8.幸福は甘い薄荷の味
エルバイトがティロルにしたという、聞いた端から耳を塞ぎたくなるような行為を知った動揺。
ティロルをグラグラ揺らしたそれは、しばらくして、ようやく落ち着きを見せた。
「君が嫌がるなら、もうしないよ」
エルバイトなりに反省しているらしい。
「安心してここでの生活を楽しんでほしいんだ」
優しく告げられ、ティロルは半覚醒だった間のことを、とりあえず横に置くことにした。
話にさえのぼらなければ、この清らか極まりない国王が、寝ぼけたティロルによからぬ真似をしたなど、忘れられるはず。
「約束してくださいね。私は、そんなこと……もう恥ずかしくて耐えられませんから!」
「うん。だから緊張しないで、ね? ……王宮の案内に移ろう?」
エルバイトはティロルの前を進み、彼のものだという豪奢な王宮を案内してくれる。
青貝色の壁と天井は漆喰レリーフで優美に装飾されており、砂糖菓子がたくさんついているよう。
床も白地にうすくマーブルが入った石材で、全体として、とても清澄で上品な王宮だ。
ティロルの美的感覚にとても合う。
内装は国力の鏡。
それから推測するに、この国はロジンカが知っていたときよりも、ずっと国力を増しているのではないか。
廊下の真ん中に敷かれたカーペットは、上質で、等間隔で飾られている生花は、朝露を含んだばかりのように瑞々しい。
飾りとしての価値を損ない次第、すぐに取替えが為されるのだろう。
「彼女はティロル、僕の賓客だ。最大限の対応で迎えて」
集めた侍女や侍従にはそう紹介し、彼らの前でもティロルとの距離は近いまま。
(王様のお客さんだからって、私一人だけに距離が近くていいのかしら)
ティロルの知っている王と王妃ですら、人前では手を繋いだりしていなかったのに。
エルバイトは手を繋いでティロルを横に置き、平然と頭を撫でてくる。
この猫可愛がりように、ティロルは戸惑うしかない。
「そうだ! ティロル、奥王宮ばかりじゃ退屈だ。街に出てみないかい? お忍びだよ。お忍び」
エルバイトは思いつきにウキウキとはしゃぎ、すっかりその案を実行する気になっていた。
王様が、お忍びなんて……、露見しないだろうか。
ティロルの心配を読み取ったか、エルバイトは侍女に命じて変装する旨を伝えた。
王宮の一室にたくさんの衣装を用意させた。
「うーん、君に似合いそうなのでいっぱいだ」
数々の衣服を片っ端からティロルに合わせてくる。
「これは形が可愛いから似合う、それも色が良く似合う、こっちなんて良く魅力を引き出して似合う……」
褒めちぎられて、ティロルは恐縮する。
「そんなに、どれも似合うほど美人じゃないです……。それに私は、髪や目の色が派手すぎて……」
悪目立ちしそうだった。
お忍びなのだ、エルバイトも同行するならなおのこと。似合うかよりも、目立たない格好にしなければ。
エルバイトは少し残念そうにして、ティロルの主張を受け入れてくれた。
「君を最高に似合う服で着飾らせたかったんだけど……わかったよ。今は我慢する。だから後で王宮に戻ったら、たっぷり僕の選んだものを着てね」
パチリと茶目っ気たっぷりに片目を瞬きして、エルバイトは地味な街人の格好をした。
ティロルも上等ではあるが全体に質素な服に、つばの広い帽子で髪を隠す。
「ばっちりだ! 目立たない格好をしてたって、君の可愛らしさは変わらなかったね」
◇◇
ひっそりと下りたパライバトル城下町は、それは栄えていた。
(すごい、すごい、すごいっ。なんて賑わいなの!)
ロジンカであったとき、街に出たし通りもしたが、ここまで活気はなかったはずだ。
身一つで街の中にいるから、こんなにも人々から熱気を受けるのだろうか。
「ちょっと自慢なんだ。パライバトル城下町の活気と治安の良さは」
「こんなに活気があるのに、治安もいいのですか?」
「うん、民のみんなに安心して生活してほしいからね。特に力を入れているよ。城下町ほどではなくても、国全体で治安の良さと豊かさを実現してる。……そう自負している」
胸を張るエルバイトの目は生き生きとしている。彼が自分に自信を持って国王をしていることが、うれしい。
(エル様は、ずっとたくさんお勉強して王太子として忙しくされてきた。その努力が報われてこの街の賑わいがあるのね……)
「エル様は、いい王様なんですね。街のみんな、希望のある顔をしています」
「ありがとう。……君に、そう言ってもらえるなんて……」
急に。エルバイトが目頭を押さえて声を詰まらせるから、ティロルは慌てた。
そんなに、感極まるようなことを言っただろうか。
「エル様、エル様……。ほら、色々みて回りましょう。私、街のことわからないので」
「そうだね、涙ぐんでいる場合じゃないな。君をエスコートする重大な役目があったんだった」
エルバイトははじめに広場へ連れてきてくれた。
中に入れる浅くて広い斬新な噴水があり、子供も大人も裸足で戯れている。
人の往来が期待できるからか、祭りが開催されているわけでもないのに、出店がずらりと噴水の周りを囲んでいた。
「ここは、いつもこんなにお祭りみたいにしているんですか?」
「うん、いつもこうだね。みんな余裕があるから、こういった屋台も気前よく利用するし、屋台側もますます工夫を凝らすから風変わりなものが出て楽しいよ」
射的の屋台には愉快な景品が並び、子ども用の雑貨のくじ屋がある。
食べ物の屋台では味だけではなく、作っているところや器に入れるところまで客寄せに見栄えを競い、繁盛していた。
「はい、これどうぞ」
エルバイトが屋台で買ってきたものを差し出した。
透明の器に入った淡い薄荷色の飲み物。
コットンキャンディと揚げ菓子、さくらんぼが順に串で刺されており、まるで甘味でできた塔のようになっている。
「わああ! かわいい! おもしろい飲み物ですね!」
ストローで吸い上げた液体は爽やかなミントの風味がして濃厚で甘い。
「おいしい、すっごくおいしいです…………っ?」
こんなにもおいしいのに、だからか?
唐突に目頭が熱くなり、潤んでいった。
(ああ、そうだわ。ロジンカが最後に人から渡された飲み物は……毒だったから)
ロジンカとして最後に喉を滑り落ちたのは恐ろしい飲み物だった。
あれと比べると、この可愛くて楽しい飲料はティロルに優しすぎて。
エルバイトも優しくて、天国の夢でもみているみたいで。
「…………ティロルっ……」
エルバイトが、ティロルを抱きすくめてくれた。
容器の中の飲み物が揺れたが、こぼれずに済んだ。
「ティロル、大丈夫だから。恐ろしいことは何も起こらないよ」
背に回ったエルバイトの手が、背中を撫ぜてくれる。
「僕がついている、王様がついているんだ、他の誰にも君は脅かせない」