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香苗の章 1



花はいつも下を向いて歩く。通りを行く人たちの視線を避けたいからだ。


今朝も、近所の奥さん達が噂するのが聞こえてしまった、


「花さんとは異な名じゃこと、あの顔立ちでは般若も逃げて行きそうじゃ、金髪の南蛮人の子だきっと」


奥さん達は、ワザと花に聞こえるように、そんなことを言って、楽しんでいる。

花が、何を言ったって、奥さん達は、にたにたしながら、お辞儀をするだけだ。だから、花は、ただ下を向いて、通り過ぎる。


母にも、自分にも、なんの非もないのに、受ける仕打ちを、花は、ただやりすごしていた。


小石川にある医学問所に通い始めたのも、何か手に職がなきゃ、これから母と二人生きていけないのじゃないかと不安に思うからだ。


母は詳しくは話してはくれないが、父に離縁されたらしい。

もう、父を頼ることは出来ないんだと思うと、花は、とても淋しい。




普通の容姿だったなら、いくらでも、雇ってくれる所はあるのだろう。

けれど花の顔立ちは、やはり、普通じゃなかった。

だから普通じゃない所に飛び込んだのだ。



それに、もっとずっと小さい頃に、母さんが


「お前の父さんは江戸一番の薬師なのだよ」


と言っていたことが心に残っていたのだ。


花は、父の顔も名字も覚えていない。優しい声と、頭をなでてくれた手の感触が残っているだけだ。

父の名を母に聞いても、余計な雑念が増えるだけだといって、絶対に教えてはくれなかった。


けれども花が薬師を目指そうと思ったきっかけは、父にまつわる思い出である。


やっと手習いができるくらい小さな時、家を訪れる人々が、皆口々に、お礼を言って帰るのを、覚えていたのだ。


医師と言うのは人々の役に立つ立派な仕事なんだ。子供心に花はそう思った。


花は、父親に対して反感と、憐憫の情を同時に持っていた。


医師になりたいと思ったのも、人の役に立ちたいという気持ちと、誰よりも立派な医師になって、父親を見返してやりたいという、相反する感情によってである。


花の、大人しさと、負けず嫌いは、複雑な胸の内から生まれたものかもしれない。


母は、花と父親が会うことには、反対だった。


花には言えない深い事情があるからだ。

けれど、花の熱意に負けて、母は、花が医師になることを許してしまった。そして、半年程まえから、学問所に通い始めたのだった。


父に会えることは花にとっては、とても複雑だ。


父と母にどういうわけがあったのか、花は知らないからだ。


どうして父親が多額の金を持たせてくれたのか。そのわけも、今は知ることができない。いつも不思議におもうのだ。



これほど気遣ってくれる情があるなら、どうして一緒にいてくれなかったんだろう。

本当は、母と自分に何か非があったのか。父親のことを考えはじめると、花の胸はよじれるようにいたんだ。


そしてその痛みはいつまでも、癒えることなく花を苦しめた。

複雑な心を抱ええながら、花の医学生生活はすぎていった。


悩み事があるにも関わらす学問所での生活は、花にとっては楽しいものとなった。

同じ学問所に、花よりも、少し年下の女子がいた。課題がだされたとき、腑分けをするときなど、

いつも行動をともにしていた。



二人は、梅の木に鶯がとまるように自然に引き合った。


香苗というその子は、親も薬師であるのだそうだ。父親のあとを継ぐために、ここに修業にきたのだろう。


香苗は、花に父親がいないことを、どこかで聞いたらしく、自分から親のことを話すことはしなくなった。

とても賢くて、優しい娘だ。


香苗は花の顔立ちをみても、悪口や陰口をいわなかった。香苗にとっては、花の顔などそれほどの意味を持ってはいなかったのかもしれない。



香苗のほかにも、やさしい人はいる。

しかし大概の人は花を敬遠した。

そういうなかで、香苗は、頭のいい花を、嬉しそうに見つめて、一緒に勉強したいと言うのだった。


「香苗ちゃんは、医学が本当に好きなのね、学問所にいるとき、本当に楽しそうだもの。きっといい薬師になれるわ」


花がそんなふうにいうと、



「それなら、花さんの方がずっと上でしょう?先生も、花さんに目をかけていらっしゃるじゃないの」


香苗にそんなことを言われると、なんだかはずかしくて、花は、下を向いた。

花には、友人と交わす軽い会話の経験がほとんどなかったからだ。


そんな風に、楽しい会話を交わしているとき、別の学舎の授業が終わり、花が思いをよせている学生が、遠くの廊下を通るのが見えた。


すると、薬師のことにくわしい香苗は、すぐに気がついて、話しはじめる。


「あの方、いつも花町で遊んでいるらしいわ。お父様は、有名な岡崎洸山先生だから、きっとお金だけは持っているのね。もっと勉強なさったらいいのに」


岡崎青山のことが、よく知りたい花は、なんとか聞き出そと、必死になった。


花は、必死になっている自分の姿に、これが恋の盲目と言うものか、と気恥ずかしさを覚えた。「香苗ちゃん、私彼のことが好きなんだと思う姿が見えるとつい、目で追ってしまうの。おかしいわよね」


花は、初めての恋だ。そういう気持ちも、素直に口に出してしまう。


香苗はあまりにも、花が無防備なので心配になる。


香苗は花が見ていた学生が好きではなかったのだ。

女遊びをすること自体理解できなかったし、それに、遊び人にかかって、花が傷つくのを見たくないという感情が強かった。


「花さんらしくないわ。あんな遊び人に思いを寄せるなんて。きっともっといい方が、すぐ見つかるわ。あの方はお父様が亡くなってからというもの、運に見放されているのよ。それに手術の時の出血に耐えられないらしいのよ、薬師としたら大変に不利なことね。遠くから眺めるなら、いいと思うけれど、心をよせるのは、私、賛成できないわ」



香苗のいうことはよくわかるけれど、恋心というものは、そうそう本人の思い通りにはなってくれないものだ。


「でも」


花は、香苗の親切を有り難いとおもいながらも、青山をかばいたい気持ちになった。青山がただ遊んでいるだけの人ではないということを香苗に説明したかった。


恋をしていると言うことだけではなくて、同じ学舎で学んでいる学生として、彼のことを悪くは思いたくない。


「お優しい所もあるのよ。枝から落ちた鳥の雛を育ててやったり、腹痛の子供にただで薬を分けてやったり、確かに、洸山先生は、手術の先駆者だけれど、そればかりが薬師の仕事ではないはずよ」


こまで言うと、花は、はずかしくて、顔を赤くした。

香苗は花のことを思っていろいろ教えてくれたのに、言い返すなんて、子供みたいだ。


「うふふ。花さん本当にうぶで可愛らしい。それに、私が心配したところで恋の行き先なんて本人にもわからないものだもの」


香苗はにこにこと笑顔をみせると、今度は、学問所の話をはじめた。


「それよりも、今度の腑分けの実技、学生三十人全員の見ている前で採点されるらしいわ、緊張感を高めるための企画だそうよ」



「お父様のお弟子さんが、いるんだったわね、聞かせてもらって良かったわ。いきなりそんなこと言われたら、私だって何をすればいいか分からないもの」


香苗の父親の弟子の一人が、医術の講師として、学問所に勤めている。だから、こういう情報も、たまに手にはいった。


香苗は、花にとって大切な友達になりつつあった。

花は、ときどき、香苗に、自分のこの鬼みたいな顔のこと、どう思っているのか聞いてみたくなる。

香苗が示してくれる親切が、単なる同情だけじゃないと思えるからだ。

けれど、言葉が喉から出ようとする瞬間に、心の中の、弱虫の自分が、止めるのだ。 花と付き合うのは、女子学生が花しかいないからだ。本当に友達だと思っているわけじゃない。 顔立ちのことを聞いて、わざわざ嫌な思いをする必要はないさ、と。


可愛らしく、おおらかな香苗を、心から信じきれない自分が、とても情けない。

けれどずっと人の悪意にさらされて来た花には、そのことを聞く勇気は持てなかった。


夏の盆に入る前に、腑分けの試験がある。普段の試験は、五人一組に分かれて、

そこに講師が一人ついて、五人で一体の遺体を腑分けしていく。

しかし、今回は違うらしい、一人づつ、先生と二人きりの状態で、学生三十人全員の目の前で、腑分けを行うのだ。



実際に、患者さんを診るとき、緊張感のせいで、大きな失敗をしないよう、精神を鍛えるための修練だ。


そのことを、香苗から聞いて、花は嬉しいと思う反面、なんとなく、ずるをしたような、後ろめたさを感じた。


香苗は、花の考えを察して、学生達の集まる食事の席で、そのことを話題にした。


「花さん今度の一人でする腑分けの試験のことだけれど、私自信がないわ、授業のとき二人で名乗り出て、やらせてもらいましょうよ」


おおらかに話す香苗の声は、隣で食事をする学生の耳にすぐに入り、騒ぎになりそうになった。


「篠山くん、今の話しは本当なのか?君だけが知っているのはずるいぞ。」


香苗は、何か嬉しそうな顔で、話を続けた。


「あら、あなたは吉野先生の御次男ね、ずるだなんて人聞きが悪いわ、だから皆さんにも聞こえるようにお話ししたではありませんか」


香苗は、ちょこりと舌を出すと、花の目をみて、にこりとした。


話を聞いた吉野は、六席ある食卓をすべて回って、試験の内容を話して聞かせた。

「こういう時、役に立つ人よ、私の住んでいる町のガキ大将だったの、強くはないくせに正義感が強い人」


吉野のことを話す香苗の顔が一瞬赤らんだのを、花はみのがさなかった。 そして、この学生にはすでに、婚約者があることが、花に切なさを教えた。

香苗にも、悩みや苦しみがあるのは当然だが、香苗の心はとても強くて、明るさのかげに、そういう暗闇は隠れてしまっている。

苦しみを抱えているにもかかわらず、香苗はこうして、花のことを考えてくれるのだ。

花が余計な事に気を病むことがないように、いつも気遣ってくれている。

両親の愛を受けて育った人が皆初めから持っている、これが自信というものだろう。

花は、誰かに誉められたとしても、素直に受けることができない。

それは、いつも、容姿のことで人の陰口を聞いているからだ。

けれど、香苗の言うことは少し違っていた。

ここに来て半年、話もたくさんしたし、二人で学問も高めてきた。

その友を、心から信じられないのは、やはり、とても悲しいことだ。 花は、本当は香苗のことを、信じている。顔立ちのこと、傷ついてもいいから、聞いてみたいと思うのだ。



少しの沈黙がながれた。香苗は、どうしたの?と言う表情で花の顔を見ている。


花の心臓は、激しく打っている。今聞けなかったら、きっとずっと、聞く勇気は湧いてこないだろう。


「ねぇ、香苗ちゃん、私ずっと聞いてみたいことがあったのよ。」


花が少し下を向いて話しはじめると、香苗は、箸を置いて、座りなおした。


「香苗ちゃんは、私の顔を恐いと思わないの?どうしていつも親切にしてくれるの?」


香苗は、花と友達になれば、必ず聞かれるとわかっていた。

正直なところ、初めは女子が一人しかいないから花と付き合うことにしたにすぎない。


しかし、話をしてみると、花は、とても賢く、優しい娘だとわかった。

初めは、恐かった顔も、今はとても色白で美しいと思っていた。 香苗は、そんな気持ちをどう話したら素直に聞いてもらえるか、懸命に考えた。


「私、一生懸命考えたわ、でも正直な気持ちが一番だと思う。花さんの顔、とても恐かった、でも、先生に指された時、いつも助けてくれたでしょう?ああ優しい人だなって思ったの」


「今は、このままの仲よ、悪事も勉強もいつも一緒にしたいわ」


香苗は、本当に正直に話したか、と言われたら、下を向いたかもしれない。しかし、香苗の友達を失いたくない気持ちは、本当だった。 香苗のその気持ちは、花にちゃんと伝わった。


「悪事って?」


花は、香苗のなんとなく申し訳なさそうな顔の中に、確かな友情を感じて、笑顔で聞いてみた。


「えっ、悪事って言うのは、腑分けの試験のことを内緒にしておくことよ。」


香苗はそういって、もう、いつもの笑顔に戻っていた。

花の不安は、雪の中の白兎のように、見えなくなった。しかし、花の不安は見えなくなっただけで、なくなりはしない。

父がなぜ自分を捨てたのか、その訳を知るまでは、なくなりはしないのだ。


学生達は、試験のことを知り、それまでよりもずっと真剣に勉強するようになっていた。



この学問所の学長である高山玄篤は、その様子を見て、とても満足した。漢方医篠山秀山の弟子勘石と娘の香苗がこの学問所にいることを利用して、試験の厳しさを噂として、流したのだ。 勘石に試験の仕様が変わることを話せば、彼は、婚約者の香苗に口外するだろうと、予想していたからだ。

その通りに、噂はすぐに広まり、学生達の目の色が変わった。

真剣さが、見る間に変わり、一人一人の他者に対する、依頼心が、抑えられ、自立心が育てられる、良い機会となった。


試験の期日が迫ると、花は、青山の様子がおかしいことに気づいた。


普通の学生達は、必死なのに、彼は一人、投げたように、花街で遊んでいるのだ。香苗に聞くのも、と思ったが、悩んでも始まらないと思い、花は、不思議に思っていることを聞いてみた。


「香苗ちゃん、医師としての名前は、学生のうちはもらえないはずよね、なのになぜ、岡村さんは持っているのかしら?」


「彼は外出も自由でしょ、もう医師なのよ。でもね、血をみると、倒れてしまうからもう一度、ここへ修業にきたらしいわ。患者さんを診る腕は案外といいそうよ」「でもね、洸山先生の治療を期待して来る患者さんからすると、期待はずれって言うことになるでしょう?」


「青山さんが手術をしないってわかると患者さんの中から、藪医者だって噂を流す人が出て大変だったらしいわ。青山さんにとったら、腑分けは恨みのもとかもしれないわね」


そういう訳があったのかと、花は少し安心した。町の中で、巣から落ちた、鳥の雛を学舎の隅に置いて、しばらく育てていたあの姿こそ、青山の本当なのだと信じられたからだ。やがて、腑分けの試験の日が近づいた。


青山は、腑分けの試験などに、興味はなかった。不合格だったとしたって、自分が医師であることに代わりはないのだから。

それでも、気分はむしゃくしゃするので、今日も花街へと出かけてしまう。

松野屋の紅花が、青山の馴染みの花魁だった。

今日も紅花の膝に、青山は甘えていた。


「おこう、学問所の講師がうるさくてたまらないんだ。人の見ている前で、腑分けをしろという、嫌でたまらない。こうして、お前に甘えないでは、もう息もできないよ」


「これは、大変なことでしたね、いくらでも、甘えにきてくださいな、あたしは青様のお顔が見られるだけで十日も生きられるのですからね」


そんな世迷い言が、続いた後、紅花は帯をとく。

けれども、翌朝になると、紅花も青山も、何事もなかったように、さらり、と手をふるのだった。

試験の順番は、腕の良し悪しよりも、何を得意とし、何を苦手にするかによった。

花と、香苗の順番は最後のほうだった。

皆の実技が見られるから、幸運だったと思っていた。


驚いたことに、青山は最後である。

青山は平静を装っているが、暑さのせいではない汗をたくさんかいていた。


学生達は、それぞれの課題を、そこそこの成績を残してこなしていった。


今日までの努力の成果を、自分の力で示すことは、学生達に自信を与えていった。

採点もし、指導もしながらの腑分けは、朝から始まり、昼過ぎまでかかった。


やがて、香苗の番がやってきた。


試験を見ているのは、学長の高山玄篤であった。玄篤は、香苗に、開術、縫術、の次の、高度な技術、切除術を命じた。


玄篤は、香苗に、初めての技術だから、ゆっくりと研究しながら行うように、といって、開始の合図を出した。

香苗は、時間はかかったものの、肝臓の切除術を成功させた。

玄篤先生からも、後は、時間を短縮できるように頑張りなさいと言葉をもらった。

香苗は珍しく汗をかいていた。

花の方を見て、頑張って、と唇をうごかした。

次はいよいよ花の番だ。


玄篤先生は、香苗と同じ切除術を命じた。

胃の府の下半分を切り、つなぎあわせる難しい術である。

花は、腑分けは得意だった。才能を持っているのだ。迷うことなく、行うことができる。


花が、胃の府を見つけ出し、切除をはじめると、玄篤先生は、他の学生に、良く見るように指示をだした。


実に的確だ。このまま、精進しなさい。

そんなほめ言葉をもらった。


後は三人の学生だけになった。その最後が、青山だ。


花は、自分の試験が無事に終わり、香苗もほめ言葉をもらったので、安心して少しぼうっとしていた。

花は、放心していたので、青山もまた、ぼうっとして、その上、すでに青い顔をしていることに、なかなか気づかなかった。


学生達は、良く勉強していたので、減点される者もなかった。皆ひとつ階段を昇った事になる。


皆、達成感を味わって、幸せそうな顔をしていた。

花は、香苗と吉野が言葉を交わすのをみた。思った通りに、二人は、楽しさよりも、切なさをその顔に表した。

今ならまだ、二人が寄り添う方法があるのじゃないかと、花は思うが、それぞれの家の事情を知る、二人の判断が別れをしめすのが、寄り添う事の難しさを伝えて来て、花の心まで切なくなった。

