(閑話) マリの楽しい夢
マリは6歳だった。
正装した母さんに連れられて教会へ日曜礼拝にきた。最初はうれしくておとなしく牧師様の話を聞いていたが、よくわからなくてじきに退屈になった。もぞもぞすると母さんが横目で睨んで静かにしなさい、と小声でいう。
「おしっこ」
本当はしたくなかったが、言ってみると本当にしたいような気がしてきた。
「もう少しがまんして」
母さんが困ったように言う。
「がまんできない」
本当に今にもお漏らししそうな気がして泣き声になった。
「しょうがないわね」
母さんは少し背をかがめて立ち上がるとマリをつれて礼拝堂から出て、すぐ横にあるお手洗いに連れて行った。しかし、牧師様のお話が気になる様子で、マリをお手洗いに入れると
「終わったらきれいに手を洗うのよ。母さんはそのドアのところで待っているから」
と言って一緒にお手洗いに入らず、礼拝堂の入り口に戻った。
マリはお手洗いに入ったが、なぜかおしっこはしたくなくなった。
すぐに出て行くわけにもいかないのでお手洗いの中を覗くと、家のと違って幾つもドアがあった。きれいにお掃除されているが、マリの家のお手洗いのようにきれいな花模様のタオルやふんわりしたマットもなくて、冷たい白いタイルの床だ。
誰もいなくて少し怖い。もしモンスターが隠れていたらどうする?
一緒にきてくれなかった母さんにちょっと腹が立った。もちろんモンスターなんていないことはわかっているけど。
マリはモンスターに殺された自分を白いタイルの床に発見して嘆き悲しむ母さんの姿を想像した。マリを一人でお手洗いに行かせたことを心から後悔するに違いない。
マリはチラッとドアを開けて外を見た。母さんはまだ礼拝堂の入り口にたって牧師様の話に耳を傾けている。
その時、ドアの横に隠れている小さな扉に気がついた。開けてみると、新しいトイレットペーバーが入っている。中は結構深くて、マリならかがめば十分入ることができる。
「そうだ」
母さんが入ってきたらここから飛び出して驚かしてやろう。マリは急に楽しくなった。
2-3分後、
「マリ、まだなの?」という声がして、廊下のドアが開いた。
くすくす笑いながら飛び出すチャンスを伺っていたマリは、母さんが個室のドアを3つとも開けて、マリがいないことを確認するまで待った。
「マリ!」
しかし、母さんはトイレの中にマリがいないと見るやいなや、マリが飛び出す前に大声で叫んで外に出て行ってしまった。
母さんの慌てた叫び声を聞いたマリは自分のやったことを後悔し始めていた。物入れから出ると、母さんにあやまろうとトイレから外に出た。
その時、教会のすぐ前を通る道路の上で車の急ブレーキの音がした。
マリの記憶からあの時垣間見た母の顔が消えることはない。
母さんはマリがいつの間にか外に出て行ったと思ったのだ。
マリは何度も同じ夢を見る。
教会の入り口から、恐怖に見開いた目の母さんが飛び出そうとする。それを白い人影が腕を広げて止めるのだ。
「あわてないで、マリはまだトイレの中よ。隠れているだけ」
そして母さんはトイレに引き返す。マリを見つけて、叱りながら抱きしめる。
幸せな、幸せな夢だ。その夢が現実になる日が来ることを神に祈って、マリは一生を捧げた。
そして、ついに神の奇跡は起きた。マリはその夢から目覚めることなく、幸せな子供時代を過ごし、結婚し、可愛い子供に恵まれ、平凡だが幸せな一生を過ごした。106歳という比較的若い年齢でその生涯を終えることにしたのは、かなり年上だった夫が先年亡くなり、もう思い残すことがなくなったことと、ひ孫達が少しでも早く子供がもてるように、と願ったためだ。彼らが自分と同じように幸せな生涯を過ごせるようにと願いながら、娘と孫に見送られて目を閉じた。
「死亡時刻 13時:05」
医師の声に立ち会いを許された数人の修道女達は涙を拭いながら、立ち上がった。彼らは4時間以上も跪いていたのだ。
「マリ様、お幸せそうです」聖母とまで呼ばれ、一生を神に捧げたマリに最も長く使えていた修道女が微笑みを浮かべて言った。
「きっと神の国に入る夢をみていらっしゃるのよ」と若い修道女が言った。
「マリ様なら、こんな方法をとらなくても、現実で神の国に行けたでしょうに」もう一人が不満そうに言った。ラストドリームは、教会からは自殺と見做されている。そのため、多くの人々に慕われたマリの最後が、マリのたっての希望でこのような形をとったことは、ごく一部の人間にしか知らされていない。教皇様からも思いとどまるようにとのお言葉があったという噂さえある。
「どんな神の国を見られたのかしら」一番若い修道女が、そう夢見るように言った。