第20話
「まだ脈を打っている。紅薔薇にふさわしい鮮やかな赤だ」
アンリエッタの心臓を握りしめた魔導士ソロモン。
口の端に残忍な笑いを浮かべている。
「わが屍術により、使役してやる」
知里は頭の中が真っ白になった。
まさか、自分との魔力衝突の最中に、ソロモンがアンリエッタを狙うとは――。
思わぬ不意打ち。
いや、スキルで相手の心を読むことに頼りすぎていた知里は、心の読めない相手が戦闘中に標的を変えたことに対応し切れなかった。
ソロモンが使ったのは〝忍び寄る影の刃〟。
聖龍教会に禁じられた闇に属する魔法だ。
闇魔法と屍術。
いずれも、魔術師ギルドからも禁呪とされている。
「アン!」
魔法で対抗しようにも、片手では術式の起動が間に合わない。
知里は叫ぶことしかできなかった。
「悪ィな、盗っ人女!」
喀血し苦しむアンリエッタの体を、剣士グンダリが容赦なく蹴り飛ばす。
もはや心臓を失った彼女に反撃の術はなかった。
グンダリは仰向けに倒れた彼女の体をまさぐる。
知里のスマートフォンを奪い取った。
「コイツは、いただくぜ」
グンダリは見せびらかすように、それを頭上に掲げた。
知里は射るような視線を2人に向ける。
攻撃したくとも出血のために体がふらつき、術式の起動が覚束ない。
何よりも、突然の裏切りにショックが大きすぎた。
心の弱さ、それが彼女の弱点だった。
「ネコチ殿。チャンスをやろう。あの女を助けたければ我がクロノ新王国に仕えよ」
そんな知里の動揺を見透かしたように、ソロモンは笑っている。
「は……?」
「そなたを引き抜くことは、我の目的の一つでもあるのだ。陛下は『六神通』の能力を欲している」
「陛下……って、ガルガ国王のこと?」
「ソロモン! そんな重要なこと、俺は何ひとつ聞いてねえぞ!」
ソロモンの真意がどこにあるかはともかく、知里はようやく合点がいった。
──クロノ王国が、チートスキル『六神通』を狙っている。
最初から知里のスキルを知っていて、対策を講じていたのはそのためか。
……それにしたって、どうかしている。
相棒アンリエッタに致命傷を与えておいて、勧誘するなんて、まともな感覚ではない。
「特異なスキルを持ちながら、在野に身を置くのは宝の持ち腐れというものだ」
ソロモンは得意げに笑うが、生きたまま仕官させるつもりなどないだろう。
十中八九、屍術によって使役するつもりだ。
アンと2人そろってゾンビ兵か……。
知里は身の毛もよだつ思いだ。
「……わかった。フジコの命を助けてくれるなら、何だってする」
しかし、口ではそう答えた。
もちろん本心ではない。
知里は誰にも仕える気はなかった。
たとえ国王であろうと。
死ぬまで自由な冒険者でいるつもりだ。
けれど、アンリエッタが助かるならば、どんな目に遇ってもいいと思っている。
だから恭順を示したふりをして、相手の隙をうかがった。
「そうか。では、陛下への忠誠心を見せてもらわねばな」
「ちょっと待てソロモン、お前正気か? こんな勧誘の仕方で、こいつが言うこと聞くわけねーだろ」
状況が呑み込めていないグンダリが、素っ頓狂な声を上げた。
「これを握り潰せ。それが証明になる」
ソロモンはグンダリを無視して、アンリエッタの心臓を知里に差し出す。
(……意味が、分からない。狂ってるの?)
ソロモンの顔は高揚し、目は血走っている。
冷静だった男が、仲間殺しの一線を越えた。
そのために、狂気を宿したのか?
