7.一変した世界は
水の匂いがした。
身体が重い。溶けてその果てに、水銀にでもなってしまったよう。
腕一つあげるのも動作がまとまらず、億劫でたまらない。
ティロルは気力を絞り出して、精一杯の力を込めて上体を起こす。
手に触れた布はシーツだとばかり思っていた。が、実際は幾重にも重なった白いフリルドレスだった。
それを引くように、横たわっていたベッドから降りる。
(雨の香りだったのね。瑞々しくて、気持ちいい)
続きのテラスへの扉が開いていた。
外では、さあさあと糸のような雨が降り、若葉の匂いがついた霧が立ち込めている。
(どういうこと、私って……?)
死んだのは……最後の記憶は冬間近の秋だった。
今は、初夏のようだ、季節がまるで違う。
(一体、時間はどれほど経っているの!?)
それに、自分は生きていたのか? 死んだと思っただけで眠っていた? それとも……。
背筋から冷えた恐怖が這い上がる。
(それとも死んだのに、こうして起き上がって動いている!?)
震えを止めようと、己を抱えた。
恐怖が頂点に上がりかけ、叫びそうになったそのとき──
かすかな音を立てて、入り口の扉が開いた。
「……目覚めていたのですか」
かっちりプレスのかかった、侍従の制服に身を包んだ男性が扉から現れる。
黒壇の髪を後ろで括り、黒縁の眼鏡をかけている。
厳格な性格が、その見た目で主張されていた。
名前を知るほどではなかったが、ティロルは彼には見覚えがある。エルバイトの側近であったはず。
「ここはどこですか? 私は一体、なぜここに?」
男は、丁寧に一礼し名乗る。
「はじめまして。ここはパライバトル王宮です。私はジャスパー。パライバトル国王陛下の部下です。貴女は……王の賓客と言いつけられております。この部屋は貴女のために整えられているので、どうぞ、おくつろぎください」
「……王宮……王?」
王宮育ちだ、王宮には詳しい。
(こんな部屋は、王宮にはなかったはずよ)
半円の大きな出窓は特徴的だ。
外から、こんな窓をみかけたことがなかった。
訪れた事ない部屋だとしても、外から隠しきれるものではない。
(本当にパライバトル王宮なの? それに王? 国王陛下は幽鬼に害されたって)
亡くなったはずではなかったか。
そもそも、自分も王家の決定で人柱として命を失ったはずではなかったか。
一体、なぜ?
「王を呼んで参ります。貴女が目覚めれば、知らせるように言われていましたので」
呼んだら来るということは王は無事だったのか。
こちらから謁見の間に行くのではなく、向こうに訪れてもらうとは、礼を欠いている。
聞きたいことはたくさんあるのに、それを受け付けない雰囲気だった。
機敏に動き、ジャスパーは部屋から出ていってしまう。
今一度、室内を見渡し、姿見に映る自分を見て驚愕する。
(私……どうなっているの!? 色が……ちがう?)
自分であって、自分でない姿だ。
白銀だった髪は淡い撫子色になり、内側に薔薇色が入っていた。とても派手だ。
瞳の色も、かつての葡萄色ではない。
代わりに、夕焼けの太陽のような赤橙に変わったそれが、鏡の中から不思議そうに見返している。
顔立ちだけが、王宮にいた時のロジンカと同じ。
ただ表情は明るく、活力がある。
「ロジンカではいたくない」と夢うつつに思ったものだが、ロジンカとは印象がかけ離れすぎていた。
名実ともに、これはもう、ロジンカとはいえない。
自分は、ティロルだと受け止める。
もう痩せて、あかぎれまみれだった身体でない。
程よく肉付くやわらかな腕、血色の良い肌。
これも繁々と眺め、ティロルは王の到着を待つ。
再び扉が開かれたとき、向こう側には微笑みをたたえた美しい男性が現れた。
まとっている紋章を縫い取った衣装は、王だけが許されるもの。
彼が国王で間違いない。
が、ロジンカの知るパライバトル王ではない。
まだ若々しいその国王を、ロジンカの記憶はよく見知っている。
ただ、馴染んだ姿より年齢を重ねている。
最後に会った彼は十九だった。
なのに今の彼は二十代の半ば以上に見える。
ということは彼の年齢から推測してロジンカが死んでから七、八年の経過があることになる。
死に損なったとはいえ、そんなに時が経った?
なのに鏡に映った自分は色はともかく、年は十八から変わっていないようだった。
混乱の最中、王が話しかけてくる。
「起きたんだね、君はティロルと名乗ったんだけど……覚えている? 僕はエルバイト。パライバトルの王だ。でも君には気兼ねなくエルと呼んでほしいな」
「……エル様……」
王太子から順当に王になったエルバイトを呼び返せば、目を細めた。
ほんの少し、怖い。
(この方は私を捨てたのに、今また私に何の用があるのだろう?)
初対面のような振る舞い……エルバイトはティロルをロジンカとは考えていないらしい。
(また捨てられたり、利用されたら、怖い。次はもう立ち直れない)
王宮にはあの第二王子オーレンもいるだろう。
インティローゼン子爵家だってロジンカの生存を知れば、また血やその身を利用にかかろうと考えるかもしれない。
恐怖が、状況がはっきりするまでロジンカとしての己を伏せたほうがいいと命じる。
ロジンカであったことは隠せるだけ隠していよう。
「わからないことがあるだろうけど、ゆっくり教えていくよ。君は僕が喚んだんだ。つまり僕のお客さん、この王宮で好きに過ごして楽しんで」
エルバイトが楽しそうにティロルの手をとって部屋の外に連れ出す。
廊下も荘厳で王宮にふさわしかったが、ティロルの知っている場所とはつくりも内装もぜんぜん違う。
「ここはね、僕の王宮。王だからって気にしなくていい。取り立てた家臣たちが優秀すぎて僕は引っ込んでていいって言われていてね。この王宮の深部で暇しているんだ。だから君がきてくれて嬉しいよ。いっぱい、楽しいことをしよう」
そっと、頬に唇で触れられて、ティロルは赤面した。
(婚約者だったロジンカですら、こんなことされたことがなかったのに)
それに、感触に覚えがあった。
まだはっきりと目が覚めきらないときに、彼と触れ合ったような。
おかしな夢と思っていたが、エルバイトはあのときの夢の中と同じ年齢で、夢の中で答えた名前のティロルで呼んでくる。
なら、まさか──
「あの、エル様。私に名を訊ねたとき、貴方は、貴方は私を……?」
「ん? ああ、あれ。うん、愛でていたよ。君のすべらかな肌を隙間もないほどすべて撫でて、舐めた。だって、君が可愛くて仕方ないんだ」
「そ、そんなっ、ひゃ、ひゃあああっ」
免疫のないティロルは、ぺらぺらと語るエルバイトに耐えきれず叫んだ。
(なんで!? なんであの紳士だったエル様が、そんな……し、色魔みたいに!?)
ティロルの疑問がまた一つ増えた。