WE DO LOVE
本来投稿する予定はありませんでしたが、私の拙作に対するイメージの刷新も兼ねて。
どうぞ、お手柔らかに。
愛とは美しいものだ。
世界を温かく彩り、素晴らしいものへと変えてくれる。
死とは哀しいものだ。
世界を冷たく苛み、もの寂しいものへと変えてしまう。
私とは半端なものだ。
世界に小さく在り、二極の狭間において変わっていく。
世界とは、なんなのだろう。
『――つまり、愛を説くことが、あまねく人々の救済へと繋がるのです。思い出してください、隣人の温情を、家族の団欒を。私達は、愛を受け取り、愛を譲り渡す、それこそが生きとし生ける全ての者の宿命なのです――』
そう熱弁する宗教家を、テレビの画面越しにぼんやりと見つめる。四月一日ならもうとっくに過ぎた、そう思いながらチューハイの缶を新しく開ける。これで二本目になる。安っぽいアタリメと、安っぽい演説を肴に、かれこれ数十分は酒をちびちびと口に含んでいた。以前にも似たような奴の話を拝聴したことがあったが、愛だのなんだの、よくもまぁそんな綺麗事が恥ずかしげもなく吐けるものだと感心すら覚えた。ちなみに、そういう類の講義などは割と能動的に参加するのだが、その所以は、大して事を知らずに否定する馬鹿になりたくなく、話を吟味し、その上で批判したいからだ。崇高な理念など所詮夢物語に過ぎず、冷酷な現実に屈する他ないのだ。つまらない世迷言は耳にたこができるほど聞いたし、多少興をそそるような話でも、過分な期待によって後々落胆することなど珍しくはなかった。自分は何を求めているのだろう。様々な思想家の妄言を耳にし、それにつれて冷めた何かが心を浸食していった。
実家を飛び出してから、どれくらいが経っただろう。連絡は既に絶たれ、せいぜい、盆や正月に帰省する程度となっている。無愛想な自分を温かく迎え入れて見守ってくれている父母には、感謝の言葉だけでは足りない。いつか親孝行してやらねば、となんとなく考えていた。それがいつ実行に移されるのかは、(いるのかどうかはともかく)神ですらも与り知ることはない。
特に生きがいもなく、荏苒と日々を過ごしていて、生への執着などあるわけもなかった。ちょっとしたきっかけさえあれば、すぐに自ら骸となるだろう、と冷静に自己分析をする。幸い、酒や賭けに溺れるような事態にはまだ至っていない。果たして、それが幸いであるのかどうかは、当の本人にのみ知りえることだろう。
缶が空になったので立ち上がり、ジャージを羽織ってサンダルを引っかける。部屋の鍵を閉めると、他人の干渉を拒絶するかのようにポケットに手を突っ込み、気だるげに最寄りのコンビニへと向かおうとした。
「あ、こんにちは」
背後からの声に振り向くと、柔和な笑みを浮かべた女性が立っていた。歳の頃は二十半ばといったところで、背丈は自分の肩ほど、セミロングの髪は暗い茶色に染まっていた。色こそ違うものの、自分と同じようなデザインのジャージに身を包んでいる。目が合ったその一瞬、彼女の瞳が憂愁に染められたようになり、そしてすぐさま、純粋な明朗を帯びて戻る。
「……どうも」
隣人に軽く挨拶を返すと、そのまま踵を返し立ち去ろうとする。しかし彼女は人懐っこく自分の隣をついてきた。
「どうしたんですか」
他人との会話が煩わしい気分だったので、さっさと離れてもらう為に彼女の話を聞くことにした。なんとも皮肉な矛盾だ。
「今から出かけるんですよね? ご一緒してもいいですか?」
「わざわざ付いてくる価値があるような場所には行きませんよ。ちょっと野暮用で隣町に行くだけです」
何を言っているんだこの女は。今まで目が合えば会釈する程度の仲でしかなかったのに、今日に限って何を考えているのか、皆目見当がつかなかった。僅かな狼狽を面に出さぬよう努めて淡々と歩き続ける。
「いや、そんな格好で隣町にまでは行きませんよね。どこかこの近くなんでしょう? 少しお話するだけで構いませんから」
しかも自分の嘘を見抜いた上に食い下がってきた。ますます何を考えているのか分からなくなる。どうすればこの女が諦めてくれるかしばし思案して……面倒臭くなってこっちが諦めた。
