Chat 10. 危険な誘惑と名札の罠
インキュバスと走り去って入ったのは、大人っぽい隠れ家のバーだった。
天井から吊るされた正多面体のランプが、優しい橙色の光で店内を照らしている。
客層もどことなく洗練されていた。
バーカウンターに座る女性は、腰の部分まで背中が大胆に開いた黒いドレスをまとい、カクテルのマドラーを気だるそうに回している。
「……場違い感がすごい。」
リサは思わず呟いた。
仕事帰りのリクルートスーツに、お気に入りのピアスをつけただけの堅苦しいファッション。
おしゃれな空間の中で、自分だけが浮いているような気がする。
「まあ、真面目そうだよね、お姉さんは。」
隣に座ったインキュバスが、からかうように微笑む。
バーカウンターに並んで腰掛けると、初老のマスターが静かに会釈し、メニューをすっと差し出した。
赤い蝶ネクタイが、薄暗い店内でひときわ映えている。
リサはちらりと彼の動きを盗み見る。
シェーカーを振る手首のスナップ、グラスを拭く仕草の一つ一つが、驚くほど洗練されていた。
(なるほど……アカデミー時代の友達が「イケおじしか勝たん」って教授に熱を上げてた気持ち、ちょっとわかるかも。)
「ご注文、如何いたしますか?」
低く響くバリトンボイスに、リサはふと顔を上げた。
その瞬間、マスターの口元からちろりと覗く舌に目が留まる。
――スプリットタン。
さらによく見ると、彼の瞳孔は縦に裂け、まるで蛇そのものの目をしていた。
蛇の獣人――。
悪魔を連想させるとして、一部の人々から嫌悪されることもあり、多くの者がその特徴を隠して生活している。
しかし、この店のマスターは隣のインキュバスと同じく、堂々とその姿をさらしている。
リサの戸惑いに気付いたのか、インキュバスがくすっと笑った。
「気づいたみたいだね?」
「……あ、うん。」
「ここ、みんな偽装魔法なんて使ってないよ。マスターもこんな感じだし、偏見持ってるやつは即退場ってね。」
リサは改めて周囲を見渡す。
美しい羽を持つハーピー、立派な山羊のツノを生やした男――様々な亜人たちが、それぞれの特徴を隠すことなく談笑している。
「お姉さんは、どうなの?」
ふと投げかけられた問いに、リサの脳裏にジュールとナターシャの顔が浮かぶ。
獣人は“獣に近しい存在”として、長い歴史の中で偏見と差別を受けてきた。
悪魔の血を引く亜人もまた、忌み嫌われることが多かった。
だからこそ、多くの獣人や亜人たちは、魔術で特徴を隠して生きる道を選ぶ。
――でも、ジュールはジュール。ナターシャはナターシャ。
それは、変わらない。
「亜人や獣人である前に……」
インキュバスが興味深そうにこちらを見つめているのを感じる。
「あなたは、あなたでしょう?」
リサはそう言いながら、小さく微笑んだ。
心からそう思う。
社会の価値観がどうあれ、自分だけは偏見を持たずにいたい――そう、願う。
インキュバスは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに納得したように笑みを浮かべた。
「そういうところ、素敵だと思うよ。」
そして、彼はにこりと笑いながら手を差し出した。
「俺はルイ。よろしくね、リサさん。」
「うん、よろしく……」
言いかけた瞬間、リサははたと気づく。
――名前、教えてないのに。
一瞬、冷たい汗が背筋を伝う。
ルイは、リサの動揺を見透かしたかのように、いたずらっぽく微笑む。
「今の顔、いいね。でも、恐怖の感情はあまり美味しくないかな。」
ルイは顔をわずかに顰め、リサの胸元を指さした。
「……クビに名札がぶら下がってるよ、リサ・ヘミングウェイ先生。」
「えっ!?」
気づけば、名札がジャケットの襟元に引っかかったままだった。
ルイは名札の端に指を絡めると、リサの顔を少し近づけ、囁くように言う。
「不用心だと、俺みたいな悪い男に攫われちゃうよ? まあ、さっきは本当に攫われかけてたけどね。」
リサの顔が一気に赤く染まる。
「気をつけなよ、お姉さん。特にマッチングアプリの最初のデートとかは――ね?」
全て見透かされている事実に、リサは羞恥に震えた。
「……今、恥ずかしいけど…」
ルイが唇を舐める。
「ちょっと嬉しいでしょ。さてはドM?」
死にたい。リサは、強くそう思った。
こう言うルイみたいな知り合いがリアルでいるんだよなぁ。
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