プロローグ
大陸北部にそびえるピカロ山脈。
山頂は解けることのない雪に覆われ、その頂ははるか雲の上である。
ピカロとはこの地方の言葉で“小さきもの“を意味する。神話の時代、創造の神リエトと破壊の神ストラが、「このピカロより小さきものには、神々の力は振るわない」と決めたことに由来するという。
まさにその雄大さは、自身が小さき存在であることをまざまざと突きつけられるようであった。
~英雄たちの道標 著者 フィリップ・ブルネル
「これを小さきものと称すか…」
行商人の操る馬車の荷台で揺られながら、山の頂を眺め老剣士は呟いた。
おおよそ70歳に差し掛かろうというところだろうか。
旅慣れた装いであり、鞄やローブはくたびれているものの、腰の剣と靴はしっかりと手入れされているのが見てとれた。
年齢からくるものだろうか、落ち着いた印象と相まって、幾多の死闘を潜り抜けてきた雰囲気を思わせる。
「剣士の旦那は、ここいらへ来るのは初めてですかい?
と言っても、この先へはほとんど人の行き来もありゃしませんがね…」
老剣士の呟きに気付き、御者席から商人の男が声をかける。
なるほど、麓の町のあたりはある程度整備された道が通っていたが、この辺りの山道はあまり整っているとは言えない。
「最近は中央へ向かう街道が整備されてきたと聞きまして…。
うまく利用して1発当ててやろうと思っとるんです」
そう語る男には少し疲れが見えるものの、商人特有のギラギラした目をしている。
なんでもこの辺りの山では、冬に良質な氷が取れるのだとか。
冬の間に氷を切り出して氷室に保管しておき、夏になったら街まで運び貴族や豪商に売りつけるのだという。
たしかに夏に氷を安定的に供給できるとあれば、ここより南の王都や平原の交易都市で、ひと財産築くことも夢ではないだろう。
とは言え、街道の整備には時間がかかるだろうし、それに向けて何年も前から氷の採取場所の確保や、山道の整備を行おうというのである。かなりの大博打であることは間違いない。
実際、町の酒場で働き手の募集をしていた際も、随分と周りからは馬鹿にされている様子であった。北部であるために春先まで雪の残るこの地域では、夏でも比較的涼しく過ごしやすい。いつ整備が終わるとも分からない街道を頼りに、自分たちには馴染みの深い氷の販売を考えるなど、普通は理解できないであろう。
ちょうど良いと、護衛の代わりに足と食事を提供してもらう約束を取り付けたのが、一昨日の夜のことである。
これから、開発途中の野営地に物資を運ぶのだという。人集めはそのついでで、後ろの荷馬車を見るに幾人かの勧誘には成功したようだった。
「おかげで、私はこうして楽に移動ができる。寝る場所はともかく、食事にもありつけるのだ。それに、街道の整備は思っている以上に早く進んでおる。なんでも魔獣を寄せつけないような結界魔法が見つかったようだ。もう5年もすれば流通は様変わりし、氷の流通は間違いなく人々の生活を大きく変えるであろう。私は其方には先見の明があると思う。」
まるで見てきたかのように語る老剣士であったが、その言葉には妙な説得力があった。
「そう言ってくれるとありがてぇ。あの山を前にすると、どうにも自信が無くなっちまいそうになりまして…」
「ピカロと言ったか…正しく霊峰なのであろう。この辺りのマナはとても濃いようだ。普通の者であれば、恐れを感じても無理はない」
「マナですか…。剣士の旦那は魔の理にも詳しいですかい?こりゃぁ、いい人を雇えたもんだ!」
王都に近い地域であれば、それなりに魔法を行使できる者もいるのだが、そういった者はたいていが貴族のお抱えや、自身の才で成り上がった者たちである。このような辺境の地で雇えるなど、普通はあり得ないことであった。
「フィリップ・ブルネル。フィリップで良い。それより、そろそろ雇い主の名前を教えてもらっても良いだろうか」
「こいつはとんだ失礼を、あっしはコロンと申します」
そこからは、コロンと名乗った商人の身の上話がつづいた。
なんでもコロンは、元は中央に店を構える宝石商に弟子入りしていたという。
店に出入りする貴族から、珍しい氷菓子の話を聞き、街道が整備される話と併せて、氷の流通に注目したとのことであった。
気づけば、フィリップもついつい話に夢中になってしまっていた。
道中、魔獣や野党の類に襲われることがなかったというのもあるが、フィリップ自身、コロンという男と何か縁があるように感じたのが本当のところであった。
「さて、そろそろ着きやすよ」
コロンの言うように、少し先の方から人が活動する音が聞こえてくる。
開発途中の野営地ではあるが、それなりに活気があるようだった。
コロンの人柄と、羽振りの良さがそうさせるのだろう。
「小さな規模と聞いていたが、結構なものではないか」
「いやぁ、まだまだこれからです。やるべきことは山積みですし、働き手はいくらあっても良い。
おーい、物資の到着だぁ。積み下ろしを頼む」
馬車をとめコロンが呼びかけると、幾人かが集まってきて荷下ろしが始まった。
荷下ろしが始まったのを確認すると、コロンが振り返って大仰に両手を広げた。
「では、改めまして。
ようこそ!我らが希望の地”ルスト”へ!」