「……構いませんけど、ほんとに大したとこ行きませんよ」
「わぁ、ありがとうございます」
その時、彼女はにこっと微笑んだのであろうが、半歩先を行く自分からは見えることはなかった。それは失敗ではなかっただろうし、今後も、そのように思うことはないだろう。
道中、といっても数分間のものだが、コンビニに着くまでの間、一度も会話は起こらなかった。向こうから話したがっていたくせに、一体どういうことだろうか。どうにも彼女の思考には筋道がないような気がして、読めない。そうしてこちらを混乱させるのが目的なのか、それとも、素でこういう行動に至っているのか、訊くに訊けない数分間だった。何しろ、向こうから話を切り出すはずだったのだから、それをこちらから踏み込むというのは、どうにも無粋な感を覚えたからだ。
コンビニの自動ドアが開き、店内のBGMが漏れ出してくる。さて、酒とついでにつまみも、と酒が置いてある所に行こうとすると、彼女の引き止める声が聞こえた。
「どうしたんですか」
邪魔するな、という僅かな怒気を平淡な声に乗せる。
「ほら、このBGM、ビートルズの『LOVE ME DO』ですよね。片思いする男性が、僕を愛してくれ、って気持ちを伝えようとする曲ですよ。英語は苦手なので、歌詞はサビくらいしか分かりませんけどね」
それだけ言って満足したのか、彼女は鼻歌を奏でながら先に行ってしまう。ぴーぷー、と下手糞な口笛を試み、失敗してもいる。いい加減、苛立ちも抑えが利かなくなるかもしれない。突然付きまとわれた事に対する、瞋怒が内側を炎のように舐め、炙っていく。そんな事とは露知らず、彼女はこちらに振り向く。
「そういえば、ビートルズって、カブトムシって意味のbeetleと、響きって意味のbeatを組み合わせた造語なんですよね。Beatles、ちょっと面白いですね」
彼女はこんなくだらない話をするためについてきたのか? 時節を計って、今回の意図を訊きだしてやろう。しかしそれよりも少し気になるのは――、
「よく知ってますね。というか、この程度なら一般常識ですよ。他にも色々興味深い話があって、例えば『HELP!』って曲は……」
そこまで喋って、彼女が今日一番の笑顔を見せていることに気付いた。いや、そもそも顔をあまり見ていないから、それも不確かだが、間違いなく、そういった笑みを浮かべていた。
「あ、えーっと……」
今の発言をなかったことにしたかった。彼女の話に食いついてしまったことが、とてつもない失態を犯してしまったように感じられる。まさか、自分が洋楽好きであることを知っていたわけではあるまい。この失言が、彼女に取り付く島を与えてしまったのは言うまでもない。
「なんですかなんですか? 聞かせてください」
大した効果は見込めないだろうが、無視を敢行する。何せ、自分から言葉が引き出せるという、事実が露見してしまったのだから。何を言っても相槌程度しか返答しないのであれば、いずれ諦めもつくだろうが、このように手応えを感じさせると、もうこちらの負けだろう。こちらが勝手に意地を張っているだけだが。
「あなたは、愛ってなんだと思いますか? あ、そんな目で見ないでくださいよ。今、頭がお花畑だとか思ったでしょう。そんなことはありませんよ。むしろ、今ある現実をシビアに受け止める性格だと自負しています。それで、愛なんですが、私は、死だと思うんです。DEATHです。ですです」
「死?」
ここぞとばかりに調子に乗る女だ、と思いながらも、観念して続きを促す。愛がすなわち死だとは、どの思想家や宗教家も口にしてはいなかった。むしろ、愛とは生きることだ、生だ、とのたまうのが普通だろう。他人の考えを聞くにしても、このような珍しい意見はそうそう聞けるものではないだろう。
「最大の愛っていうのは、きっと、一つ所に留まるようなものなんかじゃないと思うんです。過去、未来とか、天国、地獄とか、もしくは、私達の想像を絶するような領域にまで、その恩恵は届くと思うんです。だから、正と死を超越することなんて、造作もないはずです。生きとし生けるものに愛することができるんじゃなくて、死んでもなお、愛し続けることこそが愛だと思うんです。限定されたものを愛するのって、なんだか窮屈じゃないですか。もっと愛を広義に捉えて、愛してないものなんてないほど愛してやりましょうよ! たとえそれが報われなくても!」