花がふと、青山の方を振り返ると、青山は、すでに倒れそうなほど、ふらふらしていた。


玄篤先生は、学生の開術をみながら、評価をしているところだった。


花は居たたまれなくなって、すぐに、青山のそばに駆け寄った。


「岡村様、御気分がお悪いのでは?大丈夫ですか?しっかりなさい!」


青山は、花がかけた言葉を聞いたかどうか、その場で気を失ってしまった。


青山はどかりと音を立てて倒れたが、花もいたし、周りの学生も支えたので、怪我はなかった。

その時、一人の学生の手が、花の着物にかかって、胸元が少しのぞいた。


花はすぐに着物の乱れをなをしたが、壇上にいた。高山先生には、花の胸元にある緋色の痣がはっきりと見えた。


その痣は羽ばたく雀のような形をしていた。

花はこういう痣が、親から遺伝することを学んで、何か、父親の分身が、胸元にいて、自分を守っているように思っていた。

高山先生は、青山のもとに歩み寄ると、気付けの香料を嗅がせた。


青山はゆっくり目をあけた。倒れる前よりずいぶん顔色は良くなっていた。

高山先生は、にこりとして、声をかけた。 「岡村くん、良く最後まで頑張った。まだ先は長いが、今日の試験は合格だ」


青山は本当に、血をみると、気分が悪くなるのだそうだ。


血の流れる様をただ見続けて、それになれること、それが青山に課せられた試験だった。

先生は、血の色や匂いが、人にとったら、恐怖につながることを知っている。

それは、悪いことではない。

命に対して、恐れを持つことは、人として当然のことだ。

命に敬意をはらうことにつながる。

命を尊いと思うところから、医師としての修業がはじまる。

玄篤はそう思っている。


青山は、ある意味、医師としての大切な要素を、すでに持っていると言えるのかもしれない。

青山は、遠くなっていく意識のなかで、女性の声を聞いた、自分を気遣う優しい声だった。


女性は確か二人しかいないはずだ、そう思いながら、何気なく周りを見回した。


周りの学生達に、気づかれないように、その声の主を知りたかった。


そこで、

「わたくしを支えて下さったのはどなたです、お怪我はありませんか」

そう声をかけた。自分だと名乗り出る訳もないが、何か、反応があるはずだ。


花は、自分だと言うつもりなどなかったのだが、青山の、声が聞こえると、ふと振り向いてしまった。


青山は、この学問所に学び初めて、三年、もう自分に、手術の才能がないことを自覚していた。

もしも、美しい方の女子が声の主ならば、その女子を口説いたほうがずっと早い。

そう期待した。しかし、振り向いたのは、ぎょろりとした目をした、般若のような顔の手術の名手だった。

これではいたしかたない。

青山は、花に会釈して、挨拶をした。


「あなたですね、支えて下さったのは、おかげさまで、怪我をせずにすみました。恥ずかしながら、ここに来て三年、いまだに、開術の手順さえ、ならうことができずにいます、あなたの、見事なお手さばきに見入ってしまいました」


花は、ただでさえ、男子と話したことなどなかったし、その会話の相手が、思いを寄せている相手であっては、緊張と、恥ずかしさで、声など出るわけはなかった。


「有難うございました。ごきげんよう。」


青山は、花が、何も言わないので、これ幸いと、話しを終えてしまった。

花は、気づかない振りをして、青山の言葉をやり過ごした。

恥ずかしさもあった。


しかし、花の顔を見たときの青山のがっかりした表情が、とても悲しかったのだ。


「花さん、あなたのおかげで、怪我をまぬがれたのに、

あんなに遠くから、ごきげんようなんて、やっぱりあの方は、私たちとは、違うところに暮らしているのね」


香苗はそう言って少し腹を立てたようだ。

しかし花は、青山の顔色がまだ青く、汗も流れているのを見ていた。

花の顔が、もう少し可愛らしかったら、青山の態度も、きっと違うのだろうと思うと、悲しくて、そのことは、香苗には言えなかった。


「香苗ちゃん、まだ御気分が悪そうだったわ、それに、悪気ではないんですもの気にするのは、やめましょう。」


花は、今青山のことを考えるのがつらかった、だから何か別のことで気を紛らわせたかった。


「香苗ちゃん、二人とも、良い成績だった記念に、お芝居でも見に行かない?今日はもう授業もないし。ずっと試験のために緊張していたから、気晴らしがしたいわ」


香苗は、花の気持ちが、なんとなくわかる気がした。

花は、本当に青山のことが、好きなんだ、だから、青山の態度に深く傷ついてしまう。

なぐさめの言葉をかけてあげたいけれど、香苗には、良い言葉がうかばなかった。

だからせめて、花が、少し元気を取り戻すまで、一緒にいたいと思った。

二人は、花の提案した通りに、芝居を見に行くことにした。

石川五右衛門の話である。

いろいろな芝居小屋でかかっているが、どこも離れていて、歩いて行くのは少々億劫だ。香苗と花は、籠を使おうという話しになり、近くの籠屋まで歩いていた。


恋をしているけれど、どうやって実らせたらいいのかわからない、自分の心をその相手に伝えるすべももたない。だけど、恋心は胸の中に育って、二人を苦しめた。


二人とも、そういう切なさを一時忘れ、子供のようにただ遊びたかった。


二人でいると、それだけでも気が紛れた。心の中の痛みが、話しをしなくてもわかる気がする。互いの切ない恋がきっかけとなって、二人の友情は大きく育ったのだ。


町の中には、二人を遊ばせばてくれる物がたくさんある。

小間物屋があればのぞき、団子やがあれば、一串買い、町の女の子と同じように、いろいろなことを楽しみながら、歩いた。

評判の団子を頬ばりながら、またなにかあったとき、こうやって、遊びに来られたらいいものだと二人は、話した。

学問所に入所してからというもの、してきたことは、

医学に関することばかりだった。覚えなければならないことが多すぎて、遊ぶ気になれなかった。腑分けの試験がおわり、重荷から解放されて、ただ歩いているだけなのに、とても楽しかった。


そんな二人だから、後ろから、青山が近づき、追い越していったことに、まったく気づかずにいた。

「香苗ちゃん、早く行かないとお芝居おわっちゃうわ。もう日が傾き始めたわよ」


花は、ふと自分の影が長くなっているのに気づいて言った。


「楽しくって、こんなに時間が過ぎちゃったわ、すぐ駕篭を出してもらえば、まだ間に合うでしょう?急ぎましょう」


二人は、すぐそこに見える駕篭屋へと急いだ。駕篭屋に入るまで、二人はそこに青山がいることに気づかずにいた。彼も、入って来た二人を見て、驚いたようだ。青山はすでに医者として、生計を立てている大人である。学舎の中では、普通に接することができるが、こうして町中で会うと、二人はどんな挨拶をしたらいいのかもわからなかった。

彼も同じだった。

しかし、大人として、なにも話さないで終わるわけにはいかなかった。


「先ほどは、迷惑をかけましたね、わたくしは、これから実家に、帰るところです。」


「わたくしには、漢方医の仕事もあるものですから、学舎に泊まれない日もあるのですよ」


まだ汗ばんでいる青山が、努めて、平静を装って、その場をつなごうとしてくれていることに、花は答えたかった。


「学生なのに、駕篭を使うなんて、少し生意気ですが、試験がおわって、気疲れしたのです。湯島の先まで行って、お芝居でも見ようかって…」


青山は、立ったままでいるのが辛くなったらしく、失礼しますよ、と言って、椅子に掛けた。

そして、にこりと笑顔を見せながら、


「それは楽しみだ、努力が報われた上に、分かちあう御友人もおられる。羨ましいかぎりですよ。わたくしは、成績が悪すぎて、敬遠されてしまってね」


青山はそんなことを言った。成績が良かった二人を持ち上げるためだ。

香苗は、この青山が好きではない。こういう余裕シャクシャクの態度が気に入らないのだ。


香苗の顔を覗き込むと、今にも、何かかかって行きそうだ。どうにかして止めなくちゃと思ったが、少し遅かった。

「御友人は少なくとも、御悪友はたくさんお持ちなのですね」


香苗は容赦なく言い放った。花は、言葉をかける機会を失って、ただ立ち尽くしていた。


青山はさすがに少し腹を立てたが、花がおろおろするのを見て、荒立てるのも大人げないと思い、笑顔で答えた。


「これは手厳しいな。学生とはちがって大人には、付き合いというものがあるのですよ。子供には、まだわからぬことです。」香苗は、青山をやりこめられなかったことが、悔しくて、言い返そうとしているが、相手は、手強い大人なのだ。


世間の信頼もそれなりに、もっている、怒らせたら、いいことなどない。

だから、香苗を静め、そして青山の名誉も守らなければならない、と思った。


「香苗ちゃん、もう止めましょうよ、先生には、先生の御事情があるわ、それに私、誉められて嬉しかったわ」


香苗は、花が、自分の性格を良くわかって、後戻り出来るうちに、止めてくれたことに、とても感謝した。

青山は、花と言う学生が、とてもかしこく、優しい女の子であるということに驚いた。


こんなところでもめ事を起こせば、学生である花と香苗が、損をする。そういうことまで良くわかっていて、どちらも、たつように取り持つとは。

「いや、いつも遊んでいるわたくしが悪い、学生からみれば実に、不謹慎な話ですから」

青山は、何時しか、自分の方が助けられ、面目を保てたことに、また驚いた。

花と言うこの子の容姿は、決していいとは言えないし、苛められたこともあるだろうと思えるからだ。

苛められれば、おおかたの子は、世間を恨んだり、人を信じなくなるというが、この子は、先生に目をかけられ、友人を作って、楽しげに暮らしている、医術の才能があるのは、この子にとって幸いしたのだろうが、それでも、並みの子ではないとわかる。


青山は、せめてもう少し、可愛らしい顔をしていたら、とため息をつきたい気持ちになった。

鈴村というのは、大きな薬種問屋の家系だし、実家の母も、いい縁だと思っただろうに、と思うからだ。


青山は、まだ独身だった。まだ子供だった頃から、花街に足を踏み入れて遊んでいたこともあり、綺麗な女を見すぎたのだ。

単純に、女が欲しいとも思わなかった。遊びに行けば、おんなはよりどりみどりだった。

漢方医としては、腕がいいし、姿も良いので、すじの良い客が集まった。

父親が残していった財産もあるから、生活にも、遊びにも、不自由を感じたことはなかった。

性格はおおらかで、繊細にきをくばるので、遊び友達には事欠かない、むしろ、絵描きとか、大工とか、そういう我の強い友人が多かった。

相手を立ててやろうという気がつねにあるのだ。

だから甘く見られることもある。

今回の香苗のことがそうだった。

「岡村先生、どうか香苗ちゃんの言ったこと、気にとめないでくださいね」


花は、香苗が、早く駕篭が帰って来ないかと、外を見に行った時にすかさずそう言った。


「あっ!帰って来たわ!なんだ二脚。」


香苗は悪かったと思ったらしく、私達に先によこせとは言わなかった。


「もちろんですよ。日も開けずに花街に出かけては、嫌われるのは当然です」


青山は、汗もひいて、顔色も良くなっている。もう心配はいらないよいだ。


「御気分、良くなられたようですね。良かった。高山先生も酷い方だわ、苦手な物を倒れるまで見せておくなんて」


「ありがとう、鈴村さんは優しいんだな、先生もわたくしを苛めようとしたわけじゃない。三年も同じところをうろうろしていたら、先生だって、困るさ」


青山は帰って来た駕篭を、二人で使うように言ってくれた。


「遠慮はいらない。わたくしは家に帰るだけだから、早くお行きなさい」


駕篭を譲ってくれた上、駕篭代を払ってくれていた。

やはり本当に、気のつく人なのだ。

花は、青山が好意を示した訳でもないのに、とても嬉しかった。

優しいと言われたことも、花に、君は気が利くな、という表情を見せたことも、駕篭を譲ってくれたことも、何か意味のあることに思えるのだ。


香苗は、花が、ただの優しさで、青山に声をかけたり、体を支えてやったわけでははないと知っているから、自分の恋心と重なり合って、とても切なかった。


それでも、二人は若さにあふれている、芝居小屋の看板をみると、切なさを一時忘れる事が出来た。

香苗は好きな役者が舞台に上がるので、うきうきと楽しげだ。

花も好きな役者の札が出ているのを見て、心を踊らせた。

光輝く才能をもった 若い役者達の活躍は、医師を目指す二人に勇気を与えてくれる。

あきらめてたまるか、と思いながらも、元気をなくしてしまう時があるのが現実だ。


今だって、青山の、全く気のない態度にあって、落ち込んでいたのだ。

そういう時でも、役者の活躍を見ていると、勇気づけられた。


役者達は、観客の心の中に自然に入ってきて、物語の中に引き込んでいく。


観客は、物語の中の人物に自分をかさね合わせて、活躍したり、儚い恋をしたりする。


花も、活劇の中の、淡い恋物語に自分をかさねて、胸を熱くした。

役者達の魂の放つ光が、彼らの、身振りや、声を通してここまでとどくようだ。


花は、医師という仕事にも、こういう、人としての力が必要だと、同じ年頃の役者から教わった。


必ず医師になって、人の役にたちたい。花が、強くそう思うのは、自分を捨てた父への、小さな抵抗だった。とても後ろ向きの考えだが、難しく、つらい勉強をしている花にとっては、心を奮い立たせてくれる大切な動機だった。


香苗にも、婚約者がある。父の弟子であり、学問所の講師でもある。


矢嵜勘石である。

父親の弟子だから、幼い頃から、香苗の家に一緒に暮らしていた。


勘石の親がいないことは、香苗が大人になってから聞かされた。


勘石の父親が不幸な事故にあい亡くなったことで、交流のあった香苗の父のところに引き取られたのだ。


近所の白石と父親の内弟子の勘石とその他の子供たちと、遊んだこと、石蹴りや、魚とりをしたことは、香苗にとって大切な思い出だ。


そして、夢のような時間は、夜明けの空の青のように、日の光に消されて、いつのまにか、現実とすり替わってしまった。男の子にとったら、一生続く幼なじみとの付き合いも、香苗にとっては、幼い時だけの、一時の縁である。

香苗も白石も勘石も、今は、白い光のような現実のなかで生きていた。


何も、感じない振りをしていれば、大人になれるのか?


それが、あなたの幸せよと香苗の母親は言う。


母にそう言われても、香苗にはそうは思えなかった。

嫁いだ後も、医師の資格はきっと役にたつと、母親を説得して学問所にはいった。母は、父が医師だから、香苗の決心を自然な成り行きと思ったのだった。


しかし、医師になりたかったわけではない香苗は単に、現実から逃れたかっただけだ。


このまま、ここにいたら、何の決心もしないまま、勘石の嫁になるしかない。


勘石が嫌いなんじゃない。だけれど、この気持ちでは嫁ぐわけにはいかない。


香苗なりに、真剣に考えた答えだった。

香苗はそういう、下向きな考えを持ってここへ入って来たのだ。


だから、花とあったとき、大きな衝撃を受けた。その女の子は、なにをするにも必死で、まるで命でもかかっているかのような学びかたをした。


しかし、圧倒的に香苗と違っているのは、どんなことがあっても医師になってやるという決心である。

香苗は、花の、心の強さに自然に引き寄せられた。

そして、花と共に、努力を重ねるうちに、医師として、一人前になる事が出来た時は、勘石と夫婦になってもいいと思えるようになった。

医師になるという、とてもおおきな目標を叶えることが出来たなら、勘石を支えることも、薬師の夫婦として生きて行くこともできるようなきがするのだ。


香苗が思いを寄せる相手ではなくとも、勘石が香苗を望んでくれるなら、それは、とても幸せなことに思える。


香苗は、医師になるために必死に学ぶ花の姿を見て、勘石のことを思い出した。

勘石は、香苗の気持ちを優先して、学問所に行くことを許してくれたのだ。


深い情がなければ、できないことだ。


そんな勘石の気持ちを、大切にできるとしたら、香苗は、医師として、人々を助けるのと同じくらい満足出来ると思える。


人が人に傾ける情は、それ位、大切なものだ。

そういう、大切なことに、気がつけて、香苗は幸せだと感じていた。


観劇をしながら二人は、夜明けを迎えた自分の未来を見つめていた。


険しい道の先は、見ることは出来ないが、

隣に道連れがいることに気がついて、二人の心は、勇気づけられた。


学問所は盆明けまでしまっている。花は、実家に帰るしかない。また近所の奥さん達の影口を聞かなければいけないのだと思うと、気が重くなる。

しかし、母にはいい報告が出来る。学長に誉められたこと、友達が出来たこと、きっと喜んでくれる。


花は、初めて学問所に来たときよりも、ずっと、強くなっている自分に気がついた。

学ぶことで、花は、初めて自分自身に自信を持つことができたのだ。


学問所の授業がすべて終わってから、花と香苗は、近くの団子屋で話しをした。休み明けの予定を話している。花は、墓参りをすませたら、すぐに戻ってくるといい、香苗も、あなたが、勉強を始めるなら、私も、遅れはとれないといった。

