21.王太子の座屈
獄中では天候など関係ない。
しとしと、陰鬱さを塗りつけてくるような雨にも、エルバイトは何の感慨も湧かなかった。
晴れている日だってここは変わらず鬱屈した場所だ。
父王は分け隔てのない王であり、罪人の扱いについてもそうだった。
元王族、元王太子と特別扱いせず、エルバイトを他の殺人犯や強盗犯などと並ぶ独房へ入れた。
時折、面会を許されたジャスパーが持ってくる報だけが、エルバイトの得られる外界との接点だった。
ロジンカについても。
エルバイトが婚約を破棄した後、ロジンカは弟オーレンの婚約者にされてしまった。
王妃となるために育てられた聖女なのだから、エルバイトもそれを当然のことと予測していた。
罪を覆せなかった今、玉座もロジンカもオーレンのもの。もはや取り返す術はない。
エルバイトは諦観していた。
勝者が敗者の全てを奪うのは摂理だ。
だが、あの卑劣なオーレンが国を統率するか……。
ロジンカがオーレンの妃になるのが、悔しいけれど安心材料でもある。
どれだけオーレンが歪んでいようと、彼女が止めて非道を行わせないだろう。
ロジンカが王妃として尊重され生きていけること、国民を彼女に託せること、それはエルバイトにとってせめてもの救いだ。
「エルバイト様、諦めてしまわないでください。ここからでも、生きていれば巻き返す手が見つかるかもしれません。どうか、……どうか」
決着がついて、盤から駒は片づけられた。
この状態で諦めなかったからといって、なにが変わるというのか。
「もう終わったんだ。ジャスパー終わってるんだよ。……もう僕の元へ来なくていい。お前の心証や立場にも良くない。僕はもう静かに過ごしたい」
「エルバイト様……」
それきり、ジャスパーは定期の日に訪れなくなった。
ついに彼も廃された王子のことは忘れて前を向いてくれた、そうエルバイトは安堵した。
だから、平坦な日々が続いたある日、静かに訪れたジャスパーに呆れすらした。
「なんだジャスパー、もう僕のことは忘れてくれたと思ったのに。ほら、早く陽のもとへお帰り、お前は優秀だから、僕のことにこだわらなければまた要職に上がれる機会が──」
「ロジンカ様が亡くなられました」
「え?」
なんのことかわからなかった。
「人一倍聡い」、「一を聞いて十二を把握する」と誉めそやされてきたエルバイトが、今、ジャスパーの告げた全文を聞いても内容を理解できない。
空笑いして、ジャスパーに軽い調子で聞き返す。
「聞き間違えたみたいだ。もう一度言ってくれないか」
「ロジンカ様が亡くなられたそうです。オーレン殿下との婚約報告に里帰りに出たところ、馬車ごと崖崩れにのまれたのです」
どんっ、とエルバイトの胸の奥に鉄球が落ちてきた。
王太子だった間、彼の心の中で収穫の時を待っていて、投獄されてからも仕舞い込んでいた赤い実が、果汁と果肉を無惨に飛び散らした残骸となった。
「…………うっ、…………っ」
(なんて不運な。神よ、彼女はあなたが加護を与え地上に下した娘だったのではないですか? どうして、こんな運命を)
エルバイトは言葉もなく身体を折り曲げ、悲しみが通り過ぎるのに耐え続けた。
「……あ、ああ。…………ロジンカ」
ジャスパーは長くエルバイトの様子を見て、言葉を投げかけていた。
しかし、彼が何も受け付けず、かといって自害するわけではないと確信すると、ひとまず牢を去った。
◇◇
その後しばらくの日々、どう過ごしたかエルバイトは覚えていない。
生きていた、ということは命をつなげるだけの食事と水分は摂っていたのだろうが。
抜け殻のように乾き、剥がれるように己らしさを失っていったエルバイト。
一年以上の月日が過ぎ去ったところで、再び訪れたジャスパーに、今度は父王の死を知らされた。
ついに、父王はエルバイトの無実を信じず逝ったか。