それとも、これがこの男の素の姿なのか。
(落ち着け。とりあえず取り戻せばどうにかなる。アンの心臓を)
知里は震える右手を伸ばして、心臓を受け取ろうとする。
しかし、ソロモンは知里の様子を見て口元を歪めた。
「我を油断させておいて不意打ちか? その手は食わぬよ」
そして知里の目の前で――。
まだ震えるように脈打つアンリエッタの心臓を、強く握りつぶした。
赤い血が飛んだ。
生温かい液が、ソロモンと知里の頬にかかる。
「――――!」
知里の呼吸は荒く、悲鳴はもはや声にならない。
ソロモンは果実のように、心臓に残った血を絞ると飲み干した。
「何とも美味……」
手の甲で口を拭う。
ソロモンは魔法で心臓を宙に浮かべた。
そして禁じられた〝影の刃〟で自らの手首を斬る。
噴き出した鮮やかな血を、たっぷりと心臓に注いだ。
「さあ。わが下僕となれ、紅薔薇よ」
アンリエッタの心臓はソロモンの血を満たし、赤黒く変色する。
心臓はまるで意思を持ったかのように、アンリエッタの胸の傷に飛び込んでいった。
アンリエッタの皮膚が禍々しく変色していく。
「……最初からそうするつもりで!!」
知里の中で何かが決壊した。
彼女の全身に激痛が走り、氷のような悪寒が体中を駆け巡った。
知里は激情にかられた。
得体の知れない波動が体の中から湧き上がってくる。
それに耐えきれず、知里の全身の皮膚が裂けた。
裂けた腕や太腿に、赤黒いヒビのような禍々しい紋様が浮かび上がる。
顔に装備していたマスクが弾けた。
目元に薔薇のような紋様が浮かぶ。
鮮やかだった知里の赤い瞳が、血のような暗さを帯びる。
刻まれた薔薇の紋様が燃え上がった。
「……絶対に殺す。2人とも生かしては帰さない!」
知里は吠えた。
犬歯が獣のように伸びている。
怒りに駆られ、我を忘れかけている。
『闇魔導士の素質がある』
そう言われ続けた彼女の中に眠る、暗黒の力が目覚めようとしていた。
「……雰囲気が変わったか?」
グンダリが警戒して剣を構える。
ソロモンを庇うように間に入った。
知里の影から黒い炎のような魔力がほとばしっている。
その闇の炎が、徐々に知里自身を呑み込んでいく。
手首を失った知里の左腕が、暗黒の炎をまとった。
鋭いかぎ爪をもった黒い獣と化して伸びる。
もはや顔も右半分は、逆巻く漆黒の炎に覆われていた。
「……蟲どもよ! 穢れし者どもの臓腑を喰らいつくせ……」
2人に向けて、知里は呪いの言葉を吐いた。
呪詛を乗せた彼女の吐息。
半透明の百足や蜘蛛へと姿を変え、次々と襲いかかる。
「なに……! 蠱毒まで使うとは情報にないぞ!」
ソロモンは慌てて自身の影を操った。
暗黒の手を伸ばして蟲毒を握りつぶす。
しかし知里の蟲毒は、さらに闇の深さを増す。
ソロモンの影をも喰らいはじめた。
「……お前らの選択を、悔やんでも悔やみきれないほど後悔させてやる!」
毒虫はソロモンの影を喰らい尽くすと、ふたり目掛けて襲い掛かった。
「くっ……!」
ソロモンはとっさに、闇魔法の厚い防護壁で2人の身を守る。
だが、毒虫がその障壁に次々とたかり、食い破る。
おぞましい禁呪のぶつかり合い……。
知里の心に芽生えた、憎しみと加虐心が燃え上がっていた。
ついに闇の防護壁が破られ、毒虫がグンダリとソロモンに次々とたかる。
「ひいぃぃ!」
グンダリは気味悪い虫の大群に、やみくもに剣を振り回した。
「そうだ、喰い殺してしまえ……!」
知里が我を忘れて叫ぶ。
(知里! そんなの冴えたやり方じゃないよ!)
その時だった。
知里の心に、聞き慣れた声が響いた。
彼女はアンリエッタの方を振り向く。
死霊使いソロモンの屍術により、もはや彼女自身の意識などないはずだった。
ソロモンの下僕となり果てるのは時間の問題だった。
しかし、アンリエッタは穏やかな笑顔を浮かべていた。
魔法銃の銃口を、えぐられた胸の傷穴に差し込んでいる。
魔法の使えない彼女に持たせた魔法銃。
それには回復魔法を詰めた弾丸が装填されていた。
闇の心臓に替えられた状態で、胸に直接回復魔法を打ち込む。
回復の魔力によって、かろうじて自意識を保っていた。
だが、心臓はもはや屍術によって闇の存在へと変えられている。
回復の効果が尽きた時に命は終わり、死霊となるだろう。
回復魔法の存在するこの世界でも、握りつぶされた心臓は再生しようもない。
魔法銃はつかの間の生命維持装置にすぎなかった。
「グンダリ、もうよい! 目的は達した」
「おうよ。ネコチのアレには肝を冷やしたぜ」
ソロモンは闇魔法で周囲を闇に閉ざした。
「あれはまさに闇の申し子だ。是が非でもあの方の耳に入れなければ……」
闇に紛れて退却する2人。
知里は考える。
アンリエッタが死霊となり、ソロモンの手下となって知里に牙をむくのは時間の問題だ。
彼女をひとまずここへ置き、まずはあの2人を殺すか。
魔力の続く限り、回復魔法を連続してかけ続ければ、生命維持だけはできるかもしれない……。
だが知里には、そもそも回復魔法が使えなかった。
ここで唯一それができたかもしれない賢者の自動人形は破壊されてしまった。
「あたしは……今ほど回復が使えない自分を憎らしいと思ったことはない!」
知里は暗闇に向かって苛立ちをぶつけた。
(取り乱すのは、いい女のすることじゃないわ)
知里をたしなめるように、アンリエッタが思考を送ってきた。
「アン……まさか」
(最期の時が来たわ。約束よ。〝冴えたやり方〟でアタシを送って頂戴)
知里の胸がどきんと鳴った。
あの約束が、現実となって知里の目の前に立ち現れた。
かつて、アンリエッタは言った。
「どちらかが倒れて、〝もう助からない〟って状況になったら、変化魔法で薔薇に変えて、炎で燃やして欲しいの」




