を失っていなかった。


「あの捕まった男はどうなるんだろう?」


「エラトさんとリディアを襲ったところは、僕も護衛も見ていたからね。確実に罪になるよ」


「罪ってどんな?」


「軽い傷害とそれ以上は未遂だから、鞭打ちして首都追放じゃないかな」


「…………」


 その罪と罰のバランスがどうなのか、私には判断がつかない。

 ユピテルには裁判制度があるけれど、貧しければ弁護人を雇えない。裁判は行われないだろう。


「それよりも、父さんが呼んでるんだ。うちに来てくれないか」


「うん」


 衣装作りは途中だったけど、フルウィウスの呼び出しは断れない。

 私たちは丘の上の家まで出向くことにした。

 下町の朝はにぎやかで、狭い路地を人々が行き交っている。ワインの瓶を担いだ奴隷や、洗濯物らしき山のようなシーツを抱えた人。

 見慣れた風景の中をよく目を凝らせば、浮浪者のような人の姿も少なくなかった。

 安くてボロいアパートの最上階にすら住めず、路上で夜を明かしている人。

 ああいう人はしばしば変死体となって路地の隅に横たわる。

 元老院の貧民救済政策――小麦の配給――だけで食いつないで、毎日ぼんやりと路上に座っている。人としての誇りを失ってしまった人々……。


 昨日のあの男も貧しい身なりだった。全財産を使ってエラトの店に通っていると言っていた。

 あんなふうに思い詰める前に、相談できる人はいなかったのだろうか。

 あいつを許すつもりはない。

 けど、ついそんなことを考えてしまった。







 フルウィウスの屋敷にはネルヴァが待っていた。

 ティトスも知らなかったらしく、驚いている。


「今日はリディアに話があって来た」


 彼は言う。


「まずは昨晩の件、大変だったね。大きな怪我がなくて何よりだ」


「はい……」


 既に情報が回っている。


「きみたちを襲ったあの男だが、二年ほど前に農村からやってきた無産階級(プロレタリア)だ。故郷の村は大農園の価格競争に負けて離散状態。彼は単身で首都まで出てきたということだった」


 ネルヴァは夜警にコネがあるのだろう。当然のように事情を教えてくれた。


「かねてからの懸念通り、無産階級、それも保護者(パトローネス)を持たない孤立者による社会不安が増している。事態は急を要すると、理解してもらえたと思う」


 パトローネスというのはユピテル共和国独自のシステムだ。

 一族、一門を率いるパトローネスに対して、保護を受ける者を被保護者(クリエンテス)と呼ぶ。

 パトローネスとクリエンテスは相互扶助の関係にある。普段はパトローネスがクリエンテスに助力や助言を与えるが、いざ有事の際などはクリエンテスが駆けつけて戦力となる。

 親分と子分みたいな関係で、小さなところではフルウィウスと私やお母さん。大きくなればユピテル共和国と同盟国の関係までもがパトローネスとクリエンテスに当てはまる。


 パトローネスとクリエンテスは一種の社会の潤滑油だ。

 社会の中で孤立してしまわないよう、クリエンテスはパトローネスに助けを求めて問題を解決してもらう。その代わりにクリエンテスはパトローネスのために力を尽くす。

 我が家で言えばパトローネスであるフルウィウスはお母さんを雇用してお給料を払ってくれている。お母さんは代わりに、雇われた仕事分を超えて作った布を安く彼に卸している。商売上だけじゃなくいろいろ相談に乗ってもらっている。

 この古代社会で女手一つで私を育てられたのも、フルウィウスの助力が大きかったのだと思う。


 けれど地方から出てきた無産階級の人は、首都でパトローネスを持たない。

 貧困と孤立を深めれば、おのずと行き先は決まる。犯罪か、野垂れ死にか。

 昨日の人は犯罪に走ってしまった。

 もし彼にもう少しお金の余裕があれば。

 周囲に相談できる家族や友人がいれば。

 あんなことにはならなかったのかもしれない。


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