いつしか、普通の女の子と同じように、笑い声をあげる。


いつまでも、同じ道の上をあるく道連れでありたい。二人は湧き上がって来る不安を、夢というほのかな灯りで照らしながら、ゆっくりと歩いている。


学問所の授業がすべて終わり、もうすぐ二人は別々の家路につく。

今日は暑い日で、お日様が、中天に達する頃には、汗ばむほどに気温が上がっていた。


最後の夏の熱気が、あふれている。明日になれば、夏の暑い日を、懐かしいと思うのかもしれない。


女の子のおしゃべりは尽きることがない。二人とも、いつまでも、こうしていたいと思った。


それは、このままの女の子でいたいと願うのと一緒だ。

けれど中天に達したお日様は、だんだんと傾きはじめて、二人を急かすのだった。


しばらくして、花たちよりも、四つか五つ下の、三人の女の子が入って来たのを期に、二人は席を立って、近くの駕篭屋に向かった。

花は、上野まで、香苗は湯島まで、駕篭に揺られて行く。


待ち受ける困難は、この狭い入り口からは見えてはいない。


遠くに、夢に見た世界が、見えるようなきがするだけだ。


隣りにいる道連れのお陰で、不安も困難もその姿を見せてはいなかった。


今は、夢だけが見えて、二人の心は、晴れ晴れとしていた。



岡村家の家屋敷は、学問所の東に三丁ほどいったところにある、普通なら、そぞろ歩きをしているうちに、着いてしまう距離だ。

しかし、今日は、余りにも、気分が悪すぎた。


おまけに、同窓の小生意気な女学生に、文句をつけられて、もう少しで、ムキになるところだった。

それにしても、あの鈴村という学生の、手術の見事さは、どういうことか。


あれが、自分の腕前であったなら、なんの、不自由もないのに。

青山は、駕篭に揺られながら、ため息をついている。


家に帰れば、また薬師としての、忙しい日々がはじまる。


試験のために、三日ほど帰っていなかったからだ。

それに、母にも、何か言い訳を考えなくてはならない。


青山本人は、もう、自分に、人の内臓をどうにかする才能がないことを、理解しているが、母はまだ諦めがつかないらしく、青山に無理を言い続ける。


とりあえずは、上手く行っているとでも言っておこうか。


青山は、またため息をついて、帰ってから、調合しなくてはならない薬のあるのを、忘れないように、矢立てを出して、書き出しておいた。


切っても、つないでも、助からないものは、助からない。


苦痛を抱えて、青山のもとを訪れる患者に、必要なのは、何なのか。


青山は、体を切ることが、すべてではないと信じている。


痛みを取るための、麻薬は、人をゆっくりと殺すものだ。使わない薬師もあるが、青山は、痛みを取ってやることが、自分の役目だと信じている。

病気が完治しなくとも、あとに残される人が、看病できたと思ってくれれば、それは、両者にとっていいことだと思うのだ。


しかし、世間の人々は、手術をしない青山を、まるで価値のないものにしてしまった。


青山は、何も気にとめないふりをしていたが、父親の名を出されるたびに、深く傷ついた。


父親からは、技術しか習うことが出来なかった。


なぜ、父が体を切って、病を直そうと思ったのか、そういう大切な、心の確信の部分は、父と話す事が出来なかったのだ。


父の最後が、卒中だったからだ。


今でなくとも、いつでも聞ける、青山はそう思っていた。


父親が死ぬものとは、思っていなかったのだ。


悩みながらも、自分にも、手術は出来る、そう信じて学問所に通い始めた。


けれども、それは青山にとって水の上を歩くほどに難しいことだった。



父が生きていたなら、出来るようにしてくれたろうか?


青山は、なんとなくそうなんじゃないかと思う。

腕前や経験ではなく、先生と、父親は、何かが大きく違っている。


父が青山をどれほど理解してくれていたか、それは、やはり深い愛情というほかないのだろう。


どちらにしても、もう、父はいないのだ。


悩み事の中に埋もれていると、自分の存在価値さえも、無だと思えてしまう。


現実を変えることが難しくて、青山は、花街で遊ぶことを覚えた。


花街で遊んだからと言って、うさがはらせるわけじゃない。

父親をこうる気持ちは、日が経つにつれて、強くなった。


母親には、手術は覚えられそうだと言ってしまった。嘘を言ったつもりはない。何か、新たな策を講じるための、時間が欲しかったのだ。


帰宅してから、二日は、薬の調合に追われ、寝る時間もへずられるほどだった。


長年青山のところに通っている、患者のひとりは、たまにしか帰らない青山のことを心配して、菓子折りを差し出してくれた。


「青山先生、この所ずっと、顔色が悪い、医者の不養生っていうからさ」


そんな優しい言葉を掛けてくれる。


「佐の助さん、あなたのお優しい言葉で元気が出ました。ありがとうございます、どちらが医者なのかわかりませんね」


佐の助は、胃の府に痼りがある。痛み止めの麻薬を、少量ずつ出している。

本人には知らせていないが、もう、助かりはしないだろう。

家族には、覚悟がいる、と含めてあった。


医者と言うのは、とても複雑なしごとだ。患者の病気を診るためには、自分が健康でなくてはならない。


けれども、他者の痛みや、苦しみに触れると、人は、そっちの方に引っぱられるものだ。


医者といえども、同じなのだ、闇のなかに引っぱられないよう、常に抵抗しながら、病と戦っている。


青山は時折思う、女は欲しいと思わないが、支えとなる身内は早く欲しいと。


かと言って、候補があるわけではない。


女というものの裏側を見すぎてしまって、今更誰かに惚れることなどないと思えた。


帰宅してから五日もたつと、青山はまた、花街に足しげく通い始めた。


今日は馴染みの松野屋ではなく、的屋というやや格の落ちる店を選んだ。


松野屋の紅花の香が、鼻について来たからだ。

飽きたわけではなく、これ以上、近寄りたくないのだ。

またしばらくしたら訪れるとしよう。


的屋の女は皆子供のように若かった。

誰でもいいと思ったが、店の男衆に銭を握らせてみた。


「ここは初めてでね、唄の出来る娘をたのむよ」


注文と言うほどではないが、そう言ってしばらく待っていると、花魁とかむろが現れた。


いきなり、花魁か。それでも、唄わせると、声もいいし、色もある。


花魁といっても、格好だけで、花魁特有の格式らしきものは、どうやらないらしい。


七華というその花魁は、唄が好きらしく、会話につまると、また唄った。


きっと、北の国の訛りでもあるのだろうと思う。


「なな、話しをしよう。唄はまた、別れの時に、聞かせておくれ。」


青山はそう言ってみた。


「ななか、生まれ在所はどこだ?北の国かい?」


七華は、少し困った顔をして、うなずいた。

「はい、陸奥のくにでありんす」


七華の言葉は、まだたどたどしい。

その不自由な様を見ていると、青山は、そこに、自分の、自由にならない現実を見る気がする。


そして、不意に、その花魁を欲しいと思った。


これまでも、花魁と床をともにすることはあった。

しかし、いま青山の中に、生まれた感情は、興味や好意ではなく、単なる、劣情だった。


自由にならない言葉を使う、この花魁の中に見える自分の姿を、消したかったのかもしれない。


青山は、いきなり女の上にのしかかった。


「お待ちあれ、帯を解くのは、たいこもち」


女が慣れない言葉で、いい終わるまえに、青山は、帯を解きおおかた衣を剥ぎ取っていた。


「七華、わたしが恐いか?」


青山はそうきいた。どんな答えが返ってくるか、予想すらしなかった。


七華はすぐに、答えてくれた。

「恐かねぇ、おめぇ泣きそうな、顔してる」


青山は、冷水を浴びせられたように、我に返った。

劣情は、泡のように消えて、情けない現実だけが残った。

青山は、七華の体を起こしてやり、紅のきれいに塗られた、唇を味わった。


「七華、また話しをしよう。わたしの前では、もう花魁言葉は使わなくていい」


青山は乱れた着物を直し、さっと立ち上がった。


長居をすれば、みじめな気持ちになる、そう感じたからだ。

それに、今ならなんとか、取り繕うことができる。


「七華、また来る、今度は、たいこもちを呼ぼう」


青山は、そう言って微笑むことができた。


青山は、落ち込んではいなかった。

花街で遊んでも、現実は変わらないことは、初めからわかっていたからだ。


青山は、自分の才能を、認め、伸ばしてくれた父と同じ場所に立ってみたい。そう思って、辛い勉強をしているのだ。


努力を重ねても、青山には、父が自然にしていたことができなかった。


そんな時は、無性に父に会いたくなる。そして、今も元気でいてくれたら、自分にどんなことを教えてくれるのだろうかと考えてみる。


お前の才能も、立派なものだと誉めてくれるだろうか?


父洸山と同じ経験ができないことがとても悲しかった。


けれど、父洸山は、青山に揺るぎのない自信を、植え付けてくれていた。


だから、生意気な女学生に文句を言われても、平静を装っていられたし、もう、限界と思えるところまで、努力を続ける事が出来るのだ。


しかし、その努力もそろそろ、限界だ。

さっきのように、我を失っていたのでは、医者など務まらない。


的屋から、屋敷に向かいながら、青山は、自分を支える誰かの力を欲しいと思った。



学長玄徳は、腕のいい学生の胸の中程に付いていた、痣のことを考えていた。


確かに、あの痣は、我が身にある痣に似ていた。



玄徳の右手の肘の内側に、確かに、羽ばたく、小鳥の形の痣がある。


痣は、劣性遺伝する。

だとしたら、あの女学生が、我が子である可能性がある。


初めて教えた時から、覚えの早い、勘のいい子だった。


教えたことは、わすれないし、応用も出来る。


実に、優秀な学生である。


あの学生が、娘だという可能性は、どれくらいあるのか?


考えはじめると、いくら玄徳と言えども心がみだれる。


鈴村という、薬師の家系の名字は、別れた妻の家のものではない、苦し紛れに、別れた妻が考えたものかもしれない。


玄徳は、娘だなどと、思わずに、目をかけてきたのだった。

たんなる偶然か?それとも、運命の引き合うちからに手繰り寄せられたのか?

考えはじめると、玄の胸は、過去の弱かった自分を、思い出し、後悔を繰り返すしかない。

心が乱れ、平静ではいられなかった。


どちらにしろ、優秀な学生として、接するよりほかはないのだ。

盆の休みがあける日はすぐそこに迫っていた。




香苗と吉野白石の屋敷は、門を出てながめれば、その門を臨めるほど近い。


距離は近いけれど、それぞれの父親の、師にあたる先生同士の因縁が、今も残っているせいで、互いの家に交流はない。


二人は幼い頃に、遊んだきり、しきたりの通りに、言葉を交わすこともなく、暮らして来た。


しかし、幼い頃に、培った友情は、ときがたっても、褪せることなく、二人の胸の深いところでいきていた。


そして、学問所で再会すると、その友情は、すぐに息を吹き返した。


そして、互いの存在を、より大切に思う感情が湧き上がって来るのを、抑えることが出来なかった。

きっと、あの頃から、互いに、特別な存在だったのだと思う。

けれど、離れてくらしていた年月は、二人の人生を、別々の方向へ導いていた。

二人にはそれぞれ、許嫁があったのだった。


二人とも、心の中に想いがあるのを知りながら、未だ、口に出すことなく、過ごしている。

香苗は、それでいいと思う心と、胸の内を、伝えたい気持ちの間で、揺れていた。


勘石のことを嫌いになれたらいいのに、香苗はそう思う。


それならば、白石を好きだという気持ちに向き合うことが出来る。


しかし、物静かで、穏やかな心を持った勘石のことを、否定することは出来なかった。


香苗が、白石を愛するように、大切に思うように、勘石も、香苗のことを、大切に思っているのがわかる。


香苗は迷っていても、顔には出さないつもりでいた。



家に帰れば、勘石と話す機会も増えるし、両親の目もある。

勘石に、何か問題があると思われたら、とても悲しい。

勘石は、篠山家の兄妹にとって、良き兄であり、良き友であったからだ。



香苗のことは、幼い頃、この家に引き取られた時から、好きだったのだと思う。

好きだから、見なくてもいいことまで、良く見えてしまう。


わからない方が楽なこともあるのに、そういう、小さい変化も、良くわかった。



香苗が、沈んでいるのが、学問所での、成績の所為でないのははっきりしている。


きっと、学問所で、吉野白石にあったことが、原因だ。


このまま、黙っていれば、香苗は、自分の物になる。


勘石はそう考えたこともあった。しかし、それでは、香苗の心は手に入らない。


一番欲しい物が、手に入らない。


「香苗さん、優秀な成績、おめでとうございます。玄徳先生も、誉めておられましたよ」


夏の熱気が、過ぎ去ったあとの、わずかに、冷たい風の吹く日だった。


勘石は、香苗の心をはっきりと確かめたくて、話しかけた。そして、自分が香苗のことを、どれほど愛しているか、見せたいと思った。


「いいえ、それは、勘石さんが、試験の詳細を話して下さったからです。私の力ではありません」


「そんなことありませんよ、玄徳先生は、香苗さんの、手術の丁寧さを誉めたのです。けして付け焼き刃で、出来ることではありません。見事な切除術でした」


香苗は、素直に嬉しかった。勘石も、学問所の講師である。


その勘石が、香苗の手術を見て、評価してくれるのは、まだ勉強中の学生にとっては、最高の励ましだ。


「帰宅されてから、元気がなかったから、心配でした。余計なことですが、吉野君のことが気になるんでしょう?」


「私だって、あなたを思う男なのです。あなたの、心はわかるつもりです」

香苗は、勘石の深い優しさにうたれて、涙を浮かべた。


勘石が想い人だったら、なんという幸せだろう。

しかし、勘石は、香苗にとって、ただ一人の想い人ではなかった。


下を向き返事に困る香苗を、勘石は、そのまま抱きしめた。


「香苗さん、私の欲しい物がわかりますか?どうか考えてみて下さい。」


勘石は、わかれ際に、香苗にキスをした。唇を重ねるだけの優しいものだ。

二人にとって初めてのキスだった。


香苗は、一瞬はっとして、拒絶しようと思ったのだ。

しかし、勘石の顔があまりにも悲しく、切なさに満ちていたから、横を向くことが出来なかった。


しかも、抱きしめられたとき、香苗は、確かに慰められた。

優しさと、体温の温かさに触れて、確かに慰められた。


勘石のことを、嫌いにはなれない。


その日は、先祖の墓を皆で参ることになっていた。


さっき勘石に言われて、元気がなかったことに気づかされた。

だから、母と花や線香を用意するとき、花と二人、劇を見た話しをした。


その話しなら、楽しくて、元気がでる。


「お母さん、学問所の友達と、劇を見たの。役者がすごく素敵で、隣りの席の子を振り返ったらその子の顔も真っ赤だったわ」


香苗は、その時に、役者から、受け取った勇気のようなものの事を、母に伝えたいと思った。


「役者ってすごいなって思ったのよ、試験の事ですごく疲れてたのに、観劇のあと、二人とも元気になって、医者にも、こういう力が必要だよねって話したわ」


「それは楽しそうね、いいお友達が出来て良かったわ。お医者の修業は辛いってお父様がおっしゃるから、ずっと心配していたのよ。でも、勘石も大丈夫だというし、あなたの、顔色もいいから、何も言わずにいたの。」


「勘石さんが?」


「帰る度に、あなたの誉められたことや、課題の成績なんかを知らせて、私を安心させてくれていたのよ」


香苗は、そういう、勘石の気の利いた、大人のところが気に入らない。


一人でも、なんでも出来ると思いたいのに、見守られていたことに、腹が立った。


さっきは、勘石の優しさに、心がうごいたのに、今は、文句を言ってやりたい気持ちだ。


香苗は、勘石の方を見なかった。

駕篭から降りてからずっと。

香苗は母親のそばを離れずに、水桶を持って、先祖の墓まで歩いている。


勘石は明らかに、さっきしたことが原因だと思った。


香苗に避けられている。

しかし、今ここで話しをするわけにいかないから、花や水桶を持ちながら、なんとなく、香苗と母君を追い越してあるいた。


すぐそばを、香苗の兄秀仙が歩いていた。長崎で蘭法の医学を学んでいる。

盆や正月くらいしか帰って来ないのだがさすがに、嫁のチヨさんが産み月に入ったので、しばらく滞在するらしい。


そして久しぶりに見た妹の変化には、すぐ気がついたらしい。


「おい勘石、やっと香苗をおこらせたな、やっと契りを交わしたってことか?」


「何をおっしゃいます秀仙さん…」


後が続かない勘石の話しに、秀仙は、やっぱりそうなんだろう?という顔で、勘石の顔を覗き込む。「学問所にあいつがいたから心配したんだぞ。でも、お前ときたら、香苗のことになると夢中だったからな、いつかは、香苗をおこらせると思っていたぜ」


秀仙は今度は真っ直ぐ前を向いてはなした。


「どちらにしても、あいつは、自分の家を、怒らせるきはなさそうだ」


秀仙が自分と香苗の仲を、そんなふうに思っていてくれたこと、勘石は初めて知った。


「勘石、お前の勝ちだ。あとは香苗にうんと言わせるだけのこと」

「秀仙さん、私と香苗さんのこと、反対なんだと思っていました」


「なんでかな、おれは、妹に幸せになって欲しいだけさ。多少の困難や、人との摩擦くらい、何とか出来る奴じゃなきゃ困るだろう?」


秀仙はすでに、身内を見る目で、勘石を見ていた。

「ですが、私は失敗したらしいです。さっきから、口をきいてくれない。」


「しょうがない奴だな、何をしたのか、何を言ったのか、話してみろよ」



勘石が養子になったとき、秀仙は一才になったところだった。

だから、仲は良い。叱られるのも、誉められるのもだいたい一緒だった。


勘石は、明らかに、優秀であり、秀仙は学ぶのに時間がかかった。

医学を学ぶ間に、仲間とも、兄弟ともちがう絆が、二人の間に生まれた。


だから、勘石は素直に話し始めた。


「もう黙っていられなくて、香苗さんを愛しているといいました。そして、だきしめてキスをした。ただそれだけです」



「本当にそれだけか?そんなことでなんで怒るんだろう、おれにはわからないな、あいつは、小さいことにこだわるんだよ、なにか他にないのか?」


「他にと言われても、なかなか話す機会もなかったし、今日初めて話をしたんです」


「そうか、母さんと父さんには、何か言われたか?」


勘石は、母君が花の学問所での暮らし振りを心配するので、帰るたびに、いろいろ話していた。その事を話すと、秀仙はどうやらそれだろうといった。


「あいつは、どうにも我が儘なやつなんだ。こんなことを言ったらわるいが、学問所に入ったのだって、このまま家にいたら、お前と結婚させられそうだったからさ、お前のことが嫌いなんじゃないよただ、たとえ親でも、誰かの決めた相手なんて、いやなのさ。話がそれたけど、折角、一人でやってると思っていたのに、お前が親に、あいつの話をしてたのが気に入らないんだろう。」


