19.ロジンカの笑み
床についている部分が痛い、とても固く冷たいところにティロルは転がされていた。
黒カビと埃がまじる匂いも、空気の動きがない場所特有のものだ。
しっかりと目を開けても、薄暗く圧倒的に明かりが足りない。
「……っ? ここは」
頭の側面が少し痛んだ。倒れた時に打ったのだろう、他よりもわずかに腫れていた。
「その声は……ティロル様?」
ティロルもまた、その声に聞き覚えがある。該当者は一人だけだ。
「ジャスパー!? あなたね? 無事なの? エル様が貴方を地下牢に入れたと……ここがそうなのね」
身を起こすと一面を覆っている格子がある。
そこまで近寄れば、隣の房の廊下側が見えた。
「ジャスパー、その姿……! 私を逃したせいで……っ」
ジャスパーは捕まるときに痛めつけられたのだろう。
頬にはアザがつき、衣服も乱れて擦り切れている。
「自分の意志でやったことの結果。つまり自分のせいですよ。それよりも、あんなに大口を叩いておきながら、こうなってしまい申し訳ありません。貴女までこんなところに入れられて」
「ううん、ごめんなさい。私、逃してもらったのに捕まってしまって。エル様は……貴方にまでこんな、いえ、ほかのみんなにだって。死した魂をあんなに揃えて恐ろしいことをしていた。……あの方は狂ってしまわれていた」
気を失う前のことを思い出し、ティロルは顔を覆う。
エルバイトの変化が、胸を苛む。
「ティロル様、聖堂を見たのですか。さぞ衝撃を受けたことでしょう……そしてご理解されましたね?
エルバイト様の愛は、最初から最後まで、ただただ聖女ロジンカにしか向いていないのです」
「ロジンカに……」
「ティロル様?」
エルバイトが狂ってしまったことも、ロジンカだけをあんなにも愛し続け求めていることも、ティロルにとっては衝撃だった。
手で覆った目から涙が溢れていておかしくない、というのに今のティロルは。
ティロルは微笑んでいた。
口元は勝手に笑みを形つくっている。悲しいはずのここで、なぜか笑ってしまう、それが、ティロルを困惑させた。
「私……どうしちゃったの? どうして、一体」
(こんなに痛ましいのに、嬉しい。私……、ちがう、ロジンカだ。だってエル様がロジンカを愛していると言うから)
歪んだ笑顔を見せながら困惑するティロル、それを観察していたジャスパーが、驚嘆の声を上げる。
「ティロル様!? ……貴方はやはり、ロジンカ様なのではないですか。ロジンカ様としてエルバイト様を覚えているのではないですか?」
もはやジャスパーに隠す必要はない。ティロルはうなずく。
「ごめんなさい。恐ろしくて、振り返って語ることすら辛いので、秘めてしまったのです。私には記憶があります。ロジンカとしての人生の。でも、それが? エル様がロジンカに似るよう、私の覚えている記憶も造られたのでは?」
尊いものを見る目で、ジャスパーは首を横に振った。
「まさか!! 肉体は擬似的に造れても、エルバイト様はロジンカ様の記憶を知らない。造りようがない。そうか……ならば貴女は、やはりロジンカ様! エルバイト様は成功していたのだ!! ロジンカ様を喚べたのだ……」
ジャスパーはそう言うが、ティロルの認識にはロジンカとの乖離がある。
自分が、あんなにもエルバイトに愛されているロジンカだとしても。
「つくられたのではないとしても……目覚めてからロジンカであるという自覚は、遠ざかっていくばかりなのです。ロジンカにはあまりに多くの悲しみが降りかかりすぎたから。今はもう記憶を抱えているだけの、別の自分を見るような感覚なの」
ジャスパーは痛ましいとティロルを憐れむ様子を見せ、それでも必死で問う。
「ティロル様、一つでいいから教えてください。ロジンカ様は、エルバイト様にどういう思いを抱いて命を失ったのですか? 人柱に追いやったと、恨んでいたのですか?」
ロジンカとしての自覚が足りなくても、これだけは断言できる。
「いいえ! ……愛していました。どんなに追いやられようと、命を要求されようと、ロジンカは『エル様に一目会いたい』と、想いを抱えながら死んだんですから」
ジャスパーが地下牢の床に手をつく。
「エルバイト様……それさえ、彼女の気持ちさえ、あなたに伝わっていたのなら!!」
ぱたっと落ちたジャスパーの涙が、乾いた牢獄の床に吸われていった。
「ジャスパー、貴方はエル様のそばにずっといたのでしょう? 教えて、エル様は……なぜあんなに愛しているロジンカとの婚約を破棄して、人柱にするため命を捨てさせたの? そんなことをしなければ、狂うほどロジンカを求めなくても、あんな非道を行わなくても一緒にいられたのに」
ジャスパーは顔を上げてティロルを見つめ、目を伏せた。
「……ロジンカ様の記憶からすれば、そうお思いになって当然でしたね。わかりました。私からお話ししましょう。どこから話せば……ああ、あそこからかな。エルバイト様がロジンカ様との婚約を破棄する前夜から」
◇◇
エルバイトは壮麗な王宮の自室から王都を見下ろしていた。
こうしているとき、よくそばに仕えたジャスパーも、最近エルバイトの心をふやけさせたティロルも、今や地下牢だ。
独りになって肌寒い感覚に、エルバイトは自嘲した。
(全部、自分で選び取り行ったこと。なにを寂しく思う必要がある。僕にはロジンカさえいれば、ロジンカさえ戻れば。それでいい……はずなのに)
窓硝子に優れた統治をする、でもとても残酷で、独裁的で、狂った君主が映っていた。
エルバイトは映り込む己に手を添えて、回想する。
ロジンカから手を離した時のことを。
あの時は、それこそ真っ当な判断だと思ったのに。今では後悔しかない。
彼女と共に堕ちようと、離すべきでなかったのだ、大切ならば。
何処までも彼女にしがみつくべきだったのだと。