プロローグ
……ん?
なんだここは?
夢?
やけに身体が冷たい。いや、身体というよりも周りが冷たい。
俺はゆっくり目を開いていく。
周囲は暗く、そして視界は何故かゆらゆらと揺れている。
どこだろうか。
そして息を吸い込むと……ごぼっとむせた。
「ぶはっ!?」
水!? おぼれる!!
慌てて水面に移動しようと思い……手が土に振れている事に気がつく。
なんだよ、浅いじゃん。
むくりと起き上がると、予想通り浅かった。三十センチもないだろう。焦って損した。
周りを確認すると暗かった。月明かりで多少視界はあるけど、夜だな。
そして、俺がいる場所はどうやらちょっとした池……泉のようだ。周囲は林のような木々に囲まれているけど、先には明かりが見えるし、多分村か町のすぐ近くだろう。
しかし何故こんなところにいるんだ?
空を見上げると、満月が見える。黄金色に輝いていてものすごく大きく見えるけど、スーパームーンって奴かな?
「ははっ」
乾いた笑いが自然と漏れた。
いやいや、いくらスーパームーンとはいえあれだけ大きくは見えないだろ? いくらなんでも夜空の五分の一くらいを占めているほどに。
それに、ウサギがない。
月は地球の自転に合わせて回転するので、地球からだと絶対ウサギは見えるはずなのだ。
……一体どこだよ。夢か? それともまさか異世界なのか?
不意に風が吹いて、身震いした。さむっ。
まぁその前に何時までも水の中に入ってちゃ風邪引いてしまう。とにかくここから出て、明かりが見える方角へ歩こう。
そして立ち上がり、ふと自分の格好を見て……俺は絶句した。
「な、な、なななななな……」
俺が着ていた服は真っ白な薄いワンピースで、下着は着けてなかった。当然水に濡れているので透けて見えるのだが、見慣れぬ慎ましい膨らみが胸部に二つあったのだ。
そしてなぜ今まで気がつかなかった、と思うほど髪が長く、腰の近くまで濡れた髪が張り付いている。
しかも髪の色は黒ではなく薄いクリーム色、アイボリーのような色だ。記憶している限り、俺は髪を染めた事はないし、そもそもここまで長く伸ばしたことすらない。
まて、落ち着け俺。まずは状況確認だ。
落ち着いて手を股間へと持って行った。
ぺたぺた。
「落ち着けるかっ!!」
付いてないのがこんなにも心細いとは思わなかった。
眠っている間に去勢手術とシリコンでも注入されたのか? いやまてそれより声だっておかしいじゃないか。ほらほら、のど仏が殆どない。自称ダンディーな渋い声だったのに、子供のような声じゃないか。
手だって小さい、腰回りだってちゃんと食ってるのかと思うほど細い。
ああもうどうすりゃいいんだよ!
だから落ち着け俺、焦っても事態は好転しない。深呼吸だ。
「すぅぅぅぅぅ……………………はぁぁぁぁぁぁぁ」
よし、落ち着いたな? では頭を整理しよう。
俺の名は美羅橋恵介、年は二十五歳。地方出身で都会の大学に入り、そのまま社会人となった男だ。最近プロジェクトのスケジュールから遅れが出始めてきており、帰宅時間もそれに引き摺られ遅くなってるのが悩みだった、どこにでもありふれた存在のリーマンである。
そういえば今年帰省してないな。そろそろ母ちゃんから帰って姪っ子たちに小遣いやれという催促のメールが来るかもしれない。こちとら薄給リーマンなのにこれ以上家計簿を圧迫させる訳にはいかないんだけど、どうするのさ。
ってそんなことは今は関係ない。ここに来る前に俺は何をしていたっけ?
確か仕事も終わり夕飯に中華屋へ寄ってビールを飲みつつ餃子を食っていた。その後帰宅してシャワー浴びて……気がついたら女になってて水の中に沈んでいた。
うん、さっぱり分からん。
とにかくまずは人里目指して歩こう。
いやまて。こんな濡れてすけすけ状態のまま人里行けば襲われてしまう可能性があるよな。女性経験だってないのに男に襲われるなんて絶対お断りだ。更に異世界って事は、人間じゃないものが住んでいる可能性もあるのだ。もしかすると別の意味で襲われて頭からぱくりと食われてしまう事だってあり得る。
ならばどうするべきか?
