第10話
巨大昆虫との戦闘中、知里の意識はまたも過去へ飛ばされた。
酩酊感の中で、過去も現在も区別がつかなくなっていく……。
◇ ◆ ◇
知里がこの世界へ召喚されたのは13歳のときだった。
ひとり放り出された異世界の地で、知里は右も左も分からないまま途方に暮れた。
持っていたスマートフォンに、年の離れた兄からの不在着信が残っていた。
折り返しかけてみても、通じない。
この世界に来る前の着信だったのかもしれないが、知里はそう思いたくなかった。
(お兄ちゃんもこの世界に来ているのかもしれない……)
知里はスマートフォンを握りしめながら、見知らぬ街をさまよった。
身寄りもなくお金もない少女は、兄を探すよりほかになかった。
しかし、それらしい人物は見当たらない。
おそるおそる親しみやすそうな女性に尋ねてみると、思いもよらぬことに気づいた。
言葉が通じるのだ。
「そんな青年は見かけなかったわね、お嬢さん」
(……家族とはぐれたのね……見慣れない衣装。もしかして、最近増えてるという異界人かしら)
「!?」
──それだけではなかった。
知里は、この世界に呼ばれてから不思議な能力を授かっていたことに気づいた。
(親身になるフリをして、攫って売っ払えば、いくらかにはなるかも……)
他人の心が読めるのだ。
「ねえ、お腹すいてるでしょ。おばさんがご飯食べさせてあげるよ」
「ごめんなさい! 失礼します」
その人の恐ろしい意図に気づいた知里は、その場から逃げ出した。
「……怖かった」
幸い、女性は追ってこなかったが、道行く人たちの思考が否応なしに知里の頭の中へ流入し、けたたましい騒音のように響いた。
もちろん、大半の人は自分になど気にも留めない。
それぞれの生活や家族のことで頭がいっぱいだ。
しかし、すれ違った人の中には、物騒なことを考えている者も少なからずあった。
(あの子供は1人か。あの顔立ちなら、そこそこの値が付きそうだ)
(珍しい服だな。身ぐるみ剥いでやろうか……)
(クソ、異界人め。聖龍教会に突き出してやれ)
逃げるように歩くうち、足が棒のようになってしまった。
頼みの綱だったスマートフォンも、何ひとつ機能しないまま電池が切れてしまった。
(お腹すいた……)
空腹に耐えかねた知里は、食事の匂いにつられて、冒険者が集う酒場の前を行ったり来たりしていた。
ここに集う人たちは、乱暴そうではあるものの、悪くない印象だった。
(あー、腹が減ったぜ。今日も飲んで食って、明日からの冒険の活力にするか)
(あら、見たことのないおチビちゃんだこと……)
その時、声をかけたのが当時は駆け出しの冒険者アンリエッタだった。
「あなた、まだ子どもね。名前は?」
「あたしは 知里。ここはどこ? あたしはゲームの世界にいるの?」
「……異世界の子ね。アタシはアンリエッタ。冒険者よ」
(見慣れない服……。異世界から急に迷い込んだのかしら。そういう話も、最近はたまに聞くわね……)
「…………」
「お腹がすいてるのでしょう。一緒にご飯食べよ?」
(女の子がたった1人で……。泣いていないのね。強い子だわ)
「……いいの?」
「もちろんよ。好きな食べ物を言ってごらん」
知里の目を覗き込みながら優しく尋ねるアンリエッタのことを、知里はこう思った。
(この人は、本気であたしを心配してくれている。何も裏がない……)
それまでの緊張が急に解けて、心底安心した。
知里が人前で泣くことはなかったが、このときの感動は今も忘れない。
「おいしい……」
冒険者の酒場の食事は、塩味が強く固かったけれど、知里にとって食べ物がこれほど美味しく感じられたのは生まれて初めてだった。
「でしょ? 麦酒も飲んじゃうか!」
「ダメです。あたしは未成年なので、お酒は飲んだらダメ」
「ふうん? どうして? アタシは子どもの頃から飲んでるけど?」
「ありがとう。ごちそうさま、アンリエッタさん。このご恩は、一生忘れません……」
丁寧に礼を言って立ち去ろうとした知里を、アンリエッタは引き留めた。
「待って。行く当てがあるの?」
「ないけど。兄を探してるの」
「無理よ。あなたのような異界から来た女の子が一人で生きて行けるほど、ここは甘くないわよ。人探しをするにも、生きる基盤を持つべきだわ」
「でも、人に頼るわけにはいかないから……」
そう言って席を立つ知里の手を握り、アンリエッタは店の主人で冒険者ギルドの長である男の元へ強引に連れて行った。
「マスター。寄る辺ないこの娘を、ここで面倒見てやってくれない? 皿洗いさせながら料理でも覚えさせて、いいでしょ?」
「あのなあ、ウチは冒険者の店だぜ。荒くれ者も多い。教会に引き取ってもらえばいいじゃねえか」
「ダメよ! そんなのは絶対にダメ」
そんなやり取りを聞いていた知里には、彼らの心に浮かぶ思考も読み取れている。
(アンリエッタのやつ、なんで食って掛かる。何がダメだってんだ?)
