第1ー1話 -祝福の赤子-
子供にとって母親は世界そのものです。
蝶や花よと愛を受け、結晶となって体を構成する
だからこそ、偉大な母に捨てられた子供は、それでも母に縛られるのだ。
落ち着きのない少女だ。座ってみたり、転がってみたり、走ってみたりと楽しそうにはしゃいでいる。けれど一定の範囲を離れようとはしない。
しきりに扉を気にするその様子は、向こう側が気になるのだろう。待ち遠しそうな顔を浮かべては、不満の表情をする。子供らしい百面相が微笑ましい。
肩まで伸びた淡青色の髪を揺らし、軽快な鼻歌を弾ませながらその時を待っている。
きっと今日は晴れているのだろう。
扉の側でうずくまる少女だ。膝を畳み、両の腕で固く耳を塞ぐ。
殻にこもった小さい体は世界に1人取り残されたようだ。
そんなに恐ろしいならばその扉から離れれば良いというのに、やはりか扉をしきりに気にしている。幼い少女にとって、恐れに勝る何かが部屋の中にあるのかもしれない。
今日はきっと雨が降っている。
何かあってはいけない、絶対に入ってはいけないと父に強く説得された少女。
少女がうずくまる横の扉を、女性の痛哭な叫びが貫通していた。澄んだ冬の冷たさと肌を伝う乾燥が女性の慟哭を響かせる。
少女にとっては母の悲鳴だ。
少女の世界の半分とも言える母が、ずっと前から苦しんでいる。今も部屋に入ることを許されない少女は母を励ますことさえできないのだ。
少女は世界で一番無力なのだ。
少女は無自覚に知ることになる。世界には、明けない夜もあるのだと。この傷は大人になっても消えることはない。なぜなら子供は純粋なのだから。
一度も聞いたことのない、強い母の苦しむ声を5歳の少女に堪えろというには酷であった。
大粒の涙に濡れた服は、少女の体温が無ければ、冬の寒さに凍っていただろう。
暖炉の火から距離のある場所で、彼女の体は冷え切っている。しかし、寒さは彼女の心を脅かさない。
母の悲鳴が止まった。声が、聞こえない。声が聞こえないのだ。母の声が聞こえない。状況を知らない少女には、それしかわからない。だが、父は大丈夫だと言った。
だから、
(大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫)
ぎゅっと目を瞑る。手に力が入り、震える腕で頭を覆う。浮上してきた恐ろしい想像を両手で薙ぎ払えるように。強い母の思い出を引きずり出すために、心の底に手を突っ込むのだ。
そんな少女の心配を知ってか知らずか、声とも取れない声が耳を打つ。
「おぎゃー!おぎゃー!おぎゃー!」
同時に扉が開け放たれ、中から男が出てきた。
その男、少女の父が殻に籠った少女を持ち上げる。
「テリーゼ、生まれたぞ!赤ちゃんだ、弟だよ!」
その朗報に少女、テリーゼの涙がピタッと止まる。
やけに暖かい父の腕の中から部屋を覗く。
はじめに、今日のために来てくれた、曰くなんでもできる村長に目が止まる。彼は素早い動きで布で何かを覆った。少女に何かを隠したことすら悟らせない手際で。
振り返り、朗らかな笑顔を浮かべた彼は左手を広げながら言った。
「おめでとう。お母様もご無事ですよ」
少女の泣きはらした目を見て、その心中を察した村長が母へと視線を誘導する。
彼の動きに沿って首が動く。
寝台に倒れる疲労しきった母、その絶え絶えの呼吸に母の命を感じる。
側には、この部屋で最も存在感を叫ぶ赤子が寝ていたが、少女の瞳は映さない。
父の影響だろう、5歳という若さにして命を理解する少女は永遠の別れが何かを知っていた。母が生きている、すごく疲れているけど大好きな母が生きている。心を満たす母への気持ちが、自身の冷たさを心配する父も、手際良く産湯を用意する村長も忘れさせる。
父の腕を振り払い母の元へ走り出す。
やはり子供にとっては母なのだ。
「おがあざん!おがあざん!」
涙でグズグズの顔、あんなにねだった弟を目前にして「お母さん」とは、余裕のない母も笑ってしまった。
「ふふ、赤ちゃんよりもお母さんなの?」
母の言葉に目を丸くしたテリーゼ。母の目線を追ってようやく赤子を見つけた。父ウォードの灰と、テリーゼよりも青の濃い、母テリスの淡青を合わせたような灰青色の髪の毛の赤子。
村長が産湯に入れるところだった。村長の腕に隠れて体は見えない。
「え?……え?えっ…………いもうと?おとうと?」
あっさりと顔模様を晴らす。
愛娘が自分の言葉を受け取っていなかった事実にウォードが悲しげだ。
「弟ですよ」
村長がテリーゼに返事をする。
この日姉になった少女は未来に思いを馳せ、眩しい笑顔を浮かべるのであった。
今も雪が降るこの村に、この部屋だけは一瞬早い春が顔をだす。少女の笑顔は上気した赤さに彩られている。
少女の太陽のような笑顔といえど、夜の雪は溶かせない。赤子が冷えてしまわないように、暖炉の近くに用意した産湯に赤子を入れながら、村長は思慮に耽る。
(やはり、家族というのは良いものだ)
その感傷の目に何を浮かべているのだろうか。なんでもできると豪語したらしいその村長は、本当に大抵のことができる。
部屋にいる夫婦子供の4人とは違った特徴的に尖った耳。透き通るような美しい緑髪を後頭部に結えた村長は精人族と呼ばれる。
長寿だとされている彼らは600年を生きるのだそうだ。しばらく前に500の大台を迎えた彼に知らないことは(ほとんど)ない。
手際よく赤子を洗っていく。きわめて丁寧に、慎重に。
助産師が本職ではないのに、慣れてしまった一連の工程を済ませていく。
突如、予兆もなしに赤子が青白い光に包まれた。
長い人生でも幾度となかった神光の如く尊き眩さ。膨大な魔力が消費された時特有の青白光。
視力を奪ってしまうほどの閃光が、赤子の体から放たれている。
(っ!!……何が起きている!)
