27.覆い書きの聖女
「もう魔法陣に組み込まれている、ただ中へ入るだけ」とエルバイトが言っていた。
ティロルだけでロジンカに戻れる。
白線で描かれた魔法陣に踏み入ろうとした。
その足に、一度、赤い静電気のようなものが走る。
──ほんとうにその中に還るの?
聞こえた子どもの声に、ティロルは周囲を見回す。
誰もいない。
「ロジンカに還る」というティロルの決意は固い。
誰に何を言われようと変わらない。
気をしっかり持って、今一度、魔法陣の中に足を踏み出す。
今度は弾かれることなく、足が通った。
魔法陣に入った途端、光が立ち上り、ティロルはふわりと浮き上がる。
(白い──身体が泡になっていくみたい)
身体の感覚が消えていっても恐怖はない。
それよりもエルバイトのもとに駆けつけたい気持ちがずっと大きい。
浮遊感から、ストンと落ちて。
閉じた覚えもないのに目を瞑っていた。
瞼が固いから、無理やり開く目に力がこもってしまった。
最初、目に入ったのは聖堂の天井だ。
上体を起こし手を眺めると、白いドレスの袖がひらつく。
ティロルは壁に嵌っていた姿見を見る。
そこには──ティロルより少し成熟し、妖艶さを増した、ロジンカの顔があった。
ただ、流れる長い髪は銀髪ではない。
ティロルの持っていた朝焼け色の髪。
瞳の色も、赤橙である。
(私、ロジンカに入ったのに。記憶を消されず還ったせいかしら。これじゃロジンカを乗っ取ったみたい……肝心の聖魔力は!?)
自身の中に聖魔力があるか、探る。
沸々と、深くに湧く感覚。久々だけれど、よく覚えがある。
(ある……私の聖魔力。これならエル様に加勢できる!!)
階下へ駆け降りたティロルは閉ざされた扉の前で立ち尽くした。
聖魔力があってもここが開かなければ駆けつけようもない。
扉を押してみる。
当然、開かない、が──
(向こうの取手あたりに、かすか、邪な魔力がある)
エルバイトが使った封の魔法は死霊術らしい。
邪の技、それは聖女の力で祓える。ロジンカ時代の記憶が確信をもたらす。
扉に額をくっつけた。
反対側の気配に集中する。
四角くて黒い靄の塊を、白刃で縦に切って開封するイメージ。
カシャン、と金属が割れた甲高い音がした。
押してみれば、キイ、と頼りない軋みをあげて聖堂の大扉は開かれる。
(行ける!)
あとはもう駆け出す。
聖堂を取り囲む黒い森も、ものともせず王宮へ。
王宮真上の黒雲から、今も稲光が降りている。
(エル様──まだ無事で戦っていますか、私、今行きますから)
◇◇
光の魔法力を込めた護石にヒビが入りはじめた。
透明のクリスタルだったのに、今や蜘蛛の巣のように不穏な亀裂が内部に走っている。
手のひらから、さざれた欠片がこぼれていく。
限界が近い。
エルバイトは顔をしかめた。
(最後の護石……! これが終わればもうあとは僕自身の魔力を出しきって終わりだ……)
「陛下! 下がってください!!」
「ばか! 君らの方が下がっていろ! どこまで保つかは知らないが、僕には聖女の守りがあるんだから」
パライバトル王国騎士団の魔法部隊のなかでも、死ぬ危険が高いここに残ってくれた者たち。
三列のうち、前列はすでに意識を失って倒れ伏している。
中列も、ふらふらとよろめいているものが幾人か。
彼らが紡ぐ小さい雷電を、エルバイトは護石でカバーした魔力で束ね、振るった。
邪霊と幽鬼の集団を囲って王都へ降りかかる時を遅らせている。
だが、問題の解決にはならない。
他の者には国民が退避するための誘導を任せている。
ただ、避難にどれだけの意味があるか……。
幽鬼は解き放たれてしまえば、人間を嗅ぎつけて吸い寄せられるから。
王都に人間がいなければ、人間のいる方に飛来するだけ。
(わかってるさ、あの場で僕がやるべきだったのはティロルをロジンカに還して、不完全でも聖女を目覚めさせ、邪霊を祓わせること)
できなかった。
解答を出せないということは、こんなにも心細くやるせないものなのか。
ロジンカを選べばティロルを壊す。選ばなければ……永遠に諦めることになる。
どちらを選ぶべきかすら見失うなんて。
(いや、違うな。状況から選ばずに済んだことに、僕は安心してすらいる)
ティロル。
撫子色の髪を持つ、暁空みたいな娘。
エルバイトはロジンカそっくりの擬似人間の身体を用意していたのに。
喚んでこの世界に落ちてきた彼女は、朝焼けに染まった髪と眼の色を持っていた。
予定外の事態で、その見た目がロジンカから離れたせいだろう。
だんだん……逸れてしまったのだ。
ロジンカを起こすための部品なのに。
いつも健気にエルバイトを見つめる、ひたむきさが……幼い頃のロジンカをよく思い出させた。
部品に過ぎなかろうと、なんだろうと、ロジンカを思わせられると、もう彼女が嫌がることができなくなった。
「戻りたくない」と拒否されれば、彼女から記憶を消してロジンカに入れることが、できなくなってしまっていた。
エルバイトなりに葛藤はあった。
ここまで想い、追ってきたロジンカの目覚めを、諦められるわけない。
が、翳した手を、それ以上動かせなかった。
そして、先ほどの戦闘。
エルバイトは幽鬼から守られた。
ロジンカは死して魂は深淵に溶けただろうに、それで聖女の守りを受けることはできないはずなのに。
エルバイトは、ロジンカに愛されて、守りを得ていることになる。
なぜか。
エルバイトは一瞬、ティロルにロジンカを見た。
『彼女こそ、エルバイトが求めたものに限りなく近い』
いつかジャスパーに言われた通りなのでは。
しかし、どうしても。
彼女でいいのかわからない。
ロジンカを見定めるピースを、失ったエルバイトでは。
(ティロル……僕がここでこのまま保たず、聖女の守りも突破されちゃって倒れたら、幽鬼は周辺の人間の魂を食い尽くすだろう。君はコトが終わって幽鬼が散るまでそこにいて。そして……そこからは好きに生きて。王宮だとか、ロジンカだとかに囚われることなく、君らしく……)
握りしめていた光の護石は、ついにエルバイトの手の中で真っ二つに割れた。
「……くっ」





