9.聡明王のお膝元
ティロルとエルバイトは城下町の小さなパン屋へ足を運んだ。
ショーウィンドウに精巧な花輪の飾りパンがあり、奥のトレーにかわいらしい形をした、食欲をそそるパンが並んでいる。
鳴子の音を耳に残して入った店内は、焼きたてパンの匂いが漂っていた。
「パンに! なにかのったり挟まったりしています! すごく美味しそう」
「ここは僕がお忍びの時に来る行きつけなんだ。こぢんまりとしているけど人気店なんだよ」
「そうでしょうね! 食べてしまうのがもったいないくらい、アクセサリーみたいなパンたちです!」
カウンターに立つ気風の良さそうな女性が話しかけてくる。
「らっしゃい! あら、あんた。ずいぶんご無沙汰だねぇ! 一時はあんなに通ってくれたのにパタリとこないから、何かあったのかと心配してたんだ」
「ごめんね、おかみさん。僕の一番のお気に入りはこの店で決まりだけど、思うにならない事情があったんだ」
パン屋のおかみさんはティロルに目を向けてきた。
「でも、今日は来てくれて、しかも、かわいらしいお連れまでいるなんて嬉しいよ! さっき焼き上がったのをならべたところだ、選んでっておくれ!」
きびきび動くおかみさんの横でパンを選び、カウンターに持っていく。
「え、こんなに安いんですか!? だって、だって……」
ティロルは勘定を聞いて驚きに声が出てしまった。
インティローゼン領で抜け出した日、ロジンカは金貨2枚を出しても小さなパン二つしか買えなかったのに。
ここの支払いは銀貨でお釣りがきた。
エルバイトをうかがえば、これが普通のようだ。
「こんなもんでしょ、城下町は地方より物価が低いとしても」
「王様がしっかり物流と物価を管理してくれてるからねえ! ほんと聡明王さま様さ。あの人が即位してから、街はいいほうに向かい続けている」
「王様は、すごい方なんですね」
「そうさね! あの方がいてくれれば、生活は上向きだ、希望を持って生きていける。こんなにありがたいことはない」
紙袋にパンを入れながら、おかみさんはパライバトル国王を褒め続けていた。
◇◇
入り組んだ通りで何度も曲がり角を過ぎて、エルバイトがティロルを連れてきたのは、洋装店だった。
「ここも馴染みなんだ、ただ、顔を出すのはもう何年ぶりにもなるから……気まずいな」
そっと開いた扉を押し開くと、店内は無人だった。ドレスを着たトルソーがいくつも飾られている。
売り物なのだろうか、展示されているドレスになんとなくロジンカの記憶が刺激された。
この雰囲気を知っている……?
「なんとまあ、エルバイト様!」
奥の階段から、扇を持った女性が降りてきた。
髪は全てグレーに染まり、首元の肉も落ちているが、気が強く、その気性にしっかり体力が追いついていそうな老婦人だ。
「やあマラカイト、久方ぶりだね」
「久方なんてものじゃありません! 貴方が来ぬうちにわたしは老いぼれてしまったではないですか! 貴方のご注文を楽しみにしていますのに」
「ならぴったりだ、注文だよ。しゃべってる間もないくらい忙しくなるよ。既成のものでいいから彼女に合うドレスを出して、まず一着でいいから、明日の夜までにサイズを調整して王宮に届けてほしい」
気軽なエルバイトの要求にマラカイトは目を剥いた。
しかし年の功、エルバイトと応酬を開始する。
「わたしに既製品の調整だけさせる気ですか」
「もちろん僕が望むのは新作だ。こちらの彼女の寸法で必要なところはすべて取っておいてくれ。金に糸目はつけない。彼女をイメージした品をどんどん王宮におくりつけろ。まずは一着に十日待ってやる。そのあとはひと月の間に二着は作ってもらおう。もちろん材料も人件費も言い値でいい」
身震いしたマラカイトが手を叩き、奥から十歳ごろの幼いお針子を呼び出した。
「ヘミモル! こちらの方にお茶を出して、その後は招集だ!! 控えで下がっている人員全員の家を回って、急ぎの大口が入ったと伝えておくれ。帰りには簡易食も買ってきて、ここから……戦場だよ!」
エルバイトは当然のようにテーブルセットの椅子にかけ、手をふっている。「がんばってね」という他人事な雰囲気を感じた。
そして、ティロルはマラカイトによって奥へと連行されていく。
◇◇
「エル様は相当な無茶を頼んだのではないですか?」
マラカイトによる採寸地獄と、乱舞するドレス軍団から解放されたティロルは、エルバルトと城下町の石畳を歩いていた。
「明日の夜までにまずはサイズ直しだけでも一着!」と急ぐマラカイトの血走った目ときたら。
(エル様が、他人にあんな無理を言うなんて……)
「マラカイトはあれで喜んでいたよ。十歳は若返ったようだった」
「特に調整だとしても一日で、というのは無理なことでしょう。なぜ明日ドレスがいるのですか?」
目覚めていた時に着ていた、白のフリルドレスではだめなのか。
「実は明日王宮で舞踏会をするんだ、と言ったら納得してくれる?」
「ええっ」
舞踏会は急に開けるものではない。
貴族の各家に招待状を送るところから始まるのに。
「明日開かれる予定だったのですか」
「ううん。それに君が今思ったのより小規模に、奥の王宮だけでやるんだ。貴族の招待客とかはナシでさ。侍女や侍従と召使いだけで、君のための、ささやかな宴を」
それなら一安心だ。
ティロルは貴族の前に出る自分を想像できなかった。
「舞踏会に出る」と、ロジンカのものだったドレスを着て高笑いするコーラル。
インティローゼン家と同じ場に身を置くなんて、おぞましくて……心臓を握り潰されるような恐慌に陥りそうだった。
「ティロル、君は王宮で目覚めて名乗る前のこと、なにか覚えている?」
ロジンカを思い出したくなくて、エルバイトの問いかけの答えを、ティロルは誤魔化す。
「それが……霧にかかったようにさっぱりと。常識的な記憶はあります、でも、ほかに思い出せるものがなにも……」
「……覚えているのはティロルという名前だけ?」
「……はい、それも曖昧ですが」
翠の眼で見つめられても、正直に言えなかった。
ロジンカは、こんなふうにエルバイトに時間をとってもらって外出したことがなかった。
王太子のエルバイトは、いつも時間がないと言っていたものだ。
国王のほうが忙しいはずではないか。なのに今、彼のティロルへの時間の割き方はどうか。
(やっぱりロジンカは見捨てられただけある。エル様にとって、時間をとる価値のある存在ではなかったんだわ)
ティロルであれば愛してくれるなら、この時間にヒビを入れたくなかった。
とぼけたものの、エルバイトの横顔が寂しそうに見えて、少し胸が痛む。
(ロジンカとして死んで、なぜか今この変な体になっていましたって……言った方がいいのかしら?)
悩んでいた間に、エルバイトは普段の笑顔を取り戻していて、ティロルは真実を告げる機会を失った。