(閑話)バイオリニスト
「夢だったのか」 部屋中に響き渡るバイオリンの音色に深い眠りから引きずり出されるように意識が浮上してくる。アラーム替わりに設定した愛の喜びの音色が寝ぼけ頭を覚醒させてくれる。ヤン フォンはゆっくりと起き上がってため息をついた。夢で良かった。
「随分変な夢を見てしまった」まだ夢の世界に囚われているような気がして、大きく首を振った。今日は大切な日だ。バイオリニストになることを夢に見て田舎からニューヨークに出て来た。田舎では天才と言われたけれど、ここでは自分位のバイオリニストは珍しくもないだろう。それでも、この音楽院に入学できれば一流の音楽家から学べる。子供の頃から音楽を職業にすることだけを夢見て頑張って来たのだ。父も母もやれるだけやれ、と言って送り出してくれた。
「こんな日になんであんな変な夢を見たんだろう?」
すごくSFチックな夢だった。未来の世界で物凄く文明が発達していた。そこは確かにこのニューヨークだったが、今のニューヨークとは全く違う。地上には光り輝く高層ビルが立ち並んでいた。その地下は地表にまさるとも劣らぬ大都会だった。人口の日光が地上に合わせて朝夕を知らせてくれる。そこで生まれたものにとっては雨が降ることもない、一定の気候の地下の方が地表より住みやすい。高層アパートや公園、遊興施設なども完備され地下にいることを忘れさせてくれる。夢の中の自分も地下で生まれて、そのまま一生を地下で過ごした。たまに地表に行くこともあったがなんだか落ち着かなかった。ヤンは地下のアパートに住んで地下の工場に通っていた。工場といっても重労働は機械がやってくれるので彼の仕事はその管理などで別に辛いことも難しいこともなかった。犯罪率も低く、休暇で珍しいところに出かけることもできた。良い暮らしのようだったが、どこか馴染めなかった。夢の中でもヤンは音楽が好きだった。曲を聴くだけではなく、自分で演奏したかった。しかし音楽は職業にできるものではなかった。数世紀も前にAIが人間の表現力を越えたとされ、人間がAIと競うのは生産的ではないという意見が一般的になった。インヒビターが強制になってからは音楽自体に対する関心が低くなったとも言われていた。職業の適性検査に芸術と言う項目はない。それでも趣味で歌を歌ったり、絵を描いたり、或いは楽器の演奏を楽しむ人は結構いる。ヤンもお小遣いをためてバイオリンを買い、自分で練習した。面白いように上達した。自分には才能がある、と思った。適性検査ではシステム管理に適性がある、といわれ企業の奨学金を貰ってそこそこの学校へ通うことができた。両親はとても喜んでくれた。バイオリンの練習を続けながらも、両親を失望させないように勉強し、無事に大企業に就職できた。やがて結婚し、子供を一人持ち、趣味の時間をとることは難しくなった。優しい妻だったが音楽に興味がなく、一緒に楽しむことはできなかった。いつか時間ができたら、と思いつつ、なかなか叶わなかった。100歳で仕事を辞め、漸く趣味の時間が持てると思った時、彼の指はもう昔のように音を奏でることはなかった。それを知ったときの深い喪失感は夢だとわかった今もまだ胸に残っている。
「夢で良かった。僕にはあんな世界はとても耐えられない」 夢の中で感じた絶望を、今日の決心に変えてヤンは試験に向かった。
ヤンは無事に入学試験に合格した。音楽院での勉強と練習は厳しかったが、挫けそうになる度、彼はあの朝見た夢を思い出した。あの夢の中で感じた絶望を思い出した。そうやって人一倍つらい練習にも弱音を吐くことはなかった。あの絶望に比べればただバイオリンを弾き続けることが出来るだけで幸せだ、と思えた。
ヤンは幾つかのコンクールに入選したが、優勝することはなかった。ソロのバイオリニストになることを夢見ない訳ではなかったが、バイオリンを弾き続けることが出来るだけで、幸せだと思った。オーケストラでバイオリニストとして演奏し、やがて地方の音楽教師となった。同じ音楽教師だった女性と結婚した。子供達にもバイオリンを教え、家族で演奏することもあった。
子供達、特に長女は素晴らしい才能があり大きなコンクールに優勝し将来が期待されている。そんな時、健康診断で末期の癌だと言われた。まだ68歳だった。無理な延命治療を断って自宅で静かに過ごしている彼の下には毎日のように子供達が訪れて演奏をしてくれた。
「こんな最期が迎えられるなんて、私はなんて幸せ者なんだろう。有難う」子供達の演奏を聴きながら妻にそう言って目を閉じた。最後に奏でられていたのは愛の喜び、だった。
「11時05分00秒、脳派停止、心肺停止。プログラム終了しました。ご遺体の確認をお願い致します」
「お父さん、幸せそうね」 涙を拭いながら付き添っていた娘が母親に言った。
「そうね。いくら価格が下がったとはいっても50年分はちょっときつかったけど、こんな幸せそうな顔が見られたなら良かったわ。私の時が楽しみになってきたわ」涙を拭いながらもいたずらっぽくそう言う母親に娘は少し不思議そうに訊いた。
「お父さんとお母さんは凄く仲が良いから2人一緒のラストドリームを注文すると思ってたのに、別々にしたのね?」
「それはね、お父さんには昔から夢があったのよ。バイオリニストになりたかったんですって。その夢をかなえるためには400年以上前の時代に行かなくてはならないでしょ?私はほら、あんまり原始的な生活は苦手だから、最後に見る夢でそんな世界には行きたくなかったのよ。お父さんはわかってくれたわ」
「職業的演奏家がいた時代、ね?じゃあお父さんはその時代できっと世界一の演奏家にでもなったのかしら?」 父の幸せそうな顔を見ながら娘はそう言って微笑んだ。