勘石は、そういう繊細な心を忘れていた。


香苗は、まだ学生なんだ、結婚よりも、医者になりたいと思っている。


だから、切除術を誉めたとき、あんなに嬉しそうな顔をしたのだ。


「おい!聞いてるのか!まったく、お前ときたら。なぁ、キスしたとき、あいつは、どんな顔してた、逃げなかったんだろう?」


「どんな顔って。とても…綺麗でした」


「なんだ、その答えは、要するに、嫌がらなかったんだな?」


「拒否されると思ったんですが、ただ、唇を重ねただけですから」


「あいつは何時まで家に居る?あと二、三日は居るだろう?」


「学問所に、友達がいるんです。その子が、すぐ帰るというので、明日にも、帰ってしまうかもしれません」


「そうか、それなら今夜香苗に夜這いをかけろ、お前の気持ちってやつをあいつに見せてやれよ」


その会話を機に、秀仙は、篠山家の長男としての役割を、果たし始めた。

秀仙は、口が立つから、彼がいるときは、勘石は、雑用をしていればいい。


勘石が、そういう付き合いを苦手としているのをわかって、秀仙は、一人で引き受けてくれる。


手術の時は、勘石が秀仙を助け、教える、そういう絆が、二人の中にはあるのだ。


家督を継ぐのが秀仙だから、勘石をとんだ貧乏くじだと人はいったが、二人には、わからぬくせに、と笑う余裕があった。



秀仙に夜這いと言われてから、勘石は落ち着かない。

馴染みの親戚から声を掛けられても、上の空だ。


墓を参っているというのに、頭の中には、香苗のことがいっぱいで、動悸がおさまらなくなって、大変だった。


女は皆同じだと思えたらいい。しかし、香苗に嫌われるのは、闇に閉ざされるのと同じだ。急に、弱気が面に出てきて、平静ではいられない。






鈴村と言うのは、花のおばあちゃんに当たる人の旧姓だ、今日は入谷にあるおばあちゃんのお墓にお参りに来たのだ。


墓参りをすませると、もう一度だけ聞いてみようと言う気になった。

自分の父親のことだ。

花は、もう大人だ。どんなことを聞いたって、慌てることもないし、落ち込むこともない。



母が、話してくれなかったとしても、花が、そういう心構えでいることを、わかってくれれば、それでいい。


花が、学問所に通わせてもらったおかげで、大人になったこと、友達ができて、心が、強くなったこと、そういうことを、母に、知らせたかった。


母方の祖父母の墓だ。お参りをすませた親戚達と、すれ違いに挨拶を交わし、花達は、二人でお参りする。


母は出戻りだし、花は、可愛いといえる容姿ではない。互いに、気を遣うだけなら、少しだけ時間をずらそうと、あるときから、こういうお参りになった。


祖父母の墓には、まだ親戚達がいて、花達に声をかけ、近況などを、話しあった。

ここで、待っていてくれる人達は、花達を心にかけてくれる優しい人達だ。


花達を、血の繋がる者として、親しみを持ち、普通に話しをしてくれる、温かい人達だ。


皆がそうでないのは、どうしてなのか、花にはまだわからない。


母だって、父と別れることになるなんて思っていなかったろうし、花だって、可愛いらしい顔で生まれて来たかった。


花達は、普通の人より、ほんの少しだけ、ついていないだけなのに、どうして、皮肉を言われたり、意地悪をされたりしなきゃいけないんだろう。


花は、人の悪意を、母や自分の不運だと思って生きてきた。自分達に向けられる悪意に、なんの疑問ももたなかったのだ。


しかしいろいろなことを学び、いろいろな人達と対話をするうちに、花は自分の考えが間違っていたことに気づいた。


外見や、家柄だけが、人の人生を決めるものではない。

そして、そう考える人達はたくさんいるのだ。


悪意に、何かの、理由があるなんて、単なる花の弱さのあらわれだったのだ。


自分の事を、一人の人として扱ってくれる人は、花が心をひらくと、自然に見つかった。


そして、花の心は本来持っていた柔らかさを取り戻していったのだ。


目の前の困難は、簡単に取り払うことは出来ない。


けれど、花の中に、生まれた勇気は、悪意や、意地悪にかき消されることはなかった。



花は、自分から、いつも声をかけてくれる、叔父に話しかけた。


以前は考えられなかったことだ。


「叔父さま、お元気そうで安心しました。この夏は暑かったから、小石川も大変でした。」


「花ちゃん、もう患者さんを診ているそうじゃないか、うちのあきえが風邪が治らないんで、一度行ったんだよ。ふとみたら、花ちゃんが、患者さんを診ていたって、びっくりして帰ってきた、まだ、かれこれ半年だろう?いや、大したもんだ」



叔父は、嬉しそうな顔で、花を誉めてくれた。


しかし、どこかに、何か、引っかかりを感じた。いつもは感じない違和感を、叔父の言葉の中に感じたのだ。


花の父親が、医師だから、花が、医術を習うことには、初めから、いい顔をしてはくれなかったのだ。


「療養所の患者さんを診るのも勉強なんです、診させて頂いているんですよ。まだまだ先は長くて、厳しいですが、頑張りたいです。」


花は、言おうか止めようか迷ったが、母のすぐ上のこの叔父が、花は、一番信頼できた。


母と叔父を残して、叔母さまたちは、上の叔父さまの家にむかったらしい。


「龍介叔父さま、何時かは聞こうと思っていたの、私の父親のことよ。今も医師を続いているとしたら、私の近くにいるのかしら?」


龍介は、正直なことをいえば、花の父親のことは、知らせたくない。

しかし、自分の思いを素直に、口にする花の成長を、嬉しく思う気持ちもうまれた。


「叔父さま、私、どんな話しを聞いたって、落ち込んだりしないわ。少しは大人になったのよ」


花は、しっかり龍介の目を見据えて、一歩も引かなかった。

しかし、母は、花の願いに、答えてはくれない。


「花、父さんのことは、聞かない約束よ、少なくとも、学生のうちは知る必要はないでしょう?」


「母さんを、納得させるのは、きっと私には、無理なのね、だから、叔父さまに聞いたのよ」


「花、聞いたって、なんの意味もないわただ、あってみたいと思うだけのことなのよ。それに、あなたの顔を見たって、娘だとはわからないわ、まだ乳飲み子だったのだからね。」


「母さん、会いたいと思ったって、会いやしないわ。訳があるのも、よくわかっている、ただ、父親の存在が欲しいだけよ」


くじけそうになるとき、何時か、その父よりも、立派な医師になる。そう思うことが出来る。


その目標が欲しかっただけだ。


父には、花よりも、大切な物があったのだ。ただそれだけのことなんだ。花は、そう思っていた。


他の理由は花には、考えられなかった。


「花、あなたは、捨てられたとでも思っているのでしょう?でもそれは違うのよ、だから話すことが出来ないの」


母ちかの顔は、優しいうそで、花を、黙らせようと言うものではなかった。


これほどに母を困らせること、それが花と父親の縁の中にあるのか?


母の困りはてた様子に、花は、黙るしかなかった。


龍介は、花の気持ちもわかる。父親がだれなのかを知る権利は、花にもあるはずだ。


「ちか、花ちゃんが、ちゃんとお医者になれたなら、話してやったらどうだ」


叔父は、自分の妹と花の顔を交互に見ながら、話しを続けた。


「花ちゃんは、どんな人が父親なのか、ただ知りたいだけなんだろうよ、どうこうしようと言う気は初めからないんだろうからさ」


花は、龍介の顔を見ながら、頷いた。見方をしてくれたのがとても嬉しかった。

それに、母のさっきの話しが気になって、他のことは、もはや上の空だった。


捨てられたわけじゃない。母はそういった。けれど、その訳を言ってはくれないから、かえって、胸が苦しかった。


「母さん、それでいいわ、私頑張るから、話してね」


花は、激しくなった鼓動を鎮めるように、そう言った。


父親にまつわる話しは、どうして、花を苦しめるのか、自分から初めたのに、少しだけ後悔した。


香苗のことが頭に浮かんだ。いつ学問所に帰ろうかと考えているだろうか。


他のことを考えたくて、思い浮かぶのは、学問所でのいろいろな体験だった。


ともに、学問に励んだり、休暇を一緒に過ごしたり、花と香苗は、本当にいつも一緒だった。


早く香苗に会いたいと思った。婚約者の勘石先生との仲は、どうなったろうか。


とても優しく、静かな人で、しかも、香苗のことを大切に思っているのが、花にもわかるほどだった。


花にしたら、羨ましいことだが、でも、香苗は、吉野君を想っているらしかった。

勘石先生も、香苗ちゃんが吉野君を、憎からず思っていることを、知っているようだった。


それでも、勘石先生は、慌てることも、落ち込むこともない。


本当に、立派な先生だと思う。年は、五つか六つしか違わないのに、随分大人にみえる。


花が、報われないと知りながら、青山を想い続けるのと一緒で、恋というものは、不思議な力を持っているようだ。


花とちかは、何も話さずに家路についていた。


また、同じ話題を蒸し返すほど、母と娘は、幸せではないのかもしれない。


二人は、久しぶりに、反物を見たり、評判の菓子を味見したりしながら、家路をたどる。


さほど話しはしなくとも、二人の心は、確かに通じている。


そして、波紋がおさまるように、二人の心は、徐々に静まっていった。


「母さん、私明日学問所に帰るわ、母さんは私が医者になることに反対?」


花は、黙って学問所に通わせてくれた母の本当の心は、どうだったのか、ふと気になったのだ。


「医者でも、何でも、一人前になるっていうのは大変なことよ、すべてあなた次第なの、お医者のことたけじゃなくて、母さんはあなたの願いが叶うことを願っているわ」


花にとっては、意外な答だった。もっと否定的な答が返ってくると思っていた。


しかし、母の言うことには、確かに温かい心が通っていた。


手術が出来たって、患者を診ることができたって、自分の心はまだ子供のままだ。


花は、母のように、大きくものを見ることが出来る大人になりたいと思った。


大人になるということはきっと、いろいろな絆を築くことの出来る人間になるということだ。


今も、花は、母のことをおもい、母は、花のことを思っている。


当たり前のことかもしれない。けれど、いつまでも、そういう親子でありたいと思う。


「母さん私、父さんの声を覚えてるの、頭を撫でてもらったことも」


母は少しはっとしたが、すぐに笑顔を取り戻した。


「父さんは、素晴らしいお医者なの、患者さんが、何度もお礼を言って、帰っていったわ。あなたが覚えている声は、患者さんの声かもしれないわね」




花は、そうではないと思ったが、母を心配させたくなくて、笑顔で頷いた。


実際にそうだったかもしれない。花は、まだ言葉もはっきりとはしゃべれないくらいの年だったのだから。


花は、今は、もう下を向いてはいなかった。


ちかと、胸を開いて話しをしたことで、また少し、自信を授けてもらった気がする。





勘石は、秀仙に言われたことが気になって、今も激しい鼓動を抱えていた。香苗に、関係を迫ったところで、今、香苗が怒っているその原因を、除かない限り、二人の関係は、返って悪くなる。


