13.前兆たる享楽
「僕と遊ぼうか。ティロル、ここに座って」
エルバイトは客室の奥のベッドに腰掛け、ティロルが隣に座るよう手を引く。
一体何をして遊ぶというのか、怪しむとエルバイトがティロルの頬に触れる。
「ほら、こういうふうに戯れるんだよ」
金の前髪がふわりと額にかかり、ティロルの唇は突然に奪われた。
このあいだの舞踏会で、交わしたばかりの口付け。
しかしこれはまるで世界をひっくり返したように異なる領域の行為だった。
前触れなく熱が入り混じり、ティロルは息を呑む。
「エル様っ!」
まだ関係性もはっきりさせていないのに、こんなことを許してはいけない。
エルバイトは国王であり、理知のもと誠実でなければならない。
眼に潤みを感じながらにらめば、エルバイトはティロルの頬に手を添える。
「かわいいね、僕といっぱい遊ぼう」
まさに口封じ。
何度も、啄むようにキスを受け、エルバイトに愛でられている。
(こんなこと、間違いなんじゃないの?)
彼が望むなら……応えていいのだろうか。
聡明王とまで呼ばれる権力のある国王なら、今のティロルが得体の知れない存在なことくらい覆してしまえるのかも?
受け入れ続ける心地よさは、ティロルの心にとって蜜のよう。このまま、甘えても、いいのか。
体という器から、溢れる想いがこぼれる。
「エル様……私、エル様が好きです」
伝えた。単なる好悪ではなく異性として持っている好意を。
エルバイトは、ティロルの気持ちをどう考えるだろうか。
「うれしいよ、ティロル……渇きが、潤されてしまう。僕は、僕は……」
再び近づいた唇を重ねる。
これが、返事なのだろうか。
気持ちを表明したのに、今までとの変化を感じない。
それとも、ここを起点にこれからゆっくり変わっていくのだろうか?
「エル様……私とこんなことしていていいのですか……?」
「……会議のこと?」
エルバイトは微笑みを絶やさずに囁く。
「僕がいなくても回るようになっている。言わなくても、急に僕の機嫌が変わったと思って進めているさ」
たしかに、エルバイトが執務に割いている時間はとても少ない。
それでも国をよく回しているのだから、会議の一つ、彼には問題ではないのだろう。
「僕の取り立てた臣下は優秀なんだ、大丈夫だよ、大丈夫……」
会議のことに話がすり替わってしまった。あるいはわざと会話をずらしたのかもしれない。
言いくるめるようにエルバイトはティロルの髪を撫で梳く。
部屋の窓は大きく、外の木々がつくった複雑な影がガラス越しに室内と、ソファに落ちていた。
(だいじょうぶ……エル様が私とこうしていても。第二王子や王妃がいなくても、こうやってくれる直前にエル様が少し怖く思えたのも、大したことない。エル様は、態度で愛してくださっているから。考えずに、エル様に委ねたって……)
温かいぬるま湯に背で浮かんでいる、そんなふうに二人だけの世界は優しくゆらゆらして、ほかのことをかすませた。
◇◇
ティロルが初めてエルバイトと『遊んで』、ティロルが気持ちを伝えてから。王宮奥での生活は、彼の振れ幅の大きい愛情を受け止めるものになった。
二日に一度はエルバイトが部屋を訪れ、ティロルを膝に乗せて離さない。
手を繋いで、指を絡ませて。耳元で甘やかしたことを囁かれる。
かと思えばエルバイトは酔狂なくらい贅を尽くしたり、人を動員した催しを、連日繰り広げた。
「ほら、ティロル異国で有名なサーカスというから招いたんだよ。僕らのためだけの、公演だ」
「すごい……すごいんですけど、私たちだけのためにって、いいんでしょうか?」
「いいんだよ。君を笑顔にしたい。そのためならどれだけでも奮発するさ」
ティロルが楽しむかどうか、よりもエルバイトがそれで気を紛らわせられるか、が遊興の選定基準に思えた。
彼は、何かを……自分自身すら誤魔化そうとしている?
確かめようとすれば甘やかに接されてはぐらかされ、その繰り返し。
ずれた歯車が回転に耐えきれなくなって軋みを上げ始めているようだ。
(エル様が好きなことに変わりない、でも……)
このそぐわなさ、噛み合わなさはどこからくるのだろう?
自室での時間、ティロルがひとり憂いていれば、ノックの音が聞こえた。
(またエル様が遊びに誘いに来たのかしら?)
ドアを開けば、来客は滑り込むように素早く室内に入ってきた。
「ジャスパー!」
「失礼致します、ティロル様」
ジャスパーが入ってきたことよりも、その切羽詰まった様子が気に掛かった。
こんなふうに動揺を露わにして人前に出る性格の人ではない。
「どうしたの? エル様になにかあった!?」
「いいえ」
首を振るジャスパーの額には、汗が浮かんでいた。
「ティロル様、もう我慢できません! 私は、エルバイト様の意思に反してここに参りました」
驚いた。あれほどエルバイトの忠臣である彼が、反することがあるなんて。
信じられない。
「私はあなたをここから逃すつもりです」
「逃げる……? なんのこと? そんな必要ないじゃない」
「必要ないと思うようにされているだけだ。ティロル様、貴女は貴女が思っているより危険な状態なのです。このままここに居れば、貴女は想像を超えて恐ろしいものを見聞きし、その果てに命を奪われる事になる」
「何を血迷ったことを」、と笑えなかった。
ジャスパーは真剣そのものの表情をしている。
それに、最近の奥王宮は、崩壊前の空騒ぎのような虚飾と放蕩の雰囲気があったからだ。
「でも、なにがあっても、エル様が守ってくだされば大丈夫じゃないかしら」
それだけが縋れるものだ。ティロルの根拠。
ため息ひとつついて、ジャスパーが重苦しそうに口を開いて告げる。
「そのエルバイト様が貴女の命を奪うのですよ」