相合い傘
僕は大切な人と二人で歩いていた。
何の意味もない。
ただの散歩だった。
空模様は曇り空。
君はしきりに「別の日にしましょう」なんて言っていたけれど。
僕は言ったんだ「今日でもいいだろう?」って。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして君は「雨に濡れてしまいます」と言ってくれたね。
その気遣いは本当に嬉しかった。
だからこそ「時には濡れて歩くのもいいだろう」なんて我がままを言ったんだ。
君はため息をついて頷いてくれた。
「かしこまりました」
その言葉だけは好きじゃなかったけれど。
それでも僕は今、こうして歩いているのが幸せだった。
私は大切な方の一歩後を歩いています。
空は今にも雨が降りそうな曇り空。
風邪を引かれてしまうことを恐れた私の言葉にあなたは言ってくださいました。
「良いじゃないか。ずっとこうしたかったんだから」
その言葉に私はあなたが抱えていた積年の想いを察しました。
それが何よりも強く幸せを感じさせましたが、だからこそ私は言ったのです。
「雨に濡れてしまいます」
けれどあなたは仰いました。
「時には濡れて歩くのもいいだろう」
そんなあまりにも子供染みた態度に思わず呆れてしまいました。
だけど、それでも。
その我がままが嬉しかったのです。
だからこそ答えました。
「かしこまりました」
歩いている僕と君の頭に雨が落ちた。
君が風邪を引くのは困るな。
そう思って僕は立ち止まり、振り返った。
そして、その時、初めて君が僕より一歩後ろを歩いていたことに気が付いた。
雨が一つ、あなたの頭に落ちたのを私は見ました。
あなたが立ち止まり振り返った時には既に私は傘をさしてあなたの頭上を覆っていました。
そんな私を見てあなたはじっと私を見つめていました。
だからこそ耐え切れず私は言いました。
「ご主人様。戻りましょう。このままでは風邪を引いてしまいます」
その言葉を聞いた直後。
僕は強い感情に支配された。
その言葉を言ってしまった直後に。
私は自らが失態を犯したことに気づきました。
「先日、僕は君にプロポーズをした」
「はい。おっしゃる通りです。ご主人様は奴隷である私に告白をしてくださいました」
「君は受けてくれたよな?」
「はい」
「確かに君は何度もそれを断った。けれど、それは立場故の悩みであったと君は話してくれたよね?」
「……はい」
「僕はそれを気にしないと言った。そして君は僕の心を受け入れてくれた。そう思っていたのは僕だけかい?」
「いいえ! それだけは! それだけは違います!」
僕の言葉を必死に否定する君の姿が少しだけ腹立たしかった。
君はきっと、今、この瞬間にも自分の出自を気にしている。
そのことに頭を支配されて、僕の気持ちに気づいていない。
もしかしたら、君自身の気持ちにも。
「僕は今、とても怒っている。それが何故か分かるかい?」
「はい。私がまだ奴隷時代である癖が抜けていないからです」
「違う」
「では、私は何をしてしまったのでしょうか」
震える声で私は尋ねていました。
侯爵夫人の地位なんていりませんでした。
どのような形でもあなたの傍に居られれば良いと思っていたからです。
だからこそ、あなたの怒りが恐ろしかったのです。
もしかしたら、冷めた心から私を追放してしまう気がして。
「僕たちは夫婦だ。妻である君だけが濡れるなんておかしいだろう?」
そう言ってあなたは私から傘を取り、私の方へ一歩近づいた。
「しかし、風邪を引いてしまいます」
君の持ってきた傘は本来は僕だけを包むものだったから、サイズが小さくて僕ら二人をしっかりと包み込むことは出来なかった。
だけど。今この瞬間に限って言えばこの広さが心地良い。
「君が僕に風邪を引かれるのと同じくらい、僕も君に風邪を引かれると辛いんだよ」
僕の言葉に君は顔を赤くした。
その顔を見て、きっと僕も頬を赤くしているのだろうなと思った。
私は自分の顔が赤くなっているのを感じました。
けれど、あなたもまた顔を赤くしていて、それがたまらなく愛おしいと思いました。
狭い傘の中、僕はもう一歩近づいて君に囁いた。
「もう少し歩こう。傘は僕が持つから」
「はい」
「一緒に歩こう。傘は狭いから」
「ありがとうございます」
その言葉に僕はふざけて顔をしかめて見せた。
これで伝わるといいのだけど。
あなたの言葉を受けて私は心から嬉しく思いました。
だからこその感謝の言葉でした。
それでも、あなたの顔を見て何を言うべきか悟り、深呼吸をして緊張を抑えようやく声に出す。
「あなた、ありがとう」
この言葉が正しかったのなんて、あなたの顔を見る前から分かっていた。
「それじゃ、行こうか」
あなたの言葉に私は返事をする。
「うん。だけど、あまり濡れないように」
「お互いにね」
私とあなたは笑った。
薄暗い雲の隙間から落ちて来た雨の雫はあまりにも小さい。
そんな細やかな雨音の中、侯爵夫妻の散歩はもう少しだけ続いた。