香苗は叔父さんや叔母さん達に捕まって、お医者はあきらめて、早く所帯を持った方がいいなどと、言われている。


香苗はにこやかに聞いているが、かなり不機嫌そうな表情だ。


勘石は、いまでは、香苗の微妙な表情もわかるようになっていた。


香苗が怒っている原因が、秀仙の言う通りだとしたら、素直に、詫びるわけにもいかない。


香苗を心配する母君を、慰め安心させてあげることは、自分にしか出来ないことだし、間違ってはいない。


香苗の母君、早紀さまは、勘石にとっても、養母となってくれた、恩人である。


香苗の自立したいという、少しわがままな夢のために、早紀さまが、心労する姿は、見ていられない。


香苗が、本当に大人になり、自立したいと思うなら、母君の心を理解するべきだ。


勘石は、香苗に迫るよりなにより、母君が、どれほど香苗のことを気にかけているのかを説明したいと思った。


清めの膳もそこそこに、勘石は、薬の調合が残っているからと言って、帰途についた。


勘石は薬を調合しながら、この家に来てからの日々を振り返っていた。


勘石は、始めは香苗の婚約者ではなかった。

篠山家には、すでに男子がいたし、香苗は、薬師か医者のところへ嫁ぐものとそう思っていた。


勘石の両親が事故にあい、篠山家に引き取られて来た時から、三人は、仲良く育ち、やがて、将来の職を決める年に成長した。


秀雅は医者を目指すものと思っていたが、勘介は、香苗まで医者になりたいと言い出すとは思っていなかった。



秀山先生は、さすがに香苗には、医術の手ほどきをしなかった。

大人になってからだと言い聞かせて他の習い事をさせていた。


秀山先生について、秀雅と勘介の医術の勉強が始まった。


勘介は、記憶力や実習において、明らかに優れていた。

教わったことは忘れないし、手先が器用だった。

器用さを生かして、初歩的な手術は、すぐに出来るようになった。


秀司の才は別のものだった。明るい性格と、豊かな心である。

患者の心や体調の変化に敏感だった。

患者は、秀雅の優しい顔を見ると、安心して、病状を詳しく話してくれた。


診断するには、重要な助けになる。


二人は、それぞれ、強い個性を持っていた。


どちらも、医術を習得するために、とても大切なことだ。


二人は、互いの才能を羨ましく思った。

そして、互いをもう一人の師として、学びを続けていったのだ。


懐かしい。勘石はそう思った。三人とも子供で、希望しか見えなかった。


努力はすべて報われてきた。


大人になって、篠山家の家督を継ぐ者は、秀仙一人であることを知り、自分の存在を示す方法は、香苗の婿になることだと知らされた。

しかし、勘石は、この現状を不満に思ったことはない。


養母の早紀さまだけは、いつも、真心を捧げてくれたからだ。


勘石はこの母から真心を教わった。他者に対して、通じる心である。


だからこそ、香苗にも勘石の心をわかって欲しい、そう思うのである。


愛情があるからと言って、相手を幸せに出来る訳ではない。


けれど、思う心がここにあることだけはわかって欲しいと思った。


考え事をしながら、薬弦の薬を砕いていると、いつの間にか、帰宅した秀仙が、ニヤニヤと笑いながら、勘石の背中を眺めている。


彼の言いたいことは、わかっている。


香苗のことを無心に考えている、勘石の姿が、可愛いらしいと言うのだ。


秀仙の妻チヨは、二人目の子が臨月に至ったため、実家に帰っている。


本当は心配で落ち着かないのを、勘石をからかうことで、紛らしているのだ。


「秀仙、なにをニヤニヤしているんだ、チヨさんのことが心配なんだろう。」


「任せちまったんだから、心配したってしょうがないさ、産婆さんの方が安心だって言われちまったんだからな」


秀仙はそういうと、少し下を向いた。


チヨさんは、薬師でも、医者でもない家の娘だ。いつか、こういう問題が起きると皆、薄々感じていた。



チヨと秀仙が恋仲だとわかったとき、秀山は、いつまでも、一人にしておいた自分が悪いと諦めた。


男女の仲は、ある時を境に、壊すことがかなわなくなる。


無理やり仲をさけば、その傷が二人の心に大きく残る。


医者を志す者にとっては、心の傷は、大きな不利をもたらす。


ならば、チヨを嫁として、この家のしきたりを、教え込む方がいい。秀山は、そう思った。


チヨと結婚した秀仙は前より一層励んだし、よめとなったチヨは、覚えの早い、賢い娘だった。


秀山は、悩むこともなかったと、安心したが、それは、少々早計だった。


チヨ本人は、秀仙を助け、よく働いてくれた。


しかし本当の問題は、彼女の実家だった。


実家の父親は、蘭法の医術をまるで信用していなかったのだ。



娘の夫の生業を、全く信用出来ないとしたら、それは、親にとっても、とても不幸なことである。


少々元気のない秀仙を、慰めようと、勘石はつとめて明るい声を出した。

「なぁ秀仙、チヨさんは、またきっと、男の子を産むな、本当にきつい顔になっていたものな」


秀仙は、チヨさんが実家に帰ってしまった事がイヤなのだろうと思う。


「初めの出産の時、肥立ちが悪かったからな、実家の親父殿に信じてもらえないのも、仕方がないさ。でもチヨはなぜ帰るって言ったんだろうな?」


「私の想像でいいか?チヨさんは、お前に負担をかけたくなかったんだろうな?私はそう思うよ」

「チヨさんは、帰りたがってはいなかったよ、でもまた難産だったら、実家の親父殿がうるさいと思ったんだろう」


「そうなんだ、チヨはお産が重いんだよ、心配なんだ、太郎の時も、出血が多かった」


「秀仙、命に関わることだからな、心配なら、チヨさんの御実家に寄せて貰ったらどうだ」


「幸いというのも、気が引けるが、父君もお城に詰めておられる、お城の皆様をみおわるまでには、いましばらくかかるだろう」


「勘石、少し気が楽になったよ、お前だって香苗の事で、気が気じゃないのに、聞いてくれて有難う、まだ日が暮れるまでには間があるから、一度訪ねてみるよ」


「ああそれがいいさ、チヨさんの顔を見たら、少しは安心できるさ」


秀仙は、どうやら、チヨさんの体が心配でならなかったらしい、勘石との話が終わると、さっさと衣を整えて、出て行ってしまった。


秀仙が出て行ってすぐに、駕篭がついた音が聞こえた。香苗と早紀さまと、あと親戚の何人かも一緒かもしれない。


親戚の方々が一緒なら、出て行かない訳にも行かないと思い、勘石は、玄関まで出て行った。


「お帰りなさいませ、今日は涼しくてようごさいましたね」


勘石は戸の向こうにいる人の、顔をみる前に、そう挨拶した。


開けたとの向こうにいたのは、香苗だった。


「お帰りなさい香苗さん、秀仙さんは、チヨさんの御実家に御機嫌を伺いにいらっしゃいましたよ」

香苗は、口を利かずにいたのに、何もなかったように、挨拶の言葉を口にする、勘石が気に入らなかった。


「香苗さん、早紀さまの事でお話ししたい事があります、夕餉の後で、お部屋に伺ってもいいでしょうか?」


香苗は、勘石からの、挑戦を受けたかのように、はっきりと返事を返した。


「勘石さま、私にもあります。よろしかったら、今お話しましょう」


「では、お茶を入れて参りましょう。私も喉がかわいたと思っていたところです。夢中になると、お茶など忘れてしまいますからね」


香苗は、このところ、勘石と話をすると、どういうわけか、悔しい気持ちになる。


何かを争っている訳でもないのに、自分が子供扱いされているきがするのだ。


「勘石さまは、お清めもまだでしょう?お仕事がおすみなら、御酒をあがったらいかがですか?」


香苗が精一杯、大人を意識して、話す言葉は、勘石には、何か、切なさをよびおこさせた。


「折角のお言葉ですが、まだ挽かなければならない薬があるのです。それに、私は、御酒より、菓子の方が好きなんですよ」


勘石は、お茶をいれ、可愛らしい京の砂糖菓子を懐紙の上にいくつか載せて、香苗の部屋へ急いだ。


「香苗さん、それでは、失礼しますよ。お清めの席を途中で抜け出してしまって申し訳ありませんでした。私は、子供の頃からああいう席が苦手なんです」


「香苗さんは、私に何か怒っていますよね、何なのか、話してくれませんか?私の話しは、早紀さまのことですから、後でいいです」


香苗は早紀の名を聞くと、下を向いていた顔をすっと上げ、勘石の目を真っ直ぐに見つめた。


勘石は、香苗に助け舟を出すことも出来たが、香苗が話しを始めるまで、ただじっとその目を見て待っていた。


「勘石さん、あなたは、学問所での私の事を、母に話してるのね?そんな間者のようなことどうしてするの」




「なぜ、間者だなんて言うんですか?私は学問所の講師です、香苗さんのことも教えている。あなたの将来に責任があるんですよ。それと同時に、あなたの成長には喜びを感じるんです。あなたは、良く頑張った。多分、患者の手術も、もう出来るでしょう。私は、あなたの頑張りを、あなたを見守る方々に伝えてあげたいだけなんです。そして早紀さまは、医者のお内儀だ、医者がどれほど大変な仕事か身を持って知っている。だからあなたを心配するんです。あなたを愛し、信頼してくれる母君に、様子を話して安心させてあげることがいけないことですか?」


香苗は講師に叱られる、学生のごとく、黙ってしまった。


ただ学問所での出来事は、香苗にとっては、とても大切で、話しをするなら、自分でしたいだけなのだ。


学問所の話しは、自分でしたい。そう言う前に、香苗の頬を悔し涙が伝った。


勘石は、香苗を攻めたわけじゃない、早紀さまの愛情を伝えたいだけなのだ。


けれど実際には、香苗は、勘石には耐え難いほどの悲しそうな顔で泣いていた。


「私は……あなたの話しを聞きたいと言ったのに、まったく何て大人げない男なんだろう」


「香苗さん、すみません、あなたを攻めたわけじゃない、ただ……」


勘石は、女性の心を深く知ってはいない。自分よりもずっと若く、まだ一人前ではない香苗の心がわかるはずもなかった。



香苗は、涙を流している。しかし、その涙は、とても塩辛い悔し涙だ。


学問所のことは、自分で話す。それだけいえばいいのだが、しゃべろうとすると、嗚咽に飲み込まれそうだった。


勘石は、香苗の涙に心を奪われて、話が出来なかった。

今はもう、勘石の顔の方が、悲しげだ。



勘石は下をむいた。早紀のことを大切に思う気持ちも、香苗を心から愛しているという真心もなにも伝えられないまま終わってしまうのか。


真心はここにあるのに、それをみせる術を勘石は知らなかった。


「香苗さん、泣かせてしまってすまなかった。ただ早紀さまは、あなたを詮索しようとしたんじゃないんだ、試験の成績が良いときは、心から喜んでおられたし、術を覚えるたびに、またひとつ医者に近づいたと心配なさっていた。早紀さまの心をせめないでください」


香苗は悔しさの中に、別の感情があることを感じた。


一番近い感情は嫉妬だろうか?


香苗は、やっと少し落ち着いて、今なら話しができそうだ。


「勘石さん、私よりも、母のことがたいせつなの?」


「香苗さん、そんなこと言わないでください。そんな感情にさせてしまった私が悪い。私にとっては早紀さまは恩人です。世の中のいろいろな厳しさから私を守ってくださった、恩人なんです。だから、早紀さまが思いなやむすがたは見ていられない、それだけなんです」


「あなたと、早紀さまとどちらが大切かなんて私にはこたえられません」


「ただここにある、なたへの真心はほんとうのものです」


勘石はもう隠すところも何もない。香苗の目を見て話すだけだ。


「香苗さん、私は秀仙のように人の心の中に入って行くことが出来ないんです。今だって、わたしの事を、堅物だとか、いくつも違わないくせに、大人ぶったやつだと思っているんでしょう」


「あなたが吉野君を想っているのを知ってから、私は、ずっと嫉妬の火のなかでもがいていた」


勘石はテーブルを挟んで座っていた椅子を香苗の隣りに持っていった。

そして、香苗の手をとって、自分の心臓の鼓動をその手に伝えた。


「あなたは、私に恋をしてはくれなかった。だから、私があなたに上げられるのは、ここにある真心だけです」


香苗は何も言えなかった。大人の男性から受けた、告白は、香苗の心に波紋を投げかけた。


勘石は、そこにいるのも、恥ずかしいほど、顔が紅潮していた。


冷めたお茶も、手のつけられなかったお菓子も、報われない恋の象徴のように寂しげにみえる。


しかし、香苗の心に広がった波紋は、勘石の心に再び返って来た。


「勘石さんは私の婚約者よ、いずれ私はあなたのお嫁さんになるのに、どうしてそんなに苦しそうな顔をするの?」


香苗の言うことは至極もっともなことだ。しかし、勘石にとっては、とても冷酷な言葉に聞こえる。


「婚約者だから、それですんでしまうんですか?私は、ただあなたがすきなんだ。あなたも、吉野君を愛しているんだったらわたしの気持ちがわかるはずだ」


勘石は、心に風穴が開けられたように感じる。香苗によって開けられた穴は、香苗にしか埋めることが出来ない。

自分の心の中の切ない苦しさを、勘石もその胸の中に持っているのだ。

香苗は、勘石に対して、より親しさを感じた。


「勘石さん、あなたもこんなに苦しかったのね?ごめんなさい、あなたと私は違うのだと思っていたの」


互いの理解が深まったと言っても、それは、愛情ではない。

勘石は、それでも、手にしたわずかな希望を握りしめた。


「勘石さん、あなたが欲しかったものって、ひょっとしたら、私の心なのね?」



香苗は、報われない恋の残骸を見つめていた。

勘石にいくら親しみを持ったとしても、吉野君を忘れられるわけではなかった。


「香苗さん、ほんの少しだけれど、分かってもらえて嬉しいです。私は、たとえ、あなたが吉野君を思っていても、あなたを、諦められない。かと言って、無理矢理、我がものにするなんて、嫌なんです。私は、香苗さんに求めてもらいたいんです。そうでなければ、嫌なんですよ」

勘石は、もう一度、香苗の手を握りしめた。そして、昨日よりも、少しだけ熱のこもったキスを香苗にもとめた。

香苗は、こうして勘石に抱きしめられるのが嫌ではない。

そして勘石の体温が伝わると安心出来た。

思う人が他にいるというのに、こうして勘石のうでのなかにいると、香苗は、報われない恋の寂しさを忘れた。そして、熱いキスを受けて、慰められている。


「勘石さん、私このままじゃいけないのね。このままじゃあなたも苦しめることになる。私吉野君に気持ちをつたえるわ」


そうですかとは言えなかった。結局は貧乏くじを引かされる運命なのか。


勘石は、悲しげな眼差しを香苗にむけて、下を向くしかなかった。


香苗にとっては、吉野のことは、夢の中の物語であった。


実際に気持ちを伝えたなら、きっとそれは別れを意味する。

しかし、そう考えている香苗の心は、勘石には理解できるものではなかった。


心を乱した勘石は、香苗の部屋を出て行く時も、いつものように、微笑みを残すことも、声をかける事もままならなかった。


「勘石さん、有難う、あなたの心に答えるために、私医者になるわ、あなたがそばにいてくれるから、私は頑張れる」


香苗は、吉野ことは、はっきりさせてから勘石に告げるつもりだった。


勘石の優しさに甘えようと思ったのだ。


しかし、そんな香苗の心は簡単には、傷ついた勘石の心にとどかない。



そんなことを言うなら、お前なんか嫌いだと言われた方がいい。勘石は、そう思った。


そのまま香苗の部屋を出て行くつもりだったのに、どうしてそう出来なかったのだろう。

勘石の心のなかに、悔しさと、情けなさと、そして、叶わない恋への切なさが激しく渦巻いた。

そして、勘石は抗うことの出来ない愚かな劣情に支配されてしまった。


「香苗さん、なぜそんなことを言う?あなたを愛していると言っている男に。あなたに手術のてほどきをより丁寧にするのも、あなたに振り向いてほしいからだ、私は、本当に、情けない男なんだよ」


勘石が言い放った言葉は、少し悲しみを帯びて、香苗の胸に響いた。


勘石が香苗の心を理解していないことが伝わってくる。


しかし、香苗は恐くはなかったし、勘石の心の暖かさと優しさを信じられた。


そして、もしも、勘石がそうしたいのなら、香苗は、それでいいと思っていた。

彼の顔が、涙を誘う程に、悲しげだったからだ。



勘石は、香苗の体を、長椅子の上に突き飛ばし、その上にのしかかった。


香苗はのしかかられ着物のむねははだけられていた。


しかし香苗は、勘石の、目からこぼれる涙の誠を信じていた。


香苗は、目をとじた。


優しくて、暖かくて、誰よりも頼りになる、そう言う勘石に、こんなことをさせたのは香苗自身だ。

「かなちゃん、なぜ抵抗しない?私なんかどうでもいいって言うことか?」


子供のころの呼び名で勘石は香苗をよんだ。

勘石の声は、いつもの優しさを取り戻しつつある。


しかし、二人の純潔は失われようとしていた。


「勘介ちゃん、私わかっていたの、乗り越えられないこと。吉野君の心が私にはないこと、告白したいと思ったのは、諦めたかったから」


勘石は、驚き、香苗の体の上から飛び退いた。


「かなちゃん、許して。こんなことするつもりじゃなかった。かなちゃんのこと大切に思っているのにどうして……」


うなだれる勘石の背中を、今度は、香苗が温めた。


香苗は傷ついた勘石の心を、慰めたいと思った。今までずっと、傷つけてきたのに、今は、慰めたい。


香苗は、勘石の顔を見たかった。

のぞき込むと、少し情けない男の顔がそこにあった。


すでに、涙の後は、乾いている。香苗は、背伸びをして、勘石の唇にキスをした。


そして、冷たく冷えている勘石の手を自分の頬で温めた。


勘石は今度は少し乱暴なキスを返した。そして香苗を強く抱きしめて言った。


「香苗さん今あなたに捧げられるものは真心しかない、けれど私は、ずっとあなたのそばにいる。だから、どうか受け取って欲しい。そして香苗さん私の妻になってください」


香苗は、顔を紅潮させて頷いた。



「香苗さん、あなたの声が聞きたい、はいと言って下さい」


香苗は勘石の胸に顔をうずめたまま、小さな声で、はいと言った。


「早紀様に話してもいいですか?秀山先生にも、お帰りになられたら報告しなくては」


「ええそうね、でも父に言うのは少し待って、私、医者になりたいの、その夢は叶えたい」


「ええ、その夢は必ず、叶えましょう、叶えさせてみせますよ。

香苗さん、有難う、あなたに思いが届くなんて思っていなかったのに、今私は、幸せです」




花は、早く香苗に会いたかったが、盆が過ぎても、香苗は帰ってこなかった。


香苗は、そろそろ結婚を考える年齢だ、花は、なんとなく、勘石先生の顔を思い浮かべた。


香苗は、吉野君のことを好きだというが、花は勘石先生の方がいいと思っていた。


まだお盆のやすみが四日ほどあるから、学問所の宿舎の中に、学生のすがたは少なかった。


花は、書庫の中で、医学書をペラペラとめくりながら、人の内臓にできる痼りについての記述を探していた。


書庫の中には、他にも、学生が何人かいるらしかった。なかには、同じ組の学生もいて、医学書の情報を交換したりした。


実技の試験を披露してから、級友は、花に一目置いた態度をとるようになった。花は容姿のことで、級友から避けられることはなくなっていた。

けれど、花も恋の切なさを知った一人の女の子だった。医者になるという大きな目標の他に、一つの望みを持った。


花は本当の優しさを持った、思い人に一人の女性として見てもらいたいのだ。そして、自分の中にある、恋心を何とかして、思い人の青山に伝えたい。そう言う望みである。


大きな目標と切ない悩み事を持ちながらも、花は学生として勉強を続けていた。今日は、体内にできる痼りのことを調べようと、この書庫にきたのだった。

さっき話した級友が教えてくれた本がなかなか見つからない。


花は、普段は行かない奥の書棚の方へ行ってみた。


書棚の奥に、しゃがみこんだ人影がある。


書棚を覗いてみると、ここにあるのは難しい手術についての手引きだった。


探している本はここにあるに違いない。

花は端の方からゆっくり探し始めた。


灯りから遠いので、奥にいる人のことははっきり見えなかった。


二つ目の書棚を探している時、奥の学生が立ち上がった。手には本を持っている。

学生は、本を探している花の後ろに来ると、花に話しかけた。


「鈴村さん、お探しの本は、これではありませんか?先程、河野君と話しているのが聞こえたのです。わたくしは以前読んだことがあったので、探しておきました。こんなことで先日のお礼ができるとは思っていませんが、さぁこれをどうぞ」


花は、振り向いたそこに、青山が立っているのが信じられなくて、返事が遅れた。


「あ…有り難うございます、確かにこの本です。前のことはもういいですから、気にしないでください。早くお戻りになられたのですね」


「ええ、母がそろそろ嫁を貰えと、いろいろな知り合いの娘さんを連れて来るので、面倒になったんです」


花は、なぜか、赤い顔をして、下を向いた。


「これは失礼、内はの話しをしてしまうとは、こうして気が利かないので、女の方には、まるでもてなくてね」


そんなわけありませんと言う言葉を飲み込んで、花は、香苗の思い人のことを聞いてみる気になった。


「あの、たいへん不躾なのですが、私の級友の吉野君をご存知でしょうか?」


花がそう聞くと、青山は、少しびくりとした。表情が暗く変わったのだ。花は良くない予感におそわれた。


「鈴村さんは、わたくしを医者と認めて下さいますか?それならばお話しいたしますが…」



青山は明らかに、良くないことを話そうとしていた。


花は決心がつかずに下を向いた。



「鈴村さん、あなたは、篠山先生のお嬢さんと仲良く勉強なさっておられましたね?お嬢さんが、ここに戻るのには少し時間がかかるかもしれません。少し複雑な話しになりますから講師室に行きませんか?あそこなら、人も多いし、変な噂にもならないでしょう、お嬢さんはお元気ですよ、ただちょっと時間が必要だと思います、お話しいたしましょうか?」


花は、良くないことにしても、それが香苗のみに起きたことなら、友人として、知っておきたいと思った。


「岡村先生のお名前は、江戸の者なら知らぬものはいません。あまり良い話しではないのはわかります。もしも可能なら、篠山さんには、私に話したことは、内緒にしてください」




「わかりました。それでは、お茶の用意をして、行きましょう。お嬢さんには、今、勘石先生がついているから、あまり心配なさらないでくださいね」


青山の後について、歩いていると、香苗の秘密にしていることに足を踏み入れるような気がして、花は、少し迷った。


「鈴村さん、患者さんを診るとき、薬も大切だが、言葉もとても大切なのです、あなたに話そうと思ったのは、あなたには、勉強になるし、お嬢さんには助けになると思ったからです」


青山は前を向きながら、花に話しかけた。


花は心を見透かされた気がした。そしてこの青山という人の本当の力が、少し見えた気がした。


講師室には、先生が二人と数人の学生がいた。

いつもなら、十人くらいはいるのだが、皆、まだ帰らないらしい。


青山と花は、講師室の奥の窓際に席をとり、青山が見つけた本をひろげた。


「鈴村さん、さっき吉野君のことを言っておられたが、実は彼が関わっているんです。実は、香苗さんと勘石先生の婚約が整って、めでたしと言うところだったのですが…」


青山は、ひとつ休んで、お茶を飲み、ここへ来る途中でもらった菓子に手をつけた。


「香苗さんは、ずっと吉野君を心に思っておられたそうです、その思いを断ち切ろうと、香苗さんは吉野君に手紙を書いたそうです」


青山は、思い切るように、一度大きく息をして、にこりと笑顔を見せてから話し始めた。


「香苗さんの手紙は心のこもったものでした

「幼い頃、吉野君とは良く遊びましたね、私は大人になって、自分の愛する人を見つけました。学問所の講師である勘石先生です。

婚約を致しました。吉野君、一つ提案があるのです。幼い頃に遊んだ仲間として、吉野家と篠山家の因縁を断ち切る力になってくれませんか?父の年齢では出来なくても、私達のように、若い精神を持っていれば、きっとできるとおもうの、考えてみてください」


