157.無知の証明
「ドクター イェン?」望が首を傾げた。どこかで聞いたことがあるような気がしたのだ。
「望はもう少し歴史を勉強した方が良いわ」 ミチルが呆れたように言った。
「歴史で習った人だっけ?」自信なさそうに望が訊いた。
「有名なのはドクター ルイ イェンです。バイオテクノロジーの権威で、2420年に火星上で生活できる人間を創ることができると発表して話題になりました。その当時既に人間の遺伝子操作は禁止されていましたので実現には至りませんでした。失意のうちに引退し、中国の山間部に引きこもったとされています。ライ氏が資金を提供したドクター ノエル イェンは彼の娘です。当時山間部の病院を経営し、そこで医者をしていました」 ハチが説明した。
「火星で生活できる人類? それってもう人類ではないような」 望の言葉にプリンスが頷いた。
「当時発表された論文を読みましたが私達とはネアンデルタールと現代人より開きがありました。そうですね、ゴリラと現代人程度の違い、と言えばわかりやすいでしょうか」 プリンスの言葉にミチルがぞっとしたような顔をした。
「その父親の研究を娘が引き継いでいるってわけなの?」 ミチルの問いにハチが首を振った。
「彼女と父親の研究の関係は証明されていません。ちなみにライ氏のディフェンスは、ライ氏が個人的に彼女と知り合いであり、資金は病院の経営が苦しい時に助けた私的なものだと言っています」
「私的な関係?それってつまり...」ミチルが言葉を濁した。
「成程。その言い訳が認められれば法的には無罪になるでしょうね。政治的にはかなりのダメージでしょうが。まず間違いなく連邦代表の地位は辞退されることになるでしょうね」
「それでも、それでリーが無事なら...」 望の言葉にミチルも頷いた。
「そうよね。政治的な地位を諦めれば警察長官も納得するでしょうし」
「今わかっている情報では、それが一番無難ですね」 プリンスも同意した。
「じゃあ、リーは大丈夫だよね?」
「あくまでも、ドクター イェンとライ氏の関係が私的なもので、ライ氏は自分の資金がテロ組織に流れたことなど全く知らなかった、という事が認められれば、ということです」プリンスが難しい顔をして言った。
「多分ドクター イェンとテロ組織は何らかの繋がりがあったのでしょうし、中国政府もそう仮定して捜査しているはずです。しかし、ライ氏がそれを知っていた、との証明責任は政府側にあるわけですから何らかの証拠が出ない限り、無罪になる確率が高いと思います。ライ氏が知らなかったと証明するのは難しいですが、知っていた、と証明するのも同様に困難ですからね。ただ、こういった曖昧な結論ではライ氏の政治生命は終わりでしょうが」
「そうなんだ...でも、リーがとりあえず無事なら」望はそう言ってからハチを見た。
「ハチ、どこにもライ氏がテロ組織の事を知っていたと言う証拠はないんだね?」
「ございません。知らなかったという証拠もございませんが。ただ、あの地域の古いデジタルネットワークの中にリー様の遺伝子操作に関する同意書が見つかりました。消去致しますか?」
「頼むよ。他には何もリーの事は残っていない?」
「記録によりますと、リー様は双生児で、もう一人も男児でしたが、生まれてすぐに亡くなったとなっております。この記録も消去致しますか?」 ハチの質問に驚いた望はプリンスを見た。
「双生児? この時代にですか?しかも助からない、などということがあるのでしょうか?」 プリンスが考え込んでから言った。
「ハチ、その記録はコピーして見せてください。原本は消去してください」