11.深淵のそばの王
楽師の一人が横の同僚を小突く。
「おいっ、奥の王宮なんだぞ? 思ってることをそのまま口にするものじゃない。噂を笑い飛ばして聡明王を支持してる人間が大半だ」
「だって、言いたくもなるぜ。俺は聖堂の関係者から聞いたんだ。……そりゃ聡明王としての腕は良いが、ヒトとしちゃお仕舞いだ。無数の死体をいじくって遊ぶ、狂人なんて」
「やめろよ……そんな迂闊なことを言いふらして。お前だけじゃなく俺まで、その死体の仲間入りとかゴメンだぜ」
風に乗って、楽師の会話はティロルの元へはっきりと届いた。
立ち尽くしていたティロルに気づいた楽師たちは顔色を青くし、話をとりやめた。
急ぐように、そそくさとテラスを出て行く。
(聡明王と言っていた、エル様のこと?)
しかし「狂っている」とは、なんて不敬な話だろう。
死体がどうとか。にわかに信じられないことだった。
エルバイトがそんな不気味なことをするはずがない。
なぜそんな、失礼極まりない奇妙な噂が流れているのか。
聞いたことを打ち消したい。
エルバイトの優しい笑顔が見たくなった。
ティロルはホールに戻って全体を見渡す。だが、ホールに彼の姿がない。
休憩の間にエルバイトもどこかへ行ってしまったらしかった。
ティロルは賑わうホールをそっと抜け出る。
奥王宮の人は皆、ホールに集まっているから、廊下はしんと、ひとけがなかった。
静かに回廊を進んだ先の分岐点で、ティロルは暗い中庭を眺めるエルバイトを見つけた。
「エル様」
「……ティロルだね、おいで」
ほんの一瞬だけ、足を動かすのが遅れた。
アーチ状の窓から闇に目を凝らすエルバイトは、見たことがない辛そうな、厳しい表情をしていたからだ。
上天の月、中庭の向かいには王宮の煌びやかな灯火がある。
しかし、エルバイトが目を凝らしていた辺りは植栽が植わっているだけで、ものの判別は闇に溶けていてできない。
「なにか、見えますか?」
「……深淵」
「水辺ではないのですが……」
ティロルの指摘はエルバイトにはどうでもよいことらしかった。
返答ではなく、手招きされる。
「ティロル、君と居ると甘ったるくて幸せな夢の中みたいだ」
幸せを語りながら、どうしてこんなにこの人は辛そうなんだろうか。
「でも、忘れられない、深淵が呼んでる。僕は求め続けなきゃならない」
「わからないです、エル様。エル様はいい王様だし、国だって栄えて、国民のみんなも楽しそうで、まだ何を求めているんですか?」
エルバイトは黙っている。
ティロルに手を伸ばし、頭をゆっくりと撫でて、じっと、見つめられた。
見守るような、凝らして見通そうとするような。
居たたまれなくてティロルが視線を泳がせても、エルバイトはティロルを注視し続けた。
その端正な顔立ちは星の煌めきのようだ。
周囲に燐光すら幻視しそうなほど美しい。
気まずさの限界がきて、ティロルは顔を横向ける。
「ティロル……、僕が嫌い?」
「まさか! エル様みたいにすごくて、カッコいい王様ほかに居ません! 嫌う人もいないでしょう? みんな慕っています! 私にだって、貴方は……素敵な人です」
エルバイトの暗い雰囲気が薄れる。
鮮やかな緑の瞳に情熱的なゆらめきが宿る。
こんな色気を醸し出す彼は初めてだった。
当てられて、頬は熱いし、頭もぼんやりする。
徐々に彼の瞳が近づいてきて、意識をエルバイトに持っていかれそう。
「なら、いい? ……ティロル、目を閉じて」
求められているのは、唇だとわかった。
幼い頃、意味がわからず。
意味がわかってからは求められず。
(やっと、エル様が交わしてくれる)
ロジンカとしての記憶が「ひどい、切ない」と訴えたが、ティロルとしては胸がときめいて仕方ない。
(ティロルとしてなら、こんなにかんたんにエル様に愛してもらえる)
目を閉じて、その時を待つ。
「……ん」
ふわりと一瞬だけ触れた、コットンキャンディのようなキス。
終わってエルバイトを見れば、ぎゅっと抱きしめられた。
「……いつだってかわいいね、ティロルは」
エルバイトは左腕でティロルを抱き込みながら、右手でティロルの頭を撫でてくれる。
なのにティロルではなく、中庭とその向こうの明かりを向いて言う。
「ティロル、僕はね、なくしてしまったんだ。求め続ける心の止め方もわからなくなってしまった。今は炎翼輝石という石の行方を追っている。君は……石の在処がわからないかい?」
(炎翼輝石。それはエル様が贈ってくれたもの。石ならずっと肌身離さず持って──)
──はっと気づく。持っていたのはロジンカだ。
(私は……私は持っていない!?)
ティロルは、自分がもはや炎翼輝石を身につけていないことを自覚した。
当然、行方は知らない。
あれだけがロジンカに残ったものだったのに。
ロジンカが死した後、その身に殉じた運命をたどっているはず。
エルバイトがこんなにも求めているのに、わからなくて、申し訳ない。
「すみません……わからないです」
この言葉に、エルバイトの表情が一瞬で凍りついた。
一切の感情を失ったような無機質さに、恐ろしさを感じる。
「エル……様?」
震える声で呼べば、エルバイトはすぐに持ち前の明るさを取り戻す。
「……ごめん! 変なことを聞いてしまったね、そうか、知らないよね。ぜんぜん気にしていない、大丈夫だよ」
ちゅっと、唇の音をたてるキスを額にもらった。
エルバイトの淡くて、優しい微笑みはティロルを安心させる。
(エル様は優しい。……どうかエル様の耳に、あの『発狂している』とかいう世迷い言のような噂が届きませんように)