「わたくしは実は香苗さんを、診たのです。少しだけ怪我を負ったのでね。勘石先生はさすがに、平静ではなかった。」


花は、恋の駆け引きなんて、想像もできないが、青山が何を言おうとしているのかは、良くわかった。


「あなたは、何か感じたのだろうか?わたくしのように、花街に足を踏み入れて暮らしていると、大門の外ではわからないことを、知ることもあるが、あなたは、彼を良く思っていなかったね」


「いいえ、人がお優しい方か、そうでないかは、皆さん感じられるでしょう」


青山は、花が優れた技術を持つだけでなく、優しい心と、鋭い感覚を持っている娘だと思った。


「香苗さんが出した手紙に、返事が来たのだそうです。

「お祝いを渡したいから、ちょっと家まで来てくれないか」と言うものです。勘石先生は、その手紙が来たとき、そばにはいなかったそうですが。帰宅してからその手紙を見て何かおかしいと感じたそうです。先生は、吉野君の悪い噂を知っていたので、すぐに追いかけたそうです。香苗さんは、すんでのところで、勘石先生に助けられました。香苗さんは、引き倒された時、うでを強くうったので酷い痣が出来たのです。しかし、かえって勘石先生の方が傷も、心の動揺も大きいようでした。吉野家の主人は、帰宅して殴られた息子の顔を見て驚き、篠山家に詫びにきたのです」


青山は、香苗は腕を怪我したたけだし、吉野は、香苗さんが卒業するまで学問所には通わないと言うことになったこともはなしてくれた。


花は、努めて落ち着こうとしたが、涙は、禁じ得なかった。でも、青山が頷きながらほほえむので、動揺は徐々に収まっていった。


「あの…勘石先生の怪我のほうが重いっておっしゃいましたが、どのくらいなんですか?」


「それがね…利き腕の手の甲の骨にひびが入っているんだ。包帯で厚く巻いて、石膏でかためてある。治るとは思う、しかし、痛みや痺れがのこらないともかぎらない。手術が出来るものかどうかは、包帯をとってみないとわからないよ。吉野を殴ろうとして、厚い樫のとびらの木をなぐてしまったのだ。講師としての話しをするにはこまらないが、しばらくは実技はむりだろう」


折角の門出を迎えた二人の不運を思うと、花は、涙が滲み出るのを止めることができなかった。

それは、花が容姿のことで人から敬遠されるのを悔しく思う気持ちと同じだった。


「岡村先生、私に香苗ちゃんのお屋敷の所を教えてもらえませんか?湯島の方だとは聞いていましたが、はっきりとは知らないのです」


青山は、少し迷った。

仮にも他人様の不幸を、他者に話したのだから、その後に起きることにも責任があった。


「岡村先生のことは、親戚とでも言っておきます。先生に御迷惑はかけません」


青山は、花の言うことを、信じてもいいきがした、花は頭がいい。

何かあったとしても、うまく切り抜けるだろう。


「わかりました。鈴村さん、一つだけ守って頂きたいことがあります。彼も医者だから、大方、想像しているだろうが、彼の右手のことについては、知らない振りをしてください、彼も話したくはないだろうし、少し時間が必要です」


青山は、篠山家の所をすぐに教えてくれた。駕篭で行くなら、この橋まで行けばいいといって、その橋の名前も書いてくれた。


花は、次の日の朝、香苗の好きな饅頭を土産に持って、湯島に足を向けた。


香苗の家屋敷は、遠目にも分かるほど、立派で大きいものだ、医者になるという共通の目的がなかったら、知り合うことは、なかった二人だろう。


普段なら、このお屋敷を見ただけで、気後れするところだが、今日の花は、精神が高ぶっていて、お屋敷の大きさに驚く余裕もなかった。


花は、迷うことなく、篠山家のとを叩いた。

するとなかから花の母よりも少し年上の上品な婦人がでてきた。香苗の母君だ。


なんと言おうか?どんな顔をして会えばいいのか?駕篭に揺られながら考えていた。しかし、実際には、考えた通りにはいかないものだ。


花は、母君の顔をみると、涙を止めることができなくなった。


「香苗さんとは仲良くさせてもらっています…」


花は、やっとそう言うことができた。あとは、半泣きの状態であった。そして、なんとか、花は、自分の気持ちを、母君につたえたのである。



「鈴村さんですね。勘石から、仲良くしていただいていると聞いていました、香苗は、元気ですからどうぞお入りくだい」


「こんなことがあるなんて、何があるか分からない世の中になったのね。吉野の次男が、クセの悪い人だなんて、まるで知らなかったのです。勘石も大人しいひとだから、何も言わなくて、香苗が結婚を承諾してくれたと喜んでいたのに。」


母君は、少し涙ぐんだ。それは、勘石先生の怪我が、あまり良くないことを、物語っていた。


話し声を聞きつけて、香苗が奥の戸を開けて入ってきた。


「花さん!青山先生からきいて来てくれたのね、うれしいわ、さぁこちらへわたしの部屋に行きましょう。」


香苗は、元気さを装ってはいるが、いつもの笑顔ではないし少しやつれたかんじがした。


香苗について、彼女の部屋までいくと、中にひとのいる気配がした。


部屋に入ると、右腕を固定した勘石先生が、机に向かい、左手で何か書き物をしているところだった。


「鈴村さん、青山から聞いたのですね、また大げさにはなしたのだろうな。青山も私も、年が近いから、医者のあつまりやなにかで、あったときには、よくはなしたものです。何を聞いて来たか分からないが、鈴村さんが悩むことはないよ。残念たが、私も医者だ、この手がどんな状態か良く分かってしまう。かといって、諦めているわけじゃないんだよ」


花は、平静に見える二人が、かえって、悲しかった。


「花さん!私どうしても、医者にならなくちゃいけなくなったわ。勘石先生が怪我をしたの、私が先生の腕にならなきゃいけなくなった、私を助けてね」


香苗は、もう心を切り替えることができたのだろうか、花に会ったせいなのか、少し元気を取り戻した。


「二人で怪我をしたって聞いたから、心配したのよ、でも元気そうで安心したわ」


花は、勘石先生の怪我のこと、香苗が襲われそうになったこと、考えると涙が湧いてくる。だから、全く違うことが考えたかった。


「香苗ちゃん、これ、三人で食べましょう、急いであるいてきたら、お腹がすいたわ」


花は、薄皮饅頭の菓子折りを香苗に差し出した。


香苗は、嬉しそうに火鉢にかかっている鉄瓶の湯で、お茶を煎れ、菓子皿の懐紙に饅頭をのせた。


とても上等な菓子皿の上に、一箱いくらの饅頭がならべられていて、花は、なんだか、医学を学ぶ自分の姿を見る気がした。


「なんだか私みたい。本当は、安物なのに、医者になれば自分の価値も上がると思っている。なかみは同じなのにね」



花は、自分を卑下する気はない。たとえ人から敬遠されようと、陰口をたたかれようと、そのことが花を貶めることにはならないからだ。


花は、とてもキツい顔立ちをしているが、その顔が醜いと思ったことはない。もっと、優しい顔立ちだったらよかったのに、と思うことはあっても、花は、この顔が好きだった。


「鈴村さん、あなたにとって、お医者になるのは楽なことなんですか?」


「勘石先生、そんなわけはありません。半年たってようやっと、術刀の使い方が分かって来たところなのですから。本当に、まだ先は長いんです。それに、医者になれるのかどうか、それすら分からないんですから」


勘石先生は優しく微笑んだ。御自分の怪我が大変なのに、花に助言をくれようとする。なんと心の強い方だろう。花は、勘石先生の強さを忘れずにおこうと思った。そして、攻めて今は、泣くのは我慢しようと思った。


「鈴村さんも、香苗さんも、簡単な作業を習っているわけじゃありません、そして、学問所で学ぶ学生の全員が医者になれるわけでもありません。あきなめずに努力を続けることができる者、他者を慈しむことができる者、そう言う選ばれた者が医者になることを許されるのです」


「鈴村さん、香苗さん、医者としての免許があなたがたに与えられたとしたら、あなたの人としての価値は、飛躍的にあがるのですよ。医者の免許というのは、他者の尊厳と命を守る力があるという証なのです。技術の厳しい鍛錬と、永劫に続く心の修練に耐えられる者であるという証なのですよ」



勘石は、花と香苗に、勇気を与えもし、これから先の厳しさを示しもした。


「簡単ではないが、とても価値のある、大切な事です。どうか、立派な医者になる努力を続けて下さいね」



二人の学生は、目の前にいる、素晴らしい先生の言葉を聞いて、心が洗われるような気がした。

そして、勘石先生が自分の右手の怪我を、完全には治らないものと思っている心が伝わって来て、熱い涙を禁じ得なかった。


二人の流す涙は同じではない。


花の涙は、先生の強さと気高さに感動して流されたものだ。



しかし、香苗の涙は、もっとずっと複雑で、しかも、先生と二人の時に、流せるたぐいのものではないのだ。



嗚咽とともに涙を流す香苗の顔は、とても一途なものに見えた。

香苗は、精一杯自分をふるいたたせて暮らしてきたのだろう。けれど何事もなかったように過ごせるほど、強くはなさそうだ。


声をあげて泣く香苗を見ていると、花はここに来てよかったと思う。


香苗は、ずっと泣けずにいたのだ。

自分の所為だと思っても、傍らで微笑む勘石先生の顔を見ると、我慢せざるを得ない。香苗を泣かせてあげられて良かった、花は少しだけ安堵した。



香苗はひとしきり泣くと、饅頭にてをだした。花もにこりとして、ほおばった。


傍らで見ていた勘石先生は、ははは と愉しげに笑って、女の人は私にはよくわからないと言った。



「花さん、岡村先生をお優しい方だってずっと言っていたわね、本当にそうだったわ、勘石先生の手も、本当に丁寧に繋いで下さったのよ」


花は、少し照れて下を向いた。

花が照れることはない。そうなんだが、思い人が誉められれば嬉しいし、悪口を聞けば面白くない。それが恋心というものなのだ。

叶うのか、叶わないのかわからないが、恋をする花は、幸せそうに見えた。


勘石も、初めて、香苗に気持ちを受け入れて貰えた時、嬉しくて、舞い上がったのを思い出す。


けれど、今は、幸せではない選択肢も頭の中に存在する。


だから、勘石も、花の訪問を喜んだ。厳しい現実を愛する香苗に告げるための、勇気を貰った気がする。


「あなたに思われている青山は幸せだ、あなたと関わることで、きっと青山は成長するだろうと思うよ」


勘石先生に急にそう言われて花は下を向くしかなかった。


香苗が言ったのかと、香苗の顔をみるが、彼女は首を振って笑っている。


「私は別に、岡村先生は、私になど見向きもしません。香苗ちゃんのことが心配で、聞いたんです。ただそれだけなんですよ」


「あなたは青山を大切に思っているでしょう?あなたの心が伝わったから、口止めしておいたのに、あなたは今ここにいる」


勘石は優しく微笑んで話を続けた。


「気持ちと言うのは、案外通じるものですよ。青山はああいう環境で育ったから、まだ子供のところがある。だからと言って、バカではないよ。大切なのは、鈴村さんが、幸せそうなことです。私は勇気をもらいましたよ」


花は、勘石先生の表情が明るいものでないのが、とても気になった。腕の怪我は重いかもしれないが、何か他に訳がありそうだ。

香苗ちゃんの、可愛らしい表情とは、全く違っている。


「花さんは、もう勉強を初めているのでしょう、わたしも先生と一緒に四、五日で戻るから、待っていてね」


香苗は、明るくそう言うが、花は、少し不安だった。


花が、不安に思っているのを、香苗も感じとったようだ。たった三日のうちに、二人は、少し大人になっていた。


「花さんは、勘介のことが心配なんでしょう?たとえ彼の手が動かなくても、私は彼のもとからはなれないわ。父が反対したって、私はもう父のものじゃないから、だから花さん心配しないでね」


香苗はいたずらっぽく笑って、舌を出した。


「お医者の免許証が貰えるまでは、家を追い出されないように用心するわ」


勘石先生にとっても、香苗の話は驚きだったらしい。先生は、耳を赤くして、窓からはいる風に吹かれている。


「香苗ちゃん、こんなに強い人だったなんて、うふふ別人みたいね」


「花さん、私は別に強くかんかないの、でもね、私には、自分を投げ打って助けてくれようとする人がいた。その人の心を思うと、私何でもできるのよ」


窓の外を眺めていた勘石は、香苗の考えていることが、実際には、現実離れしていて、受け入れられるはずもないと思ったが、香苗の言った言葉で、確かに慰められた。


「勘介さんは、きっと、父の事を気にして、手が動かなかったら、私とは別れるとでも思っているんだわ。でも私は、医者になろうとしているのよ?傷ついでまで、私を助けてくれた人を犠牲にしたら、もう医者として失格じゃないかしら?」


香苗は勘石先生のほうを振り返った。しかし、勘石先生はじっと、窓の外を見ていた。


「それに何より、一緒にいたいのよ」


花は、なんだか仲良く戯れる恋人同士を眺めているような気持ちになっていた。


縁があるというのはこういうことなのか、二人の前にはなんの障害もないように思える。


勘石先生は、照れくさいのか、なにげなく、さっき書き物をしていた机に戻ってなにかしていた。


「香苗ちゃん、それじゃ、学問所で待ってうるから、早く来てね。香苗ちゃんがいないと、寂しいわ」


花は、香苗と勘石先生に別れの挨拶をして、篠山家を出た。


別れ際に、香苗が言ったことが、少し気になったが、花は、悪い想像をする事が、出来なかった。



花が、学問所に帰ると、そろそろ、学生の数も増えていた。ここの空気をかいだ途端に、花の頭の中は、自然に青山のことで一杯になった。


青山は、篠山家のもめ事があったとき、話しをした花のことを考えた。


なんと賢く、勘のいい娘だろうか。しかも、花は、青山に気があるようだ。


青山は、花に、手術の面倒を見てもらえないか。そんなことを考えていた。


岡村の名があれば、患者は向こうからやって来てくれる。今は、手術の必要な患者は断っているが、花が協力してくれれば、そう言う患者も断らすにすむ。


ただ、人の命に関わる事だけに、塾考が必要だ。

本当に信頼出来る、医者であることが、何よりも大切である。


青山は、患者を診ることに関しては自信があった。皮膚からの出血なら、なんとか縫い合わせることが出来た。


しかし、人の腹の中は、どうしても、見ることが出来ないのだ。


見ているうちに、気が遠くなる。父親から手ほどきを受けているうちからずっとそうである。


父親は、お前の優しみが、患者を治すと言ってくれたが、患者は、さっさと切ってくれ、と言うのだった。


岡村家に入ることにも、いろいろ越えなければならない障壁がある。


口うるさい母君が、一番の問題だし、診療所が、屋敷の中ほどに位置していることも、厄介だ。


けれど、青山に手術が無理な以上、信頼出来る医者を雇うのが得策と考えていた。


盆の休みが終わり、学生が皆戻って来ても、香苗も勘石先生も、まだ戻らなかった。


花は、香苗の家を出たとき、学問所には帰れると思うけど、私は、卒業は、別のところになるかもしれない。そう言ったのだ。


花は、なんとなく不安で、授業に身が入らなかった。そして、機会があれば、もう一度、岡村先生に詳しいことを聞いてみたいと思っていた。


花は、書庫にいれば青山が来るような気がした。この前、青山に探してもらった本を返す用もある。当てがはずれても、もともとと思って、書庫の中を、少しうろうろした。


ゆっくりと、本の背を見ながら、歩いていると、書棚の切れ目のところで、人にぶつかりそうになった。


優しい、白檀の香りがした。香をたきしめたというより、その隣の部屋に掛かっていた着物に、ついでに香の香りが移ったような感じだ。

仄かな香りが男子らしくて、好ましいと思った。


会釈をして、通り過ぎようとすると、声をかけられた。


「鈴村さん、ここで良く会いますね、今日は何をお探しです?わたくしはもうながくここにいるから、なんでも聞いてくださいな、一通り、目は通してしまいました」


青山の声だった。彼は背が高いから、上を向かないと、顔が見えないのだ。


本の背を見ながら歩く花には、こういう、淡い色の着物を着た青山は、あまり馴染みがなくて、みはぐってしまった。


本当に青山に会えて、花は、浮き足立ってしまった。聞きたいことがあるのに、まともに話しすら出来ない。


「鈴村さん、今日はずいぶん無口なんですね、この前、篠山先生のところに行くといった時には、あんなに良くしゃべったのに」



「香苗さんは、元気だったでしょう?」


そう聞かれたが、なま返事しか出来なかった。



「先生のことを、とても優しい方だと、誉めていました。とても感謝していましたよ」




「そうですか、わたくしは、出来ることをしただけです。しかも、勘石先生を治して上げられたかどうかもわからないんですよ」


「岡村先生、私とても心配なんです。香苗ちゃんが、卒業は別のところになるって、そんなことをいうものだから、その言葉が気になってしかたないんです」


青山は、いろいろ考えなければならないことがたくさんあった。


その中には、医者仲間の勘石の、今後のことも入っている。


篠山家は、秀山先生が帰宅したことで、事態が動いたと思われた。


手が動かないとしたら、はたして医者としてやっていけるのか?