村長は腕で目を庇いながら動揺した。
ここは狭い村だ。専門の医者などおらず、むしろ村長こそが医者の立場にあったのだから出産には何度も立ち会った。同族の赤子の出産も幾度か見たことがある。
しかし、発光する赤子など見たことがなかった。経験豊富な村長でさえ動けないでいる異常事態に、他の3人が冷静でいられるはずもない。
他と違う赤子、異物を見る目をした母親、動揺に狂った父親。
彼の後悔か、彼が見てきた惨状か、誕生を祝福されない赤子の存在を見てきた彼は、自分がこの事態を打開せねばと焦る。
これまでに蓄えた経験を、強引に呼び起こす。
魔力光を見たのはいつ、どこで、どんな状況だったか。人為的か、自然発生か。
巡らせる思考に、記憶の遡行が追い付かない。
そのとき、東側の窓が僅かに青白く輝いたのを村長だけは見逃さなかった。
透明度の低い窓でも光くらいは通すのだろう。
青白い魔力の光、魔術ではない。魔法の光。
赤子は輝きを失って、部屋に沈黙が落とされる。
焦る心を鎮め、1つずつ情報を整理していく。彼は答えの導き方を知っていた。
動揺していても思考が回る村長はやはり長寿相応の経験を積んだ精人族だ。
魔法、東に見えた光、世界樹の森、精人族の里。
魔法使い。
フ《・》ロスフィア
確信できた理由は彼にしかわからないけれど、結論を得る。
魔力光の原因にあたりを付けた村長は残る問題に目を向ける。赤子の家族だ。
魔力光を見たことのあるものは世界中探してもわずかだ。
辺境に位置するこの村では尚更、知る者は村長のみである。
非現実的で不気味な子供を、この家族は受け入れられるのか。
不安を抱える村長は慎重に言葉を選び、口を開こうとしたがしかし、言葉が出なかった。
テリーゼが先に声をあげたのだ。
「すごい、すごいよ!お母さん、お父さん!ピカッてしたね!きっと神様が見てくれてたんだよ!」
少女には神秘的な光景に見えたらしい。
幼い頃から、「神様は子供達を見守っている」と言われ育ったためにそう思ったのだ。
村長は本当に素敵な子だと、テリーゼを尊敬した。
村長は彼女の言葉に乗っかることにした。努めて幸運であるかのような顔を作り、赤子の父と母を一瞥して言葉を編んでいく。慎重に。間違えないために。
「ウォードさん、あの光は魔力の光です。テリーゼさんのいう通り神様の加護、のようなものです。あなた方のお子様は[恩寵]を得たのかもしれません」
彼らは信心深いわけでもないが、二度繰り返せば真実味も増そう。わずかに混ぜた嘘を巧妙に隠す。
あの魔力光は確かに神を思わせる力であったし、それが赤子に良い作用を働くこともわかっていた。しかし、このまま騙し通すことは出来ないと思った村長は提案という形で誘導する。
「知己に詳しい者がおります。彼が4の年を迎えた時にでも伺いに行きましょう」
そして最後に釘を刺す。彼はもう、失敗しないのだ。
「御三方、誠におめでとうございます。」
夫妻は顔を合わせて歓喜した。それを見たテリーゼも嬉しそうだが、訳もわからずと言った具合だ。
なんとかなったと、村長は今も宙に浮いた心を着地させる。
この頃には窓の光もおさまっていた。
(よかった)
言葉にしなかったつぶやきを、1人の少年へと飛ばして。
しばらく第1話が続きます。
主人公は第2話まで一言も話さないかもしれません。
あの世界で生きている彼らを、私はもう少し見ていたいのです。
余談です。
登場人物の詳しい設定などは主人公の成長と共に開示して行きます。父の仕事や、村長の後悔、フロスフィアの正体などなど。日常から物語の根幹に関わるものまで、回収すべき伏線(?)かは分かりませんが、彼と共に歩み、彼と共に世界を見に行きましょう。