「最後の一言は余計じゃないですか」
「あ、いや、さっきのビートルズの会話を伏線に使おうと思いまして」
「……」
さすが、普段聞かないだけあって、新鮮な気分だった。だがやはり、夢見がちな印象は受ける。それにしても、愛はあらゆる障壁をものともしない、というその信条は、ありふれているが故に、かえって新しい息吹を吹き込まれたような気がする。何事にもマイナスの観点からものを論じる自分としては、ここまで悪くない評価をするのもなかなか珍しいものだ、と少し驚きもする。いつもなら「だが」「しかし」などと逆接の接続詞から始まるのだが、
「……つまり、愛する者も愛され、愛さない者も愛され、ものならざるものも愛される資格がある、とかそういうことですかね。かなりの広域に拡散される愛は、今現在この世界という垣根を越え、私達の思いもつかない未明にまでその影響を及ぼす、と。それなら、その愛は今のこの世界に充溢し、別の次元をも満たしうる、という解釈もできるんですかね」
よもや、相手の意見を要約、補填することになろうとは、予想だにしていなかった事態である。それは彼女も同じだったらしく、しばし自分の返答に呆気に取られ、それから興奮したように一気にまくし立てた。
「そうですそうです! そういうことなんです! いやぁ、さすがいつもそういうことを聞いてる人は違いますねぇ。友人達に同じ事を言っても、曖昧に頷かれたり、渋い顔されたり、どうにも納得いった様子なんてなかったんですよ! まさか私の考えをそんな分かりやすくまとめてくれるとは! いやはや、感涙の極みでございますぞ!」
語尾がおかしくなりながらも、それほどに彼女は喜んでいるようだった。その言葉通り、今にも涙が溢れ出しそうなその瞳からも、いかに嬉々としているかが窺える。
「でもその理論なら、まずこの世界が愛で満たされる必要があるんですが、果たして今の荒んで腐ったこの世の中で、煩雑としたこの社会で、そのようなことが可能だと思いますか?」
「うっ、うーん……」
だが、あくまで否定から入らなかったというだけで、言いたいことは言わなければ気の済まない性分なのであった。そのせいで、彼女の意気消沈ぶりが甚だしい。少しの罪悪感も覚えなかったと言ったら嘘になる。
彼女は、少しの間悩む仕草を見せ、やがて合点がいったように幾度か頷いた。
「それでも私は、何一つ残らず、全てのものを愛したい」
その意思の強靭さに、惹かれ、魅せられ、打たれた。
そしてそれを悟られまいと、先程の会話の伏線を回収することにした。
「たとえそれが報われなくても、ですか」
一本取られたかのように微笑む彼女を見て、こちらも口元が自然と綻ぶ。
というか、自分達はコンビニの一角で何をしているのだろう。他の客の視線が痛い。その恥ずかしさを誤魔化すため、財布の中身を確認しようとポケットに手を入れる。だが、そこに財布は無かった。逆のポケットも同じだった。厳然と事実を呑み込むのに数秒がかかる。
部屋に財布を忘れてきたのだ。
これでは、ただこの女性と話をするためにコンビニに来た、というような結果になってしまう。このまま満足のいくまで意見を交換して帰るのも吝かではないが、なんとなく、それが彼女の思惑通りであるような邪推が頭をよぎって自らを躊躇わせる。どうすればよいのかとひっそり途方に暮れていると、彼女がその様子に気付いたようだった。
「あれあれ、もしかして、お財布忘れちゃいました?」
にやにやと、悪戯っぽく訊いてくる。認めるのは癪だったが、事実なのでしぶしぶ頷く。
「それなら、私が代金持ちましょうか?」
思いの外好意的な言葉が返って来て焦るが、それを甘んじて受けるなど男が廃るので、即座に断る。彼女に悪い、という気持ちもあったのだが、それでも、会った時と比べれば随分と柔和な断り方だった。嘘をついての婉曲表現など、相手に伝わることを慮らない自己満足であり、ひいては自分のことしか念頭にないのだから。