自分の、身内の娘の問題だとしたら、やはり、非のない男を婿にしたいと思うのだろうな。


青山は、正直にそう思う。勘石は、才能のある医者だ。

手が動かなくとも、必ず、生きる道を見つけるだろう。


しかし、現実は、必ずしも、弱い者に同情的ではない。


篠山家の人々にしてみれば、勘石でなくともいいのだろう。


引き取って、そだててやった恩があるのだから、恨むなよとでも言うのが力のある者の言い訳なのだ。


そう言う事情を、鈴村さんに言ってもいいんだろうか。かえって、心配させるだけだろうし…。


青山は、今はまだ早いとそう思った。

はっきりと話せる時まで待ってもらうほうがいい。一度、篠山家に行く機会を持ってからにしよう。青山はそう決めた。


「鈴村さん、わたくしは今度香苗さんに漢方を届けに行くのです。その時ゆっくりと話して来ましょう。わたくしは、この時間には、書庫におります。三日後のこの時間はどうですか」


「岡村先生、ありがとうございます。それでようございます。先生、どうして、人は困難に会うんでしょう?ただ幸せに暮らすことは出来ないんでしょうか?」


「鈴村さん、あなたの疑問の答えになるか分からない、これはわたくしの考えです。幸せと言う情にはいろいろなかたちがある、二人の若者が二人とも幸せになる、それが一番いいことでしょう?相手の幸せを願う、それを叶えたいと思う、そう言う幸せをわたくしは否定したくないんです」


下を向いてしまった花に、青山はまた言葉をかけた。


「鈴村さん、香苗さんも勘石も、明るくて強い心を持っている、しかも、才能に溢れた若者だ。彼らを信頼して待ちましょう」



勘石は、自分の人生がこんなふうに、動くものとは、思いもよらなかった。


人々が力を貸してくれることも、香苗か今も隣を歩いていることも…


秀山先生が明日にはもどると手紙をよこしたのは、盆が明けて、数日たってからだった。


勘石は、覚悟を決めていたはずなのに、やはり、香苗と別れたくないと思っている自分に驚いた。

秀山先生のいうことは、わかっている。医者を続けられないと言うなら、香苗の婿には出来ないと、そう言う話になるのだろう。


勘石は香苗と心をともにしてから、強くもなり、弱くもなった。


香苗は、簡単に二人は一つだと言うけれど、勘石には、心もとない空気のような絆におもえた。



明日の今頃は、もう、こんな感情を持つこともなくなって、何度もたったことのある絶望の淵で、もがいているのかもしれない。


怪我をした右手の中の骨は、もう痛まなかった。期待は持たないと決めていても、希望を持ってしまう。


希望と絶望が交互に勘石の心を占めて、夜が更けてきても、一向に眠れそうもない、そして、絶望よりも希望が勘石を苦しめた。


篠山家は和洋折衷の造りになっている。部屋の入り口はドアであり、窓がある、しかし、部屋の床は畳であった。

ドアの向こうに、人の気配がして、勘石は、閉じていた目をあけた。秀仙がいないときは、勘石の部屋よりも奥は誰もいないはずだが、今誰かがドアの前に立って、中をうかがっている。


手伝いの人でもなし、まして早紀様であるはずもなかった。

香苗は何を考え、そこにいるのか?

鍵がかかっているから、このまま寝た振りをしていたほうがいい。勘石は固く目を閉じて、ドアに背をむけた。


しかし、香苗の考えは違っていた。どんな事があっても、勘石の気持ちを確かめなくては、眠れない。


明日父親の顔をみてからでは遅いのだ。


香苗は勘石のドアの前にたち、心をもう一度たしかめた。本当に勘石を欲しているのか、彼の為に生きたいと思っているのか?


香苗はドアを叩いた。

中から返事はないがでも、諦めるきはなかった。


助けに来てくれたときの、勘介の顔がすべてだ。あの時の勘介を信じないで、他に何を信じればいいのか。


香苗はドアを叩く。前よりも強く。それでも、返事はない。

勘介は、わざと起きて来ないのだ。きっと、明るくなってきた障子の方に顔を向けて、目を閉じているに違いない。


香苗はドアのノブをカチャカチャと回してみる。そろそろ、母親が気づく頃だ。早く、扉を開けてほしい。


勘石はもう耐えきれそうもなかった。このまま、香苗の気持ちを無視して、彼女が諦めるのを待つことは、卑劣な裏切りだと思えた。

勘石は、布団の上に身を起こして、ただドアの方を見つめていた。

香苗が、諦めて、そこを立ち去ることに、勘石はたえられそうにない。


香苗は、それきり、ドアを叩かなかった。ドアの下に見えていた、人影も消えていた。


早紀さまに気づかれると思ったのだろう。


勘石は、香苗のすべてを失ったような気がして、ドアのそばまで駆け寄った。


いつまでも、なぜ諦めきれないのだろう?

単に、別の人生を歩むと言うだけのこと、この家の家族としての縁は、切れることはない。


夫としてではなく、兄として生きていけばいいというだけのこと。


そうわかっていても、勘石の頭芯のところが、勘石に異議をとなえる。

それで幸せか?

それで香苗は幸せになれると思うのか?


勘石は、後悔を引きずって、ドアの鍵を開けた。そこに、もう香苗がいないことを確かめたかった。

それでいい、少しくらい傷ついたって、香苗はきっと幸せになってくれるさ。


力なく扉をあけた。

勘石の意に反して扉が、勢いよく開かれた。勘石の力ではない、香苗はもう諦めたはずなのに。


薄明るい、部屋のなかに、香苗の姿があった。


「やっと、開けてくれたのね」

香苗は勘石のからだを押しのけ扉を閉めると、勘石の冷えた体を、強く抱きしめた。


「もう諦められないようにしに来たの」


「香苗さん、いけないよ。きっとこの手は動かない。私は、職を失うんだ」


香苗の目は美しく輝いていて、とても抵抗出来そうもない。


「勘介さん、あなたは立派な医者さまよ、その傷を負ったことで無くしたものなど極一部分に過ぎないわ、薬を作ることだって、病気の見立てだって、患者さんを安心させることだって皆、今までどうりにできるはずよ。もしも、怪我が治らなくてその手がうごかないなら、私が手術を出来るようになるわ。あなたが失った所は、私が埋められるように努力するわ」


香苗の目を見ていると、そこに有る物が誠のような気がしてくる。


本当の世間と言うものは、もっと単純な冷たさに満ちているのに。


「あなたが助けにきてくれた時、どれほど怖かったかわかる?勘介さんの顔を見て、どれほど安心したかわかる?あの時のあなたを信じないで、なにを信じろっていうの?」



香苗の目には、涙が溜まっている。とても美しくて、そしてとても甘い涙だ。


香苗に信頼されているのがよくわかった。

勘石が自分を置いて行くなんて、考えもしない顔である。


勘石は、そんな香苗を、ここに置いて、去ることが出来るのだろうかと考える。


何も告げないで去ることは、情のないやり方だ、だから、別れるなら、胸の内を伝えた上で別れたいとも。


勘石は、そんな、どうどう巡りの思考の回廊に、何時しかはまってしまうのだ。



しかし、この宵の刻に、男の部屋の扉を叩いた彼女の勇気を思うと、傷つくことを恐れる自分は、情けないものに思える。


そして、香苗の勇気は、勘石の心にも、勇気を与えた。


「香苗さん、私と契りを交わしてくれるのですか?私は、あなたを選ぶことさえ出来ない情けない男ですよ」


「勘介さん、私は、そうしたいの。私を忘れられないくらい好きになって…」


勘石は、香苗を抱いたまま、ドアに鍵をかけた。

ただ幸せに。そう願う。


勘石は、もしも、今宵一夜の縁となろうと、悔いるまいと、心を決めた。


「香苗さん、ひとつ約束して下さい。もしも、幸せを感じられなくなった時は、別れを惜しまないこと。どうか、忘れないでください。私は、二人で幸せになりたいんです。香苗さんだけでも、私だけでもなく二人で」


香苗は勘石にそう言われ、少しだけ怖くなった。二人で生きるということ、その楽しみの反対側にある、重い責任、香苗は今その事を知ったのだ。

責任は、勘石にだけ有るのではない。香苗も等しく負わなければならない重い荷である。


「わかったわ。勘介さん、私達自分を不幸だと思う日が来るのかしら?」


「香苗さん、誤解しないで下さい。そんな日は来ませんよ。ただ、私は、意気地なしだから、厳しい道を行くのだという戒めがないと、決心がつかないのですよ。でも、これからは、意気地なしでは困る、二人で幸せになるために、私は強くなります」


勘石は、香苗の乾きかけた涙を拭い、若き妻の唇を味わった。

香苗を欲する、激しい感情と、共に歩んでいく伴侶を得た喜びが、勘石の中に渦巻いた。


「香苗さん、私は嬉しいです。あなたが、私を思ってくれたこと」


勘石は、香苗の耳元に囁きながら、さっきまで、闇の淵であった自分の寝床へと導いた。


香苗は、熱くなった自分の心に身を委ねた。勘石の激しい行為も、彼の息づかいを聞いていると、少しも怖くはなかった。


そして、香苗は、幸せだと思った。


勘石の、切なそうな表情をみると、どうしてか、香苗の心も切なさに泣くのだった。


互いに、思い合う仲でも、心を分かち合ったとしても、肌を合わせることは、こんなにも、切ないことなんだ。


香苗は、勘石の戒めと言った、別れの意味が、胸にしみるのを感じていた。


「勘介さん、私を忘れられなくなった?これで、お父さまに負けないでくれるかしら?」


香苗の強気な性格は、父親ゆずりである。勘石は、笑いを禁じ得なかった。


「香苗さんが味方なら、きっと負けませんよ。あなたは本当に、秀山先生にそっくりだ」


二人は笑いあった。そして、互いの目の中を見つめあった。


「秀山先生にどんなことを言われても、誰も悪くはないです。だから、落ち込んだり、誰かを恨んだりするのは止めましょう、道は、あります。身よりを失った私が、この家に拾ってもらったように」


勘石は、香苗の身支度を整えると、二人で、香苗の部屋まで歩いて行った。


早紀さまの部屋のドアの前で、少しだけ立ち止まってしまった。そして、考えてみる、母としての早紀さまは、勘石の選択を、許してくれるだろうか。


どんなに優しい人でも、娘を奪われたら、やはり怒るだろう。


早紀さまが怒る顔を想像すると、勘石は、下を向かざるを得なかった。


香苗の部屋の前で、勘石は、香苗に頼みごとをした。香苗の部屋の鍵を一つ欲しいと言うものだった。


「香苗さん、決して悪用などしませんから、私にあなたの部屋の鍵を分けてください」


もしも、香苗を妻として迎えるとしたら、それなりの策が必要だ。人一人をさらうくらいの、覚悟がなくては、叶う事ではない。


「わかりました。すぐにとってきますから、ちょっと待ってください。合い鍵を作るのが面白くて、作ってもらったのが、机の引き出しに入っているわ」


そうして、香苗と別れてから、半日後、篠山秀山は、二人の弟子と共に、帰宅した。


秀山は、その日自室から出ては来なかった。勘石は、あえて挨拶に行く事もなく、過ごしていた。


しかし、その日のうちに、勘石が腕を固定していることは、秀山の知るところとなった。


勘石が香苗の婿として選ばれたことを面白く思わない高観という兄弟子が、告げたのだ。


秀山は、見舞うつもりで、勘石の部屋のドアを叩いた。まさか、骨が折れていようなどとは、思いもよらない事であった。


当時、手の細い骨が何の不備もなくつなぎ合わされることは、ほとんど不可能な事だった。


「勘石、どうしたというのだ、利き腕をつくとは?お前らしくもないことだ。誰に診せたのだ?」


「はい、学問所の岡村先生にお願いいたしました。見事な腕前でございました」


勘石は、怪我の理由は、出来れば言いたくなかった、しかしながら、骨の折れるような怪我の原因を、とっさに思いつかなかった。


「じつは、香苗さんが、暴漢に襲われそうになったのです、払いのけようとして、ドアをおもいきり叩いてしまいました。お嬢様にお怪我はありません」


「その暴漢というのは、知ったものか?」


「はい、旦那様のお帰りは告げましたので、明日にでも、親御さまが、お詫びにくると言うことでした。旦那様には、早紀さまがおっしゃるものと思っておりました」


「そうか、休んでいるところを悪かったな。傷を早く治せよ、香苗ともそろそろはっきりさせなくてはならないからな。香苗を守ってくれて有り難とう。礼をいう」


怪我が重いことは、いえなかった。

先生は勘石の怪我がそれ程重いとは思っていないらしい。


香苗とのことをはっきり決めろと言ってくれた。師として、医学を教えてくれた、秀山先生に、否定されるのはやはり悲しくて、右手の骨が無事にはつきそうもないことは、先延ばしにしてしまった。


しかし、明日には、勘石を取り巻く環境は、がらりと変わっているのだろう。


勘石は、鼓動が高まるのを抑えられなかったが、香苗を抱きしめたときのぬくもりが、勘石を慰めた。


翌日の昼過ぎに吉野家の当主と内儀が、篠山家を訪れた。


因縁のある同士ながら、関わりなく暮らす月日が長いせいで、話し合いは、静かに済まされた。


吉野家の次男が、今後、香苗に近づかないことをはじめに、見舞金も払われることになった。


しかし、吉野家夫妻が、帰り際に、言った言葉が、秀山の気にかかった。


「この度は、お詫びのしようもありません。香苗さんの婿殿の腕のことは本当に忍びない。婿殿にもお見舞いをお渡し下さい」


その時には、秀山も当惑して、そんなはずはないと、半信半議であった。


だから、吉野家の当主を見送るまで、何のあわてた様子も、怒りを表す事もなかった。


勘石の腕は、無事に繋がるはずではなかったのか。


秀山は、心の中を整理しながら、勘石がその事を言わなかった理由を想像した。


勘石は、娘と添いたいがために、右手の怪我の状態を詳しくは言わなかったのだ。


もしもそうなら、なんと、情けない男だろう。


子供のころから、目をかけてやったのに、それを恩とも思わないのか。


秀山は、ただの父親だった。勘石が、才能ある弟子であることも、右手が治る可能性があることも、考える余地がなかった。


秀山は、怒りの中にあって、自分を鎮める方法を見いだせなかった。


秀山は、まず、妻早紀と話しをしようと思った。


そうすれば、はっきりする。勘石が何を考えているのかも。


「早紀、勘石の怪我は、どうなのだろう?詳しい事を知っているなら、話してくれないか?香苗のこともあるし」


早紀が、勘石を可愛がっているのは知っていた。

本当に優しくて賢い子だから、医術の手ほどきをしてあげて欲しい、そういって勧めたのは、早紀だった。


早紀は、勘石の心も香苗の心も良く知っていた。互いに思い合い、契りを交わしている。


今日の明け方のころ、二人は一緒だった。香苗の部屋まで、二人で歩いていく、密かな足音が、早紀の耳に入っていた。


なんとか二人を守ってやれる方法はないものか、早紀は、懸命に考えた。

そして、青山に意見を求めるのが一番良かろう。と答えることにしたのだった。


青山と勘石は、仲の良い、仕事仲間であり、互いの事情もよくわかっている。


早紀は、かえって自分が見方になるよりも、いいと思ったのだ。


「そうだな、医者同士話したほうが、確かに細かいところまでわかるから、誤解がなくていい、明日でも、明後日でも、岡村君の都合に合わせるから、お前から手紙を出しておいてくれないか?帰るそうそう、これでは、さすがに疲れた」