明るくなるまで木の上にでも登って隠れていよう。
幸い夜なのに気温はそこまで低くない。昼間になればそれなりに暖かくなるだろうし、そうすりゃ服だって自然と乾くだろう。
食い物はないけど、幸い水はここにたくさんある。生水を飲んで腹を壊さないかは心配だけど、この透明度なら多分大丈夫だろ。
思い立ったが吉日だ。軽く手を濡らして舐めてみるがミネラルウォーターみたいだった。これなら問題ないと思い、数口水分を補給した。
さて、朝が来るまで木の上で待機するか。
♪ ♪ ♪
「いないぞ!?」
「ばかな、どこへ行ったのだ!?」
「さがせ!!!」
男たちの声に俺は眠りから覚めた。
……いつの間にか寝てたようだ。
大きくあくびをして声の聞こえた方向へと視線をやると、白い神官っぽい服を着た二十人くらいの集団が右往左往していた。
幸い、俺が寝ていた木は周りに木の葉がたくさん茂っており、外からだとそうそう見える事はない。ま、そういうところを探して登ったんだけどさ。
しかし寝相が良くて助かったよ。少しでも寝返りしたら地面へ真っ逆さまだったな。
さて、服は乾いているかな。
すぐ側に干してあった服を手に取ると、まだ湿気はあるものの十分な範囲まで乾いていた。水場の近くだから湿度も高いはずなので、一晩で乾くかどうかは分からなかったけど、透けてなければ十分だ。
服を上から羽織って、再び集団の方へと視線をやった。
何人かに分かれて行動し始めている。
あいつら何か探しているようだけど、きっと俺なんだろうなぁ。
それにしても、日本語じゃないのに言葉が理解できている。不思議だけど、良いことなので気にしない。
さて、一晩寝て頭も落ち着いたことだし、今後の事を考えよう。
まず夢オチというセンはなくなったと思う。俺は全く知らない世界に来て、更に性別も代わったのだ。現実を受け入れよう。
じゃあ次にこの身体は一体何なのだろうか?
少なくとも俺の身体ではない事は確かだ。となれば別人の身体という事になる。
可能性としては、俺は元の身体のまま何らかの方法でこの世界へとやってきて、その後脳移植なんていうものすごい技術で、この身体へと移された。ならば俺の身体は、火葬されてなきゃまだどこかにあるはずである。
あとはありきたりだけど、この身体へと生まれ変わって、その後生前の記憶が蘇った。ならば俺は一度死んだということになるが、最後の記憶はシャワー浴びてただけだし、トラックにひかれたなんていう出来事は無い。
この身体の持ち主がどうなったのかは気になるところだが、現状打つ手はないように思えるので、まずはともあれ今後だ。
俺はおそらくあの集団に追われている存在だ。何かしらの犯罪者なのか、それとも逆にあいつらの秘密を俺が握っているのか、あとは有り得ないけど俺が偉いさんで突然行方不明になったから捜索されているとか。
ではここで選択だ。
一つは、このままあいつらの前に出て捕まる。もう一つは、あいつらから逃げる。
感情的には逃げる一択。
あの集団のトップは一人だけ高そうな服を着ている禿げたおっさんだろう。でもさ、あの顔は脂ぎっていかにも悪役っぽいんだよ。あんなのに捕まりたくない。
この世界の事を俺は分かっていない。一人で生きていけるか不明だ。最悪のたれ死ぬことだってあり得る。理性はそう訴えているのだけど、感情はどうしてもあんなのに捕まりたくないと言っている。
ではどちらを選択するか?
うん、逃げよう。
嫌よ嫌よも好きのうち、なんて言葉もあるけど嫌なものは嫌なのだ。ゴーイングマイウェイである。
方針は決まった。では行動をどうするか?
逃げるなら夜を待って移動したほうが良いに決まっている。水や食い物をどうするのか、という問題はあるものの、取りあえずは待ちだ。
体力温存のため、ここで待機していよう。
そして俺は夜が来るのを待った。