しばしの譲り合いの応酬の末、結局、
「それなら、折衷案ということで、私がお金をお貸ししましょう。もちろん、利子は付きますよ? 明け一です」
ということになった。つまり、今日中に返せ、という意味だろう。それでも、あまりお金を財布から出させるのは気が引けるので、安いカップ酒を二杯、ついでにアタリメ一袋をレジに持ち込んだ。アタリメならまだ残っていた気がするのだが、帰りに近くの公園で呑みましょう、という彼女の誘いを受けることにしたのだ。
コンビニから児童公園まではそう遠くなかった。平日の昼前ということもあり、公園には人っ子一人として姿がなかった。二人でブランコに腰かけ、乾杯する。
「――かんぱーい今、きーみーのーじーんせーいのー、おおーきなー、おおーきなー、ぶーたーいーに、立ーち――」
急に長渕剛の『乾杯』を口ずさむので、開けたばかりの酒に口をつけず、しばらく一緒に静かに歌った。どうせ誰も通らないので恥ずかしくはない。ところどころ、隣から違った歌詞が聞こえたり、鼻歌だけが聞こえたりした時があったが、あまり気にならなかった。
歌っている途中、何気無く見上げると、そこには空があった。当たり前だが、かなり久しぶりに空を見た気がする。いつも、堂々と胸を張れるような生き方をしていないため、地面ばかり見て過ごしていたように思えるのだ。そして空を懐かしく思った。少し曇っているが、雲の切れ間からは清々しい蒼がこちらを見下ろしている。この世界全てを包む空を見ると、自分が矮小であることを再認識させられる。だが、不思議と悪い気はしなかった。たまには、こうして空を眺めるのもいいかもしれない、という感慨の方が大きかったからだ。
『乾杯』を歌い終えると、もう一度乾杯して酒を口に含んだ。安物だが、旨かった。一口ごとに上を向いていると、ふと、今度は坂本九の『上を向いて歩こう』が脳裏を掠めた。どこか吹っ切れたような気分で、少しずつ蟠っていたどうしようもない感情を漏らすように、心中を吐露するように、呟くように、独りで歌い始める。
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
思い出す 春の日 一人ぽっちの夜
上を向いて歩こう にじんだ星を数えて
思い出す 夏の日 一人ぽっちの夜
幸せは 雲の上に 幸せは 空の上に
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
泣きながら 歩く 一人ぽっちの夜
思い出す 秋の日 一人ぽっちの夜
悲しみは星のかげに 悲しみは月のかげに
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
泣きながら 歩く 一人ぽっちの夜
一人ぽっちの夜
彼女が小さく拍手をした。いつの間にか、一人でアタリメを平らげている。
渇きを満たすために一口。だが、もう既に潤っていた。
「……なんか、今日はありがとうございます」
「?」
突然礼を言われ、彼女が小首を傾げる。照れ臭かったが、酔いに任せてそのまま続けた。
「今まで、大した生き方なんてしてなかったんです。他人ばかり見て、その評価をするだけ。自分自身はただ卑下して、諦めることで苦痛から逃れようとしてた。前を向いてる人を否定することで、立ち止まってる自分を慰めようと、少しでも優越感に浸ろうとしてた。それで正しいなんて思ったこともなかったけど、改めようとも思わなかった。ただ漫然と日々を過ごし、流されるがまま生きるだけの人生だった。一時は、死ぬことすらも厭わなかった。それが、今日あなたと接して、なんとなく、いい方向に変われる気がするんです。なんか、こう、上手く言葉では言い表せられないけど、心が、少し落ち着いたかもしれません。私の中に、何か温かいものが流れ込んできた、そんな感じなんです。これからは、もっと、まだ何かは分かりませんが、何かに向かって、上を向いて、生きていけたらいいな、って思いました」
