第15話
知里が現代日本から異世界にやって来たのは、13歳の時だった。
突然、訳の分からないゲームのような景色が広がり、空には巨大な深海魚が泳ぐ。
乾いた風。
鼻の奥がむずがゆくなるような、ふしぎな空気。
その時、知里が持っていたスマートフォンが鳴った。
発信者は兄だった。
着信はその一度きり。
「やっぱり、こっちに来てたんだ。お兄ちゃん……」
知里は13歳の時の出来事を追体験して、忘れていた記憶を取り戻した。
その場で知里はリダイヤルしようとしたが、手は動かなかった……。
「いっけぇぇネコチーー」
アンリエッタの声がする。
目の前には、スカラベの姿をした宮殿の守護者。
知里は神聖魔法の大技〝天罰〟をぶちかましていた。
(そうかあたしは『時空の宮殿』にいたんだっけ……しかもボス戦!)
過去の体験が、万華鏡を回すようにグルグルと回っている。
知里が意識の焦点を当てると、過ぎたはずの過去が、現在の出来事としてよみがえる。
過去すべてが同時進行。
めまいがするような体験だった。
突然、意識が切り替わる。
──それは6年前のこと。
禍々しい色遣いの荒野が広がる上空を、気球が飛んでいた。
バスケットには、〝勇者〟トシヒコ、〝賢者〟ヒナ・メルトエヴァレンス、〝戦士〟八十島 小夜子、〝商人〟カレム・ミウラサキ、そして〝魔法使い〟知里が乗っていた。
「どうしても〝闇魔法〟を会得しないというなら、今すぐここを立ち去って!」
語気を強めて、ヒナが言った。
「なに言ってるの、ヒナちゃん! 飲める水も食料もないこの地で、知里を放り出したら死んじゃうじゃない!」
「ママは黙ってて。いい? 知里。魔王討伐が現実味を帯びてきた以上、ヒナたちは戦力を最適化しなければならない」
ビキニ鎧を着た小夜子を制して、ヒナは知里を睨んだ。
(お願いだから、理解してよ知里。最後まで一緒に戦ってほしいの!)
「それは、分かってる。でもさ……」
「ちーちゃんが嫌がる気持ちも分かるぜ。でもよ~、『根暗』の性格スキル、『闇魔法得意』に変えさせてくんねえかな~? おれよか強くなんぜ~」
「でもさ……」
知里にはどうしても受け入れがたい。
人間の闇の部分に触れるのはもう嫌だった。
禁呪を扱う闇魔導士は、心に暗い情念を灯すのが魔力の源だった。
彼女にとって、闇に呑まれてしまうような恐怖心と、嫌悪感があった。
「属性魔法じゃダメ……かな」
「ヒナは回復と召喚に特化する。ママは壁役と物理攻撃。カレム君は時間操作。トシが司令塔で知里が攻撃魔法特化。これならどんな相手にも勝機が見える」
「あたし、もっと魔力を鍛えるよ。だから……」
「神聖魔法と通常の属性魔法では、どうしたって基礎的な火力が足りない。禁呪が得意なのだったら、より強力な魔法アタッカーになってほしいの!」
(知里が意地っ張りなのはわかる。でも、魔王討伐はヒナたちに託された使命。亡くなったグレン座長のためにも、ヒナが鬼にならなければダメだ。知里、変わろうよ!)
(ヒナちゃんも知里も無理しすぎてるわよー)
(ヒナっち怖いよお……。ボク、知里ちゃんに何て言ったらいいんだろう)
(状況がどうだろうと、おれは最適な一手を打つ。最悪おれが回復役に回ってヒナちゃんが攻撃特化でまかなうか。でも、ちーちゃん……意地を張りすぎだぜ)
知里にとっては、思い出したくもない記憶だった。
ここで闇魔法を取れば、未来は変わるのだろうか。
「あたしは闇が嫌なんだ。自分がそんなものに呑まれてしまうくらいなら、いっそのこと死んでやる!」
知里は気球から飛び降りた。
飛行魔法で、銀の海を超える。
無謀な試みだった。
風の精霊術で加速させた気球で10日もかかる距離だ。
半日もしないうちにМPが尽きて、落ちるだろう。
(もういいや。どうにでもなれだ……)
自暴自棄になった知里は、吐き気がするような瘴気の空を飛んだ。
すべてがどうでもよくなった。
兄のことも、もういい。
目を閉じて、知里は死を思った。
「知里ーー!」
そんな彼女を救ったのは、小夜子だった。
知里が打ち捨てたホバーボードを駆り、追いかけてきた。
「お小夜……」
「あなたの心を傷つけてしまった。苦しかったでしょう。無理させてゴメンね。知里は自分らしく生きてほしい」
彼女は寂しそうに笑い、革袋に入れた水と非常食を差し出してきた。
「これ……お小夜の水と食料」
「帰ったらまた会おうね! 知里。わたしたちのことは気にしないで」
小夜子はそう言うと、ホバーボードを踏み台のようにして、大きく跳躍し戻っていった。
勇者トシヒコのパーティと決別した知里の前には、ホバーボードと水と食料が残されていた。