秀山は、そう言うと、部屋にこもってしまった。


怒りに任せて、周りを見ることが出来なかった秀山も、妻と話すうち、冷静さを取り戻した。

しかしながら、冷静に、考える時間は、秀山を落ち着かせもしたが、勘石に対する、愛情も鎮めてしまった。


怒りは、羨望の裏返しでもあるが、愛の裏返しでもある。


勘石に対する怒りは、秀山の心が勘石に向いていた証拠であったのだ。


しかし、冷静になってみると、勘石が香苗を求めるのは、当然の事であることに気づく。


香苗が、美しく、優しい娘だからだ。


そしてまた、二人の将来を考えれば、一時の感情に流されてはいけないこともはっきりとしてくる。


秀山は、娘の顔を思い浮かべ、ため息をついて、その日の午後を過ごした。


早紀は、夫に頼まれた手紙にかかっていた。


どんなふうに、書いたなら、青山に、早紀の気持ちが通じるだろうか。勘石の負担にならぬように、力を貸してやるには、どうすれば、いいのか…。


青山への手紙は、時候の挨拶を書いたきり、先には進まなかった。そこへ、予定にはない、飛脚が、やってきた。


お城からの知らせでは大変だと思い、早紀は急ぎ、封を開けてみた。


宛名は、篠山早紀様とある、しかし、早紀の見覚えのある筆跡ではない。

裏書きをみると、岡村青山とあった。


急ぎ開いて、目を通してみると、勘石の手の様子が診たいから二、三日うちに、伺いたい、という内容だった。


早紀は、誰かに助けられた気がした。どう説明したらわかってもらえるだろうかと、悩んでいたのだ。


手紙を出すはずの相手から、こんな手紙がくるなんて、天の助けだと思った。


そして、娘や、勘石にも、こんなふうに、助けがあればいいと、早紀はねがった。


青山の手紙の返事に早紀は、是非診てやって欲しい、そして、勘石に合う前に、少し話しをさせてほしいと書いた。

そう書いておけば、青山は、大体どんな話かわかってくれるだろう、早紀はそう考えた。


青山から手紙をもらったお陰で、早紀の用は、そうそうにかたずいた。


早紀は、飛脚を頼みに、家を出た。


ふと空をみあげると、とても気持ちのいい秋晴れだった。


清らかな秋の空は、これから、本当の人生を歩んで行く二人を、見守るように、どこまでも、高かった。


「今日は、いい日だから…」

早紀はひとりごちた。

家に帰ると、いつもの日常が待っていた。


いろいろな問題があるのに、日常は揺るぎなく、すぎていく。

夕餉のおかずを考えたり、竿に干してある洗い物をとりこんだり、そう言うことをしていると、家の中にある問題は、些細なことにおもえてしまう。


そして、二人が明るい未来を迎える日がそこにあるような、気がしてくるのだ。


青山が、早紀からの手紙を読んだのは、その日の夕刻だった。


一読しただけで、秀山先生が、二人の結婚に反対していることがわかった。


篠山家の内儀早紀と言う人は、本当に優しいひとなのだ。


腕を悪くした勘石に対しても、人として、あるかぎりの情を注ごうとする。


青山は、そんな優しさを示す早紀のためにも、なんとか、皆が、幸せになれる策を考えたかった。


明日一日、ゆっくりと考えようと思い、明後日でも伺いますと書いて、待たせていた飛脚にその手紙をたくした。




香苗は、昨日の明け方の事を思いだすと、胸が熱くなった。


香苗が今まで、恋と思っていたのは、独りよがりの夢物語だった。


許されないなら、思い続けるだけでいいなどと思えるのは、そもそも、恋も始まっていなかったのだ。


勘石の熱い胸の中を思い出すと、香苗の胸も、焼けるような思いがした。


忘れられなくなったのは、香苗の方だった。勘石は、今も、以前と変わらずに、静かに、事の行く先を見守っている。


この家の書斎にこもって、学問を続けている。父にも、香苗にも会わないように気を遣っているのだ。


早紀は、香苗が心配だった。娘は、心の中を隠すことが苦手だ。

父親とぶつかるのは、いつもその性格がもとである。


父親としては、せめて、嫁に行くまでは、しとやかで、控えめな女子でいて欲しい。


しかし、香苗は、自分の思うことを、はっきり言うのだった。


同じ答えを、持っていたとしても、二人はいつもぶつかってしまう。


早紀は、香苗の部屋を訪れた。

母親だから、顔をみれば、娘が何を考えているのか良くわかる。


「香苗、あなたはいつも元気にしているけれど、心はわかるつもりです。勘介に会いたいだろうけど、もう少し我慢しなさい。岡村先生に、来て下さるようにお願いしました。母さんも、力を貸すからあなたは、お父様に逆らってはだめ、いい結論が出るまで、表に出てはだめよ」


香苗は、母親のように、悠長に構えることは出来なかった。


「お母様、私だけの事じゃないのよ、勘介はどうなるの、お母様、勘介は私を助け出してくれたのよ、そして怪我をした。私が、愚かだったからよその勘介を放って置けっていうの?」


「香苗、子供の頃から、勘介はずっとあなたの事が好きだったの、あなたが吉野君を好きだって言っても、諦めなかったわ、そして、とうとうあなたの心を勝ちとった。勘介はあなたが思うよりずっと強いのよ、だから、信じて待ちなさい。私も力を貸すから、お父様に逆らってはだめ、あなたは表に出てはだめよ」


香苗の目には、涙があふれた。母は、自分の事も、勘介の事も良くわかってくれている、そして、父の事も。香苗は母を信じて頷いた。


早紀は、手に何か持っていた。


香苗に差し出された物は、美しい錦に包まれた懐剣だった。


「この家にお嫁に来たときに、お母様から頂いたのよ、当主の嫁を守る懐剣、これをあなたに貸します。秀仙が後を継ぐまでの間あなたにね、ただし、決して抜いてはだめよ」


錦を開けてみると、黒い漆に貝殻の模様が浮いた、小振りの品だった。鞘が桐の木なのか、女の手にも軽いものだ。


「香苗、貸すのだから、大切にしまっておいてね」


母の微笑みの意味もわからぬまま、香苗はその美しい懐剣をまた錦につつみ、引き出しの中におさめた。



医者の家を守るために、青山の母は、さっさと、結婚して、子供を作れと言う。


結婚は、母にとっては子供を作ると言うことだ。

母の気に入った女なら、誰でもいい、青山の意向など、入れる気はない。

女親がそうなのだから、篠山家の当主がどう考えるかは、青山には、良くわかる。


秀山先生は、恐らく、勘石を香苗の婿にする気はないだろう。


ならば、自分に出来ることは、秀山先生の心を鎮めて、時間を稼ぐことだとわきまえた。


後は、その家の方々に任せるしかない。


青山が篠山家に着いたのは、昼の少し前だった。考えることがたくさんあり、少し寄り道をした。


久し振りに、松野屋に寄り道をした。紅花は、相変わらずの、色を備えていて、さすがと言うところだ。


無沙汰をなじることもなく、笑顔をみせた。


「青さま、お噂が、さっぱり聞こえてきませんでした、お噂でも、おこうは慰められますのに」


「友人が事故にあってね、私が診たものだから、しばらく調べ物が忙しかったんだ、治してやりたくてね」


青山の話しに嘘がないと分かると、紅花は、太鼓持ちを呼んで、帯をといた。


「青さまだから…」


恋も愛もない、ただ少しだけ、情があるだけの逢瀬であった。


夜が明けて、しばらく立っているせいで、おしろいの香りはもう余り気にならなかった。


「おこうは、故郷に帰りたいと思うことがあるか?私は、どこか、この名を誰も知らぬところに行きたいと思うことがあるよ」


「青さまのお供ならどこにでも、でも、故郷にかえるのはごめんです、どうなさったのでしょう?珍しく元気のないことですね」


青山は、誰もが、自由にならぬ人生を生きていることに、憤りを覚えた。


我が身の事も同じではないか、やがて意にそまぬ女と結婚して、子供を設け、年老いて、しんでいく。それで、私は、満足なのか?


そう思いこそすれ、どうにかなる事ではない。父の名も、この家も、守らなくてはならないのだ。


「おこう、また来るよ、お前は優しい」




篠山家の戸をたたくと、内儀の早紀が出てきた。


「岡村先生、良く来て下さいました。主人は今、患者さんを診ています。どうぞこちらへ、すぐに、勘石をよびます」


それほどの時間は立っていないはずなのに、出てきた勘石は、同じ年とは思えないほど、大人の男の顔になっていた。


「勘石、痛みはどうだ?そろそろ骨も付き終わるころだな、いろいろな書物を調べて、薬の組み合わせも考えてみた。置いていくから試してみてくれ」


「ありがとう、今日は良く来てくれましたね、この手は、なんとかうごきそうです、青山先生のお陰だと思っています。ただ、すぐに怪我が重いことを言わなかったから、旦那さまを怒らせてしまったんです」


勘石は、すっきりとした表情で、淡々と話す。

彼は、こんなに強い男だったろうか?

青山は、初めて、勘石に引っ張られるような気持ちにさせられた。


「勘石、君は人が違ったようだね。恋と言うものは、そんなに力を与えてくれるものか?もしそうなら、私もしてみたい」


「私は、何も変わってなんかいませんよ。青山先生の買いかぶりだ」


勘石は、頬を赤くして、ごまかすように外を見る。


「勘石、それじゃあ怪我の様子を診ようか、まだ完全じゃないから、緊張するな、いろいろ考えたが、私は時間稼ぎしか出来ないよ」


勘石は、頷いて、右手を台の上に置いた。

そして、青山の言うとおりに怪我をしていない指を動かしたり、肩や背中の筋肉を動かしたりした。


「勘石、想像どうりだな、中指以外のところは、治ると思う。しかし、中指のことは、この固定を外してみないとわからない」

勘石も、自分の見立てもそう変わらないことや、秀山先生が、自分を香苗の婿にする気がなくなったことなどを、かいつまんで話した。


「勘石、状況は良くないのに、お前は、なぜそんなに堂々としていられる?私には、不思議だよ」


「青山先生、私は、そんなに大した人間じゃないんです。今はただ、香苗さんを幸せにしたい。そして、私がそばにいることが彼女を幸せにするんだって言うことにきがついたんです、自分は自惚れが強いだけかも知れないが、そう信じられるんですよ」


「そうか、負けたよ、何にか分からないが、お前の勝ちだ、娘をさらって、死罪になったと言う話は聞かないが、充分に気をつけろよ」


勘石は、照れたように笑った。


「私は不器用だから、一生香苗さんを守って行けるのかもわかりませんが、でも今は、一緒にいてやりたいんですよ、彼女が医者になりたいと言う夢だけは、私にも、叶えてやれる気がするんです」


平然としている勘石に比べて、自分のなんと小さいことか、青山は、友人の様子に安心しながらも、嫉妬に似た気持ちを持った。


勘石が、部屋を出て行くのと同時に、今度は早紀が入って来た。


早紀はまず、訪問に対する礼を言い、そして、早紀の、勘石に対する愛情と、香苗が、勘石を慕う気持ちを無にはしたくないと思っていることをはなした。


「岡村先生には、大変失礼なお願いだとわきまえております。しかし、先生は、勘石と親しい間柄です。どうか、ほんの少し、甘えさせて下さい。勘石の右手の事、少し手心を加えてやって下さいませんか?主人にとっても勘石は大切な弟子です。時間をかければ、許すことも出来ると思うのです」


青山は、勘石という男が、どうしてこんなに、人の心を掴んで離さないのか考えてみた。


それは、限りない、努力と献身の賜物なのだろう。


篠山家に対する献身は、同じ家に暮らす家族それぞれの心の中で、いつしか、信頼にかたちを変えていった。


本来は、簡単に失われるような、信頼関係ではないのだ。


家族の信頼をえるために勘石は、何かを犠牲にしてきたのだろうか。


そう考えると、無性に切なくなった。


「早紀さま、わたくしには、時間稼ぎしか出来ぬものと思っています。ただ、掛け値なしに、勘石の手は、普通に動く可能性があります。はじめに診たときよりずいぶん、良くなって来ていますから」


「そうですか、治る可能性があるんですね。それならば、私は、二人の心を信じて見守って行くだけです。有難うございます。岡村先生、香苗の痣も、もうすっかり、良くなりました」


早紀は、話を始めた時よりも幾分、明るい表情をして、お茶と菓子を出してくれた。


篠山先生は、永く診ている患者に、新しい薬の説明をしているとのことだ。


目覚めた時から、青山の心臓は、ずっと、早く打ち続けていて、些か疲れて来た。寄り道をしたのも、緊張をほぐしたかったせいだ。


友人の為とはいえ、お城のお抱えの医者に、手心を加えた見立てを披露するのは、体に悪い。


「相手も医者だからな…」

青山は心の中で、呟いた。けれど、どんな嘘をいったとしても、勘石の固めてしまった包帯を、とるまでは、青山に歩がある。そう思って気を鎮めた。


出されたお茶が冷めたころ、戸を叩く音がした。早紀の、お待たせいたしました。と言う声とともに、秀山先生が、入って来た。


微笑みをたたえてはいるが、渋い表情であることに変わりはない。


「岡村先生、今日は出向いて頂いて申し訳なかったね。父君が亡くなって、もう五年か、早いものだ母君はお元気でいらっしゃるか?」


「はい、元気はいいのですが、早く孫の顔を見せろとうるさくて、帰宅するのが億劫になるほどです」


「君ほどの男が、いまだに一人でいることがおかしいんだ、母君の言うことが正しいよ。君といい、家のものといい、いまの若い者達は世の中を甘くみすぎる」


青山は先手をとられるのは不利だと思い、にこりとしながら、秀山先生が、お茶に手を伸ばしているうちに、話を始めてしまった。


「あの時にはどうなるのかと、わたくしも、勘石に同情したのです。しかし、今日診せて頂いたところ、彼の傷は、大分良い方に、向いて来ました」


そう水を向けてみるが、秀山先生は、表情を緩めるどころか、顔を背けてしまう


「先生、何か勘石に問題でもあるのですか?怪我が重いこといがいに…」


思い切って、聞いてみる。先生は、まだ怒りが収まらぬと言った表情で、しぶしぶ口を開いた。


「あれは、私の弟子の中でも、右に出る者のないほどの優秀な男だ、右手が治るのは良いことだが、ただ、あれは、重大な怪我の事を、内密にしようとしたんだ。私を欺こうとしたんだよ。そんな者に、篠山の名を譲る訳にはいかないな」


青山は、先生の怒りの激しいのが、そのことだけとは思えない。もう少し、質の違うものを感じた。


「お言葉を返す気などありませんが、いつまでも、黙っていようとしたものでもないのではありませんか?

彼も、相当の衝撃を受けたのですから、どうか、少しだけ、容赦して頂けませんか?」


「あれは、怪我をしたら今度は、香苗をものにしようと言うのだよ。情けないやつだ、小さな頃から目をかけてやったのにね。私をなんだと思っているのだ」


先生は、怪我よりも、香苗さんのことよりも、まず、師である先生のことを頼らなかったことに、怒りをかんじているようだ。青山にはそう見えた。


それまでの勘石と先生の仲は、人が羨ましく思うほどのものだった。秀山先生は、本当に、勘石に目をかけて育ててきたのだ。


先生にしてみれば、寂しさを禁じ得ないのかも知れない。


青山の託されたのは、どうやら、狂ってしまった歯車を元に戻すことらしい。


青山は、香苗のことは、ふれずに済まそと思っていた。しかし、それは無理そうだ。


「先生、勘石は、恩を分からぬ者でしょうか。香苗さんの身に起きたことを、自分の罪と思えばこそ、すぐには言う事が出来なかったのではありませんか?」


秀山は父として、娘を幸せにしてやりたい。

そして、師として可愛い弟子の身の立つように、技術を継がせてやりたい。

秀山先生の思いは、きっと、とても単純だ。


しかし、一度歯車が狂ってしまうと、それをもとにもどすのは、簡単なことではない。


「兎に角、勘石には、篠山の名も、香苗も渡さないよ、岡村君は、勘石と親しいから、いろいろ、頼み事をされたのかもしれないが、そういう姑息なところがいやなんだ」


秀山先生は、とても優しい方だし、感情に流されるほど弱い人でもないが、今は、普段の優しい先生ではないようだ。


けれど青山は、秀山先生が、心の中の、暖かい感情によって、動いていることに、わずかだが、安心した。


「わかりました。先生のお怒りの意味が、私には、何か、少しだけ、羨ましく思われます。わたくしは、小さい頃から、父以外の師を持ちませんでした。わたくしも先生のような師を持ちたかった。勘石が、落ち着き払っているわけがわかったようなきがします」


「君は、父君の様に、豪気な男ではないようだね。勘石のことは、もう、決めたことだ。病気とおなじだ。早い内なら、痛みも少ない…」


先生は、自分でそう言って、咳払いをした。


「香苗は、もう学問所には戻さない。高山先生の御長男のところへやろうと思う」


篠山家ほどの大きな家の体面を守ることは、確かに、楽ではない。


しかし、初めから、何もさせてもらえないのは、勘石にとっては、大きな屈辱だろう。


「先生は、勘石の本質をどのように思っておられるのです?彼は、ちゃんと、世間を見る目を持っていますよ。先生に、香苗さんのことを、許す気がなくなったことも、別に当然だと言っています。しかし、なんの努力もせずに諦めることは彼には、出来ないはずだ。そこを、わかって欲しい」


青山は、懸命に訴えたが、秀山は、耳を貸さなかった。


「我が家の家系には、沢山の医者がいる、皆を束ねるのは、口で言うほど楽ではないんだ。岡村君、わかって欲しい。私は、それが、勘石の為でもあると思う。勘石は、ここを出て行っても、困りはしない。君の言うとおりそんなに柔な男ではないからね」


青山は、諦めきれない表情を表していたが、それ以上何も言えなかった。先生の中には、やはり暖かい感情があり、勘石に対する、処遇も、彼の事を思う気持ちからだったからだ。


青山は、苦い表情のまま話を終えて部屋を出た。


果たして、勘石にどう報告すればいいのだろう。なんの役にもたたなかったと、正直に言うのも、辛かった。


この問題に解決策があるとすれば、一度は秀山先生を裏切らなくてはならない、勘石に出来るのだろうか。


青山が考えあぐねていると、向こうの書庫のドアがゆっくり開いた。

このごろの昼間は、勘石はそこにこもっている。特別、古いものや、特殊な書物の置いてある書庫である。


先生も、香苗もよほどの事がない限り、この奥の書庫にはあらわれない。


そこに身を置いて、静かに何かを考えている。


「勘石、何を考えているんだ?どうしてそんなに落ち着いていられる?」


勘石は、まず、青山に礼を言って、にこりとした。


「青山先生、一つだけ、教えて下さい。香苗さんの婚約の事です。秀山先生はもう決めておられましたか?」



「ああ、もう心積もりはあるようだ。学問所にはもう帰さないと言っておられたよ」


「ありがとう、青山先生、私は、きっとここを去る事になるでしょう。またいつお会い出来るかもわかりません。けれど、あなたには、とても親しみを感じるのです。どうか、元気で暮らして下さい。私は、必ず、幸せになると約束します」


青山は、彼が何を考えているのか、察する事ができた。

懐にあった財布をそのまま、握らせた。寄り道をしなければもう少しまとまった金を渡すことが出来たのにと、松野屋によって来たことを少し後悔した。


その後に起きたことは、青山には当然想像がついた。


しかし、実際に勘石と香苗が手をとって駆け落ちしたのを、聞いたとき、青山は二人の幸せを想像する事が出来なかった。


香苗の章二に続く

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