15.逃げおおせた先で
稲光がして、ジャスパーはやがてくる雷鳴に耐えようと目を固く閉じた。
王宮は今、何度も轟く衝撃音と地響きに襲われている。
王宮の尖塔にはエルバイトの魔法特性を考慮し、避雷針が取り付けられているが、それは彼の魔法に耐え、役目を果たしている。
雷は地へと逃され、王宮とそこにいる者たちを傷つけずに済んでいた。
ジャスパーは今一度、重くなった空気を吸いこみ、静かに息をつく。
ティロルに「いざとなれば戦える」と偉そうなことを言ったものの、エルバイトが呼び寄せている激しい雷電だけでも、ジャスパーの魔法では敵わないと明らかだ。
魔法を扱うために必要な魔力というものは、求める心の少ない者には宿りにくい。
逆を言えば、求める心が強い者は強い魔力を得る。
エルバイトのように。
彼は低い魔力しか持ちあわせていない王子だった。
ジャスパーが教え、導いても、魔法を扱う者としては大成すると考えられなかった。
あと少し魔力が低ければ、他の資質が優れていたとしても王太子の座を譲ることになっていただろう。
それが今はどうだ。
ああやって感情に任せて雷を何発だろうと落としている。
膨大な魔力を必要とする、禍々しい魔法の数々も、魔力の尽きる気配さえ見せずに操るようになった。
「お呼びに参じました。エルバイト様」
振り向いたエルバイトは普段の壮麗な君主の姿を保とうとしていた。
しかし、細かに震える指先に焦燥が滲んでいる。
髪を無造作に掻き上げて、鋭い声でジャスパーに問い詰める。
「ティロルがいない。煙のように消えてしまった、どういうことだ」
二人の間に、沈黙が横たわる。
「奥王宮の警備はどうなっている?」
「申し訳ございません、エルバイト様。いまティロル様が室外から出て目撃されているか警備に確認をとっております」
「もう報告を聞いた。誰も何も見ていない! 誰かが彼女を拐かしたんだ。そうに違いない……誰だ……誰なんだ……この僕に逆らおうとする奴が、まだ残っているなんて」
「ティロル様が自ら消えた可能性もあります」
暗く翳った翠の眼がジャスパーを向いた。
「そんなことは起こり得ない! 掌握は完璧だった……ティロルが僕から離れないよう、甘美な夢の世界に閉じ込めてきた。自ら抜け出すなんて考えつくはずがない」
「エルバイト様、彼女をみくびりすぎではないですか? 肉体が魔法でできた疑似のものとしても、ティロル様はちゃんと喜怒哀楽と複雑な機微を備えた人間ですよ」
「だから? 僕の目的のための存在であることに変わりない」
「しかし、真の愛で無かろうとも貴方は彼女を愛でていたではないですか、情が移りはしないのですか?」
エルバイトは小さく鼻を鳴らした。
「倦んだ人生の慰め、それだけ。僕の大義の前では瑣末なことだ。もういい、ジャスパー、今のお前は不快でならない。下がってティロルの捜索網を構築し指揮を取れ」
「はっ」
苛立つ王に退室を許され、ジャスパーは胸を撫で下ろした。
このビリビリと痺れるのではないかと感じるほど威圧感が密な空間から、逃れられる。
扉までの十何歩かの距離、背後に感じる王の強い視線。
長く仕えるジャスパーですら彼の気迫が恐ろしかった。
◇◇
荷箱を揺らし続けた振動の後、持ち上げられたり、運ばれたり。ようやく周囲が落ち着いた。
箱から出ようとしたティロルだが、同時に荷箱の蓋が開いた。
のぞきこんだ人物と目が合う。
少し前に、さんざんその眼で見定められ、採寸された──
「ひゃっ、マ、マラカイトさん……!?」
「……おや、エルバイト様のお連れの方じゃないか、なんだって荷箱にはいってんだね」
ティロルは慌てふためきながら、ジャスパーに託された手紙を思い出した。
同梱されていた封筒をマラカイトに差し出す。
「ジャスパーからかい」
「ジャスパーのことを知っているのですか?」
「末の妹の息子だよ。つまり、甥っ子さ」
そんな血のつながりは予想外だった。
マラカイトとジャスパーは孫子と言われてもおかしくない年齢差でもある。
ティロルの考えたことを見通すように、マラカイトは答える。
「ふん、末のといったろう。間に九人の兄弟がいるんだ、末の妹と歩くと親子と間違われたものだよ」
