第1ー3話 -息子-
一度失った大切なものを拾い直すことができたら
きっと失う前より大切なものになる。
だから、拾い直す機会は多く存在しないのだ。
花々の高らかな旋律が目に優しい時期であるというのに、それに似合わない暗幕の陰りに優れない日中。曇り空と心模様を同じくする女性は、何かを見つめ続ける息子へと視線を移す。
あの日からウォルスは豹変した。
雨を吸い尽くす大地の如く言葉を覚える様子に、発達した知能を垣間見たテリスは疑念を加速させた。
頻繁に話しかけるテリーゼは自分のおかげだと喜び、仕事で不在がちな夫ウォードも嬉しいことだと言った。
(そうは思えない。この子は何かおかしい)
言語が何かを知っている。表面的な意味などではなく、概念そのものをだ。そう思わせる説得力を今のウォルスは確かに持っていた。
姉を師として家の中を冒険するその様子にテリスは不自然さを感じた。
ものを知りたがるのはなるほど、子供らしい。だがウォルスに関して、それとは違っていた。
姉を追いかけて、世界の未知を探求しているのだ。知らないところに訪れては自然に姉に尋ねる日々。
1歳、自我の芽生えも怪しい年齢で、物に触れる許可をとる子供。6歳のテリーゼにも出来ないことをしてのける赤子に寒気がした。
一度興味を持ったものに執着する赤子らしさは無く、あっさりと次の好奇心に従う。
禁止されたことは絶対にせず、時には姉を制止する1歳児の姿は確かに歪である。
稀に姉を急かす様は、成長を急いでいるようにも見えて益々怖気が走る。
テリスはウォルスの背後に、ウォルスと別の知能の存在を幻視した。
確かに、テリスは凝り固まった疑念の眼鏡を通してウォルスを見ていた。夫のウォードにしてみれば好奇心旺盛すぎると言える程度のことであり、テリスの疑いは一般ではない。
しかし、姉テリーゼと弟ウォルスを側で見続けた母は確実に違って見えていた。
(この子は何かに取り憑かれている)
魔力と神秘に満ち、非現実が現実となるこの世界に生きる彼女は易々とその考えにたどり着く。
奇妙な光、風に乗ってきた噂。自分の母から伝え聞いた[御伽話]。
彼女に根付いた数々の種が芽を出し、子葉をつける。
その時からテリスは、我が身を痛めて産み、愛らしかったはずの顔を見られなくなった。息子を避ける自分にも嫌気を抱えてていて、そう自覚できる薄情さでさえも醜いのだ。
ウォルスを避けるようになってからは、むしろ悪寒が止まらない。察しているのだ。
まだ1歳と半年にもならない、知能の未発達な子供が母に避けられていることを。
テリスはもう、その子供を息子だとは思えない。
順調に育つ疑念の花。残すは、蕾を開花するのみであった。
澄んだ空気が肌に汗を忘れさせる冬が来た。太陽が顔を見せているというのに、テリスの心模様は優れない。
ウォルスが家に住むようになって二度目の冬だ。
去年も雪が降っていた。一昨年も雪が降っていた。
子の生誕を祝うように毎年降っていた雪が今年は降っておらず、テリスは寂しいとも嬉しいとも感じた。
夜になった。暗闇にときめく星々が生誕2周年を快く祝えない心を火傷させる。テリスは子供を息子と思えなくなった自分を笑われているような気がした。
2歳になったねと弟の成長を喜ぶテリーゼの声が痛かった。
ウォルスは寝ている。姉との大冒険を終えて英気を養っているのだ。穏やかな寝顔に毒気を抜かれたテリスはその顔に懐かしさを見た。
(前もこんな顔を見たことがある、気がする。あれはいつだったかな)
全てが変わった1年前の夜と同じ穏やかな顔を浮かべて眠るウォルス。
あの夜から一変してしまった自分を責められているようで、テリスは目をつむる。
寝ている隙に様子を伺うテリスは自分は醜く卑怯だと、自罰する。
ふと、ウォルスの頬が歪む。空を泳ぐ腕と、開閉する手。
小さい口が悲しみの声を上げていた。
「ああ、ああ、ああ」
ウォルスの瞳から涙が落ちる。悪夢に魘される幼い子供のように。
そうか、あの時も何か夢を見たのかもしれない。幼い自分の未成熟を責める夢を。
「ウォ……」
心配に逸る気持ちを、1年の後悔が許さない。
母の資格、1年の間この子を蔑ろにした者に、触れる権利もないのではないかと。
躊躇いがちに伸ばされた腕と力無く丸まった手が重力と共に落ちていく。
(テリーゼにお願いしよう…)
ウォルスが懐いている、自分より年下の少女に頼みつく。
大人であり、ウォルスの母であるはずの自分が、この場においては無力だった。
その上、頼った相手が導くべき娘だと言うのだからいっそ惨めだ。
テリスはウォルスに頼りない背中を向けた。
テリーゼの元へ向かおうと足を進めるが、1歩で停止することとなる。
「…………さん、か………さん…かあさん……」
先ほどまでの足かせをどこへ投棄したのか、距離も離れないと言うのにテリスは走り出す。彼女の胸に巣くったモヤを置き去りにする速さで。
無我夢中だった。彼女に根を張った疑念も、大切な1年を失った後悔も、それでも頼ってくれた喜びも、何もかもを忘れて、この瞬間はただ我が子を想う母になれたのだ。
テリスはもう、息子を疑わない。
子が頼ってくれる限り、紛れもなく自分は子の母だから。
「ウォル!ウォル!ウォル!」
体を揺らす。寒い夜で声が響くことも忘れて、叫ぶ。
悪夢を晴らし、声が届くように。
気持ちが届いたのか、ウォルスはスッと目を開けた。
「ウォル!よかった目が覚めた。怖い夢だったね。大丈夫だよ、お母さんがいるよ」
心がこもった自分の言葉に今度こそ決心する。
この子の母でありたいと。失った1年はもう戻らないけれど、まだ遅くはないと信じて。
さて、この世には一つの事実が存在する。母に隠し事をできる子はいない。
少なくとも、母としてやり直すと決心した今のテリスに隠し事は不可能だ。
ウォルスの様子がどうもおかしい。泣くのを我慢しているのだ。テリスの腕の中では安心できないのか、弱さを隠そうとする。
テリスは深く後悔した。
今まで息子のことを何も見ていなかったのか。娘が率先して世話をしてくれたのをいいことに、向き合っていなかったのではないか?この子に安心を与えてやれていなかったのではないか?
今も顔を隠そうとするウォルスに、テリスの中で今までの疑問が腑に落ちた。昨年もきっと今みたいに夢を見たのだ。赤子を大人する程恐ろしい夢を。自分自身を守るために成長を余儀なくさせる程、鮮明な夢を。
私がこの子を守ってやらないといけない。この子を子供にしてあげないといけない。
自信を持たないテリスには、自分の中に答えがなかった。したがって思い返す。母が子にしてやれること。かつて自身がそうしてもらったように。
淡青色の、寒色の髪に拘らず太陽のような暖かさのある母だった。あの人の声を、温もりを、その一つでもこの子に与えられたなら。
子守唄を歌う。
遥か遠き故郷にいるだろう母を宿して。
次の話は間話になります。
この話を補完する重大な内容ではありますが、[この作品の楽しみ方]をお読みの上でご覧ください。