父親の死の悲しさは、ロジンカの報せの時と比べものにもならない。
あれを経験した後では、もう心はそこまで揺るがなかった。
ただ最期まで無実をわかってもらえなかった虚しさしかない。
それに注目するべきは死因だ。
王宮にいたのに幽鬼に害されたとは、これまでの常識を超えている。
「まさか幽鬼にやられるなんて。母上が存命だったら、考えられない事態だな」
「国王の不幸は、第一王妃様が早逝なさったことにありましたね」
聖女が王の伴侶に選ばれるのには、王宮が聖女を欲する以外にも理由がある。
聖女に誠に愛された男は、常に聖女の聖魔力での守りを得るのだ。
聖魔力を持った娘が王宮に迎えられ、丁寧に育てられるのは、この加護を国で一番大事な国王に与え、邪霊から守りたい、という裏があるのだ。
もちろん、そんな利害関係なくエルバイトの母は国王を愛したし、エルバイトだって、守りを獲得するため愛して欲しくてロジンカを愛したわけではない。
「母上もロジンカもいないから。魔導とやらで邪霊が来なくなったと聞いたのに、幽鬼とはな……」
「聖光灯で邪霊は寄らなくできていましたよ」
「ふーん、邪霊が寄らなくね。でも聖女の聖魔力による守りと違って、幽鬼を寄せつけないものじゃなかったんじゃないかな? 幽鬼なんて本来そう出くわすものじゃない、実験検証していないことだろう。邪霊を寄せつけないだけでこれは幽鬼もそうだろうと思い込んじゃったのかな」
「なんと……しかし不思議ですね。王宮は幽鬼の好む負の思念の集まる場所。なのにその下層で最も澱むここ、地下牢が無事とは」
「まあな、父上と一緒にいたはずの王妃や……オーレンは、被害がなかったのか? ……怪しいな。ジャスパー、調べてくれないか」
「……御意に」
そして後日、面会のジャスパーが驚くべき報せを持ってきた。
「エルバイト様申し訳ございません! ロジンカ様の事故について追わせていたところ不審な動きをいくつか発見し、探らせていたのですが先日、わかったことがございます。ロジンカ様は生きています!!」
エルバイトは目を瞬いた。ロジンカが生きている。
喜びが彼の身体を芯から温めた。と同時に心配が胸を込み上げる。
(なら、死んだという報はなんだ。死んだことにされてロジンカはまともな扱いを受けているのだろうか)
「ロジンカ様はインティローゼン領で軟禁……といいますか。搾取と虐待を受けている状態のようで」
エルバイトはジャスパーの報告の詳細を聞いた。
使用人以下の扱い、苦役以外は軟禁され、身体の変調もあるようだと。
「なんだそれは! 聖女にそんなことをするなんて許されるはずがないっ」
「亡くなったことにされているのですから、扱いは……どうとでも。エルバイト様、今一度立ち上がってはみませんか? 貴方が身分を回復すればロジンカ様を救えるのです」
ジャスパーに言われるまでもなかった。
「やるぞ、ジャスパー。しばしそこで待て、策を講ずる。オーレンのやつも僕がここで大人しくしていたから油断し始めていることだろう。綻びを見つけて、奴の築いた偽の証拠を瓦解させよう」
「はいっ。何なりとご下命ください!」
その緑の瞳を爛々と輝かせ、エルバイトはいくつもの並行した計画を練る。
もはやこれまで禁じ手にしていた恫喝、脅迫も手段として厭わず練り込み、地位を取り戻すため魔王の所業かと疑われそうな計略を立てた。
その中から使えそうな二案をジャスパーに伝え、外界で頼れる人物の動かし方の指示をする。
当初、ジャスパーは苦労があったことだろう。
しかし、彼の尽きぬ献身により動きに弾みがつくと、計画はその主が獄中の人だとしてもうまく転がった。
やがて雪だるまのように加速度的に周囲を巻き込み、エルバイトは疑惑の再検証と判決の再審にまで行き着いたのである。