26.想いは固く
エルバイトの瞳に灯りかけた光が、ふっと途切れて消えてしまった。
「駄目だな。僕は」
ティロルの前で、エルバイトは首を左右に振る。
「わからない。ロジンカかどうか、愛していいのかどうかが、わからないんだ……」
「エル様、私です、私が──」
ティロルは精一杯、硬直した心を動かして想いを紡ごうとした。
しかし──
「あ、あれは!?」
樹冠がひらけた野原の上空。
幽鬼と邪霊が大量に舞っている。
寄り集まって王宮を中心に王都へ降りてきそうだ。
そこへ、先ほどエルバイトから黒い鎌を奪っていった幽鬼がフラフラと近づく。
黒い鎌を捧げられ、幽鬼たちの眼光が一斉に赤くなり、その姿が一回り大きく膨れ上がった。
「……おそらくあれは僕の狂気、業だ」
あの時、エルバイトは幸いにも心に溜まった澱を抜かれるだけで済んだ。
それを幸運だと喜んだ。
「死霊術で溜め込みすぎた邪念。それが……奴らの過剰なエネルギーとなった、のか……?」
幽鬼の手に渡ったことで彼らの力を増強させてしまった。今の状況には裏目に出たのだ。
「聖光灯では幽鬼までは防げないし、これではこの国は奴らに食い散らかされて滅びてしまう。」
「そんな。この国の、みんなが……」
「僕の身から出た業のせいでか……僕が、聖女を求めるくせに、戻せないばっかりに」
あの異形たちが降り立つ先には、マラカイトがヘミモルがジャスパーが、ティロルが関わってきた人たちがいる。
皆、幽鬼の餌食になってしまうのだろうか。
「ティロル」
「──え」
再び虚空をどろりと溶かし、エルバイトはどこかと空間を繋げた。
そこに通されたかと思えば、ティロルは聖堂の出入り口前にへたり込んでいた。
「なんで、こんなところへ」
エルバイトはティロルの前で大扉を閉じていく。
「どういうつもりですか!」
「今から僕は、責任とってアレを可能な限り阻む」
「エル様は聖女じゃないのに!」
「ここはロジンカが大切に思っていた国、彼女が還ってくる場所。守らないと。勝ち目なんてなくて、守りきれなくてもね」
「そんな。聖女じゃないと幽鬼に無力だって、わかってるのに」
「……せめて避難の時間稼ぎにでもなればと思ってるんだよ」
「私も行きます!」
ティロルは叫ぶ。
エルバイトが命を捨てるなら、一緒に捨てても構わない。
彼の覚悟に殉じたい。
そのティロルの気持ちを、エルバイトはひと睨みで拒んだ。
目つきを厳しくして、低く言う。
「聖女を模して作った体の君に、できることはない。ここにいるんだ。ロジンカの身体があるここが、僕が思いつく限り一番安全なはずだから」
「そんな……っ。あんまりです」
目頭が熱くなって、下瞼にゆらゆらと潤むものを感じた。
つ、と一条流れ落ちていく所に、そっとエルバイトの手が添えられる。
額にふんわり、唇が触れる。
「ロジンカを想う心だけは誰にも負けない、譲れないと自負してきたのに。僕はロジンカを想う男失格だ。じゃあねティロル。君は好きなように生きるんだ」
「エル様! 失格だなんてそんなことない、私はっ、私こそ……!」
エルバイトはティロルの言葉を最後まで聞かなかった。
傲慢な国王は微笑みのまま扉を閉じる。
一生懸命押しても、叩いても開かない。
開かないよう手を加えられた。
「ひどい、エル様。自分は言うだけ言って」
手を叩きつけた扉は乾いて硬い。
「失格なわけない、あなたが今私を思いやってくれたのは……私がロジンカだから。ちゃんと、感じ取ってくれている。なのに、認められないんですね。私を、連れて行ってくれない」
憎むほどに。動かない大扉に当てた手をずり落ちさせて、拭ってもらえなくなった涙を顎から滴らせた。
(私が、聖女だったら)
かつて、持っていたロジンカの聖魔力があれば、エルバイトもこの国も救えるのに。
(力が欲しい、聖女の力が)
備えていた頃その重要さを甘く見ていた力が、今こんなにも必要だとは。なんて皮肉なのか。
扉の開放を諦めたティロルは、振り返って上階への階段を強く見つめた。
この仮初の身体に渦巻く覚悟を、実行に移す。
上階に立ったティロルは、祭壇に横たわるロジンカへ近づいた。
ロジンカの身体は淡雪のように聖魔力の光を放っている。
彗星の尾を集めたみたいな銀髪、身を包む百合の花びらの光沢がある真っ白なドレス姿の聖女。
自分のものだった記憶のある姿が、別で目前に存在するのは、どうにも奇妙だった。
「……ロジンカ」
氷肌の頬に指で一線引いてみる。
(冷たい。ロジンカって、やっぱりもう他人の名前のような感じがするわ)
エルバイトがあんなにも求めていたロジンカ。
「私ね、エル様と一緒に街へ遊びにでたの。舞踏会で足が痛くなるまで何度も踊った。はじめてのキスをした。全部あなたとはしたことなかったのに、あの人はまだあなたを探し求めている」
切ない。
ティロルは求められていないのに、愛されているようなことをしてもらって。
求められたロジンカはまだエルバイトの愛を知らない。
金の髪をやわらかに揺らし、自負を胸に微笑うエルバイトを思い浮かべる。
勝手な人だ。
ことの初めから。
何も話さず「ロジンカを守る」と黙って婚約を破棄して。
ティロルには全部黙って、愛でるだけ愛で倒して翻弄して。
それで。
そのくせティロルをロジンカに還しきれなかった。
もうロジンカの見分けがつかないという。
しまいにはティロルを閉じ込め自分は死地に行ってしまった。
(エル様は、最低な人。なのかもしれない)
そんなエルバイトを見放し、安全な場所で嵐が過ぎ去るのを待つこともできる。
むしろエルバイトはそれを望んでいた。
(でも、そんな道は選んであげない)
あんなにも自分勝手で。
聡明王だと、自分の頭脳に自惚れて人の心への配慮が足りなくて。
愛でるとなったら加減もなく、なんだって肯定して甘やかす、アンバランスな彼を。
愛している。
愛してしまう。
ロジンカだったころから、答えは変わらない。
関わった時間の長さゆえの愛着からかもしれない。
王宮の狭い世界と範囲の人しか知らなかったからかもしれない。
でもそれが?
愛しいものは愛しかった。
今だってこんなにも胸の中を愛しさとやるせなさで、熱く、ぐしゃぐしゃにしている。
ティロルは指先に触れるロジンカの冷たさを意識する。
(彼女に還って、私がどのくらい私なのか、わからない。私は、消えてしまうかも……それは、怖い。できるなら、したくない。でも、それでも)
エルバイトが愛しい。
彼をあらゆる意味で、救える存在になりたい。
(エル様のためなら捨てたっていい、それを選べる私──それが私、私らしさ、それさえ残れば、あとはいい)
スカートの裾をぎゅっと握る。心が、しっかり芯を持つ。
(エル様を救うために、ロジンカに還る)