裁ち鋏で封筒を開けたマラカイトは、椅子に座って手紙を読みだした。
ティロルは、一体これからどうなってしまうのだろう、手紙にティロルの先行きが書いてあるのだろうか、それが気になる。
「なるほどね、ジャスパーは国王陛下からあんたを取り上げたわけか」
伯母だからとジャスパーがマラカイトを頼ったことは正しかったのだろうか。エルバイトは彼女の上客で、忠義もあったように見えた。すぐにエルバイトにティロルを返すのではないか。
「あんた、ティロル。匿うよ。お得意さんは大切だが、あんたがそばにいるのはあの方のためによくないとさ、甥っ子の頼みを優先しよう」
「……ありがとうございます!」
「しばらく城下町は見張りが厳しくなることだろう、落ち着くまでこの家から出してやれないが、大口注文が落ち着いて、職人も休みを取ったとこだ、家の中は自由に使いな」
当面の居場所が決まった。
安堵したティロルは荷箱から出て、マラカイトに頭を下げた。
こうして、仕立て屋でのティロルの潜伏生活が始まった。
目立つ髪は巻いた布で隠し、窓辺に寄らず奥での簡単な雑用を手伝う。
最初の数日はティロルが隠れていた王宮から届いた荷箱、そこに入っていたドレス用の布地と宝石の仕分けをしていた。
荷箱の中身を仕立て屋の材料室に捌き、次にティロルに任されたのが、デザイン画や過去の記録整理だった。
「任せてくださってありがとうございます。私、がんばります!」
こういう雑用すら、ティロルにとっては経験のないことで、楽しく、達成感があった。
王宮から離れて二週間が過ぎ、ティロルは自分でも何かできるという自信や、仕事をこなせた充実で、清々しい心持ちになっていた。
エルバイトが与えた甘い毒が抜けた状態というのは、まさにこれなのだろう。
彼の誘惑も今となっては遠い。
そうなると実は愛されてなかったという心の痛みも薄らいできた。
このまま過ごせば、立ち直って、ティロルらしい生き方を見つけ、歩んでいける。
最近はそういう希望も湧いてきた。
「あ、ヘミモルちゃん。どうしたの? え、お昼ご飯? すっかり集中して気がつかなかったわ。ありがとう」
ヘミモルは九歳の可愛らしい女の子だ。
マラカイトの仕立て屋に住み込む唯一のお針子見習い。
注文が少ない時でもマラカイトの世話を焼くための小間使いをしてる。
幼い時から声が出せないらしいが、周囲は彼女を優しく育んでいる。
ティロルはヘミモルに肩口をひかれた。
昼食に急げということなのだろう。
「ごめんね、すぐ向かうから」
慌ててデザイン画の束を持ち上げれば、勢いで捲れ上がった数枚が落ちた。
床から拾い上げたそれらには、引き裾の長い高貴さのあるデザインのドレスが描かれている。
ヘミモルの無言の怒りはこじれると長い。
とりあえずデザイン画を机に置き、ティロルはキッチンに急ぐ。
小さなキッチンのテーブルには昼食が準備され、マラカイトとヘミモルがついていた。
「遅れてしまって、すみません」
謝罪に対する返事はないが、これは「もういい」という意味だ。
ヘミモルはしゃべれないし、マラカイトは必要外のことを話すタイプではないので、自然と食卓は静かになりがちだ。
居心地をよくしようと、ティロルは食事の際は一生懸命話題を探す。
「……さっき、整理しているもので引き裾の長いデザイン画を見ました、マラカイトさんああいうのもデザインされるんですね」
マラカイトの青緑の目がぎょろりと動いた。
「それかい? わたしのライフワークだよ。もう九年近くになるか、何十枚もデザインを更新して取り組んでるのさ」
「すごいですね、縫製にはまだ入らないんですか」
「デザインのままだねえ。新しいアイデアを思いつき次第取り入れて最高のものを、そう依頼されたものだからね」
「そんなに長く考えて作られるドレスなら、出来上がった暁に着られる方はきっと幸せでしょうね」
「そうさね……、そのはずだったんだけどねえ」
懐かしみ愛おしんでいるというのに、マラカイトは寂しそうだった。
「わたしもあの方も諦めきれない、ということなんだろうね」
ティロルは首を傾げたが昼食を終えたマラカイトはそれ以上言及せず、食器を流しに持っていった。