30. ─聖女─
──これは、いつ? どこ?
「今日は焼き菓子を持ってきたんだ、……ロジンカ」
めくれる白いカーテン、窓の向こうは陽光と緑に溢れている。
エルバイトと過ごす、いつかの昼下がり。
ティロルが受け入れつつある、ロジンカの中に入っていた記憶。
ロジンカが深淵に落ちていったその時、炎翼輝石の守りの殻にほんの少し、入りきれなかった魂の破片。
それはエルバイトによって喚びだされた。
人造人間のロジンカの似姿に入って、ごく取るに足らない聖女の片鱗を語る存在になった。
「やっぱり、食べないのかい?」
ロジンカの欠片は会話をしない。
抱える記憶を一方的に語ると、あとは黙るの繰り返し。
そこにはほとんど魂がないのだから当然だ。
それでもエルバイトは彼女をロジンカと呼んで可愛がり、愛し、語る記憶を聞いて喜んだ。
極端に泣き崩れることがなくなり、表の王宮にも出せると、ジャスパーを中心とした身近な臣下も胸を撫で下ろした。
しかし。
「もうその記憶は聞き飽きたよ、まだ僕の知らないのはないのかい」
「なぜ、話しかけても答えてくれないんだ」
「微笑まない、楽しまない、悲しまない、怒らない。人形じゃないか、ロジンカは僕を恨んでいたはずだろう? インティローゼンでの記憶を語ってみろ、僕を憎んだ記憶をさ」
ごく限られた内容しか収めていない、壊れかけた記憶媒体のような少女にエルバイトは苛立ちを募らせていった。
そして、決壊の日が来たのだ。
「何か、反応を返してみろ、ほらっ、嫌だとも言えないのか……ここまでされても、嫌と言えないのか。……っ! ロジンカ、ロジンカ……」
礼拝堂の聖女を安置しているその横で、エルバイトは擬似人間のロジンカの頸に手をかける。
呼吸を阻害されてさえ、半眼、半開きの口のまま無反応な少女。
その様子が、ますますエルバイトを追い詰めた。
「お前は、ロジンカの断片でしかない!! 還れ、彼女に還れ!」
(──エル様、エル様やめて!! 怖い!)
ティロルは思わず叫んだ。
自分のこととして入りつつある記憶は、あまりにも恐ろしい。
炎翼輝石は、ロジンカに還ったティロルをこれから守っていたのだ。
エルバイトはロジンカの似姿の少女を壊してしまった。
死霊術でつかんだ少女の魂を、時の止まった聖女の身体に押し込む。
嘆息して、禍々しく低い声を聖堂に這わせる。
「やっぱりこれじゃ起きないか……今、魂に触れてみてわかった。あれはロジンカの魂どころか、こぼれ落ちたほんの小さな塵だった」
「でも喚べたということは、彼女も喚べるはずだ。全きロジンカ、あの聖なる彼女を。何度振り出しに戻ろうとも、僕は喚び続ける……」
(貴方は、そこまで。こんな罪を重ね続けてでも)
ただ規定の記憶を語るだけの、人格もない擬似人間だったからか。
エルバイトは作りだした擬似人間たちの個を侮っていた。
何も残っていまいと、そのまま壊れた体から取り出した魂の残片をロジンカに溜めたのだ。
愛する人に壊される記憶は、あまりに衝撃だった。
ティロル自身も、ジャスパーが手助けしなければ、何も知らないまま彼女と似た運命をたどっていた。
擬似人間との記憶を受け継いで、怨嗟に取り憑かれそうだ。
ティロルは、あるともわからない自らの体を折り曲げる。
なぜ、こんな彼が愛おしいのか。
それは本当に愛おしく思っているのか? 執着しているだけではないか?
流れてくる負の感情をティロルは丹念に爪折って、自身の愛を見直す。
(エル様を好きって気持ちは刷り込みみたいに始まったものかもしれない。でも──)
木漏れ日の下で得意げに微笑む顔が、情熱的な抱擁と激情を抑えた礼節が、特別を捧げ守りたいと願っていてくれた心が、愛しかった。
あれほどまでに禁術に深入りし、手を汚してでも。
ロジンカが故人になってすら諦めず死に抗い、想い求めてくれる彼が恋しい。
(もう理由らしい理由なんてなく、愛おしいの。ぜんぶ受け止めてでも)
それだけを頼りにティロルはせめぎ合う感情の嵐の中に立ち続ける。
ふいに、凪にたどり着いた。
悲しい記憶を受けきり、過去のこととして自分の中に格納しきる。
「──!」
顔を上げると、真っ青な雲が浮かぶ空と、それを映した水面の狭間に立っていた。
向こうから、歩いてくる女性がいる。
銀色のまっすぐ腰まである髪に、薄葡萄の瞳を持った優しげな姿。
こんな形で、向かい合うことがあると考えたこともなかった。
ロジンカ。
(私、ロジンカだった時、他人から見るとこんなに儚げだったのかしら)
ティロルから見れば、頼りないとすら思える、清水の無垢さと危うい風情。
反応に困っているとその『ロジンカ』は口を開く。
「……ずっと、私『聖女でなかったらよかったのに』って思っていたの」
(ああ……私──そう……だったね)
「普通の女の子として、生きてみたかった」
人生の最初から、聖女であることで規定の路線を歩かされ、外れてからも聖女ゆえに搾取され、聖女ゆえに犠牲を求められ命を失った。
そのロジンカは、最後に聖女でない自分に焦がれたのだ。
「せっかく普通の女の子になれたのに、また聖女に戻るの?」
薄葡萄の瞳がまっすぐティロルを見てくる。
「ここまでで、十分だから。聖女じゃない自分で、いっぱい経験したの、パライバトルの街も人々も、食べ物も品々も、エル様も」
楽しかった。責任のない一個人としての時間は、なんて夢みたいだったんだろう。
でも──
「今この国には聖女が必要よ、かけらも残さず全てつぎこんで力をふるいたいの」
ティロルは気持ちを確認するように胸もとを押さえ、覚悟を明らかにする。
「エル様を守るために」
ロジンカが首を少しかしげてから、微笑む。
その癖が自分と同じで、ティロルは『これは“私”』だと実感できた。
「おいで、ロジンカ」
勢いつけてティロルに踏み込んだロジンカが、ティロルに抱きつく──はずが透けて掻き消えて、風だけが過ぎていく。
靡いて踊った髪が背にあたる。
一面の水鏡に映るティロルの髪は、一房だけ撫子色の部分を残し、あとは銀になっていた。
瞳も、もう元の淡い葡萄色。
◇◇
瞬きすると、ティロルは夕焼けの世界に戻っていた。
エルバイトと炎翼輝石が戻ったティロルに注目する。
ロジンカと完全なる合一を果たした。この事実を、エルバイトはわかってくれるだろうか。
固唾を飲み込み、ティロルはエルバイトを見つめる。
しかし──
エルバイトは眉を寄せた迷子の顔をしていて、震える腕を地についた。