ちゃんとした文章になっていない言葉を、彼女はただ聴き、笑みと共に頷いた。
「そうですか。それはとてもよかったです。頑張ってくださいね。応援してます」
まだ言いたいことは残っている。だが、なかなか言い出せそうにない。儘よと、一気に残りの酒を後押しを得るように呷り、勢いよくブランコから立ち上がって彼女と向き合った。急な挙動に驚いたのか、彼女が目を瞠っている。当たって砕けろとばかりに口を開いた
「もしよければ、その、僕と――」
「あ、あの、ちょっと待ってください」
堰を切ったように流れ出した思いが、唐突な言葉によって遮られる。今度はこちらが驚いて目を見開く番だった。
「えと、お気持ちは嬉しいんですけど、その……あなたにはもう、私より素敵な人がいますよ」
言おうとしたことを見透かされ、更に断られ、空気を抜かれた風船のように情けなくその場にへたり込んだ。焦ったように彼女が色々言葉をかけるが、聞こえなかった。
数分後、酔いが覚めて猛烈な羞恥心に苛まれた。そして、振られてから今までの記憶が丸々飛んでいることに気付いた。彼女が言うには、どうやら、魂が抜けたようになった自分を慰めていると、急に男泣きに泣いたらしく、その間ずっと背中をさすり続けていてくれたらしい。恥ずかしさと申し訳なさで胸がいっぱいになった。
気分が落ち着くと、彼女は、
「私も、今日はありがとうございます。あなたと話ができて、とても嬉しかったです。もしまたお目にかかることがあれば、その時も、今日みたいにお話しましょうね」
と言った。こちらは、作り笑いを返すのがやっとだった。
彼女はゴミをまとめてビニール袋に放り込んでブランコから立ち上がった。
「それじゃ、さよなら――元生さん」
随分と長い間耳にしていなかった自分の名前、正しく生きろ、という意味の名前を口にする。名の如くあれ、と叱咤されたような気がした。
こちらが言葉を返すのも待たず、彼女は行ってしまった。ブランコから姿が見えなくなるまで、自分はただその後姿を見送ることしかできなかった。だが、それだけでも充分だった。
それからまたしばらくして、自分も帰途につくことにした。その足取りは今までよりも少し軽く、少し堂々としたものだった。今の晴れ晴れとした気持ちと呼応したかのように、空にも晴れ間が広がりつつあった。
明日からはもっと、愛に満ちた日々を過ごそう。
そういえば、どうして彼女は、名乗った憶えのない自分の名前や、自分が思想家や宗教家の話を頻繁に聞いていることを知っていたのだろう。名字なら表札を見れば分かるだろうが、名前となると目にする機会はなかなかない。しかも、話を聞きに行って偶然見かけるにしても、そう何度も見かけられるものではないだろう。友人にも話したことはないし、父母も知らないはずだ。となると名前と行動を知っている人は、父母以上に近しい人に絞られるわけだが、父母以上に近しい人など、今現在では思いつかなかった。だがそれも、もし今度会えば訊いてみればいいのだ。
一人の女性が、舗装された歩道を歩いていた。その足取りは軽く、堂々としたものだった。
彼女は、限りなく近しい人のことを思いつつ、元来た居場所への帰路を行く。生きる世界こそ違えど、愛はきちんと届くのだ。如何なるものでも愛を阻むことはできず、相手を温かくしてくれるのだ。もう会うことはないが、いずれ会える。
愛しい人を思い、そっと呟く。
「元気でね、お父さん」
嗚呼お恥ずかしい。
「おうおうケツの青いガキんちょが愛なんて語ってくれちゃって大層なもんじゃあねぇか!」だなんて仰らないでください。これでも忸怩たる思いは尽きず渦巻いておるのですから、それでご容赦くださいな。
さて此度の拙作、如何でしたでしょうか。
あまり私が手を出さないジャンルと申しましょうか、食指が動かないと申しましょうか、過去の他作品とはまた違った雰囲気を感じ取って頂ければ幸いにございます。
ふむ、感じ方が千差万別である以上、私のイメージを語り押し付けるのも野暮に思えますので、今回はこの辺りで擱筆と致しましょうかね。
ご読了頂き、恐悦至極に存じます。