ギルドマスターは何の疑問もなく、こう考えている。
(この娘は可愛い顔してるから、貴族に買われるかもしれねぇし、高級娼婦になれるかもしれねぇ。最高じゃねえか! どのみち暮らしに不自由はねぇだろ……)
現代日本から来た13歳の少女にとっては、おぞましい未来予測だった。
一方、アンリエッタはそうは思っていない。
(聖龍教団には汚い獣がいる。知里を妹たちのようにはさせない)
聖龍教団は、身寄りのない子供を受け入れて聖職者にさせるという方針をとっている。
だがその裏で、容姿に恵まれた男女を奴隷商人に売って利益を得てもいる。
聖龍教団の孤児院は、実質的な奴隷の中継地点でもあるのだ。
見栄えのいい奴隷は、男女を問わず房中術を仕込まれて娼館に売られるか、俗悪貴族の慰みものになる。
(たとえこの娘が兄と再会できなくても、無事に高級娼婦になれれば贅沢ができるけど……)
現代人ではないアンリエッタは、奴隷制度の是非など考えたことがない。
娼館に関しても、単に職業の一つだと思っている。
にもかかわらず、知里を奴隷にしたくないという理由には、彼女の過去が関係していた。
魔物に襲われて両親を亡くしたアンリエッタは、どうにか独り立ちできる年齢であったために、冒険者としてやって来られた。
しかし幼い妹2人を養っていくことまではできなかった。
そこでやむなく教団に引き取ってもらった。
容姿に恵まれていたので、2人は高級娼婦コースだと告げられた。
それはそれで、食いっぱぐれはない人生だと思った。
ところが、聖龍教団の孤児院を管理している枢機卿は、下劣な男だった。
売り物になる前の娘たちに手をつけ、飽きたら貴族や商人に払い下げる。
金は全額懐に入れ、教団には「流行り病で死んだ」と報告する。
アンリエッタの幼い妹たちは、枢機卿に手をつけられた挙句、不良貴族の慰みものとして払い下げられた。
人づてに聞いた話では数人に凌辱された挙句、森に放たれて獣のように狩られたという。
(知里を、妹たちのようにはさせない!)
ギルドマスターに食って掛かるアンリエッタの心は、結果的に妹たちを見捨ててしまった未熟な自身への悔恨に塗りこめられていた。
兄を探す知里と、妹を救えなかったアンリエッタ。
他人の心が読める知里には、彼女の思いが手に取るように伝わってきた。
それは、たった一人でこの世界に放り出された彼女にとって、希望の光ともいえる救いの出会いだった。
「アンリエッタ! あたしも冒険者になる。一緒にいたい!」
はにかみながら、彼女の白いブラウスの裾をつかむ知里。
アンリエッタは、少女の瞳が、赤く輝いているのに気づいた。
魔力を宿した瞳は、時として宝石のような光を宿す。
先ほどまでは、薄い茶色をしていたのに。
赤い瞳は、最上級の魔法の適性があることを示していた。
「知里……。アナタはこの世界で生きるために、別の名前を持つといいわ」
「どうして?」
「今の法王さまは異界人を目の敵にしている。たとえ冒険者だろうと、異界人だと分かれば、どうなるか分かったもんじゃない」
「……あたしを冒険者にしてくれるの?」
知里は瞳をさらに赤く輝かせてアンリエッタを見た。
彼女は強く頷く。
「アタシと組むなら〝冴えたやり方〟を徹底的に! 用心深く、しなやかに、したたかに生き抜きましょう? 仔猫ちゃん」
アンリエッタは、とびっきりの笑顔で知里の髪をくしゃくしゃに撫ぜると、まるで拾った仔猫を抱き上げるように抱きしめた。




