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「くっそ……」
五月の頭、桜ももう散りかけて、ピンクの斑点がぽつぽつ地面を彩っている。そんな学校からの帰り道を、僕は悪態をつきながら歩を進める。
手には赤で丸付けがされている紙ーーー今回の中間テストの僕の解答用紙を握りしずんずん不機嫌そうに歩を進める。右上には99と丸と同じく赤で大きめに書かれている。
くだらない凡ミスのせいで、マイナスを付け忘れたかどうかで、完璧を崩してしまった。何度見ても気に食わない。納得いかない。ギリ、と奥歯がなる。
と、突風が解答用紙をさらっていった。風に乗って紙はひらひら飛んでいく。まずい、あんなもの他人に見られるなんて僕にとって最大の恥だ。思うが早いか、足は勢いよく地面を蹴った。
紙は紙らしく風にのってひらひらと飛び、風がやむとゆっくり落ちていく。運悪く民家の敷地に入ってしまった。くそ、最悪だ。
表札には『烏丸』とある民家は、どうやら屋敷と呼べる広さを有しているようだ。門はでかくて重そうだし、木造の垣根はずいぶん先まで、細いが堀もある。
キンコーン
門の外につけられているチャイムを押すと、なかなかレトロなベルがなった。しかし間をおいてもだれも出てくる気配はない。もう一度押す。
キンコーン
……出てこない。おかしい、これだけ広ければだれか、家主はいなくとも家政婦ぐらいいてもいいだろうに。 門を叩く。ごんごん、と鈍く低い音がする。ずいぶん重そうだ。
「すみません、だれかいらっしゃいませんかー!」
返事はない。もちろん人の気配もない。弱ったな。もしかして廃屋なのか? 門を押してもちっとも動かない。
仕方なく、垣根を乗り越えることにした。不法侵入だけど、誰もいないみたいだし、ちょっと失礼することにした。
「よっ…と」
垣根はなかなか高かったが、登れないこともなく、腕の力でなんとか体全体を引き上げる。さて、目的物はどこだ。目を垣根の内側にやると、そこには人がいた。
まずい。最悪だ。今日は厄日か。
もちろん人がいたところに不法侵入紛いのことをしてしまったことを嫌な出来事だが、それ以上に今日を厄日と言わせしめる風景が僕の眼球に光の反射として飛び込んできた。
そこにいるその人が、紙をーーー僕の中間考査の数学の解答用紙をもって眺めていたのだ。最悪だ。最悪だ。今日は厄日だ。
99点ならなにも恥じることはないだろうと誰もが言うかもしれない。僕の友人たちは、同級生も、親までもそう言う。しかし、僕には恥でしかない。僕にとっては最高で完璧であること以外なんの意味もない。別に70点や60点や10点を取った学友たちを罵るつもりはない。僕が、自分自身が完璧であることが僕にとっての絶対条件だ。符号のつけ忘れなどと下らない理由で完璧を逃してしまった答案など、本当に墓穴に入って埋まってしまいたいくらいの恥なのだ。
それを、その恥を、見られた。僕以外誰にも見せないでおくべきそれを名前も顔も知らない赤の他人に見られたのだ。最悪だ。最悪だ。最悪だ。
顔面を蒼白にして垣根の上で固まっている僕を見つけて、男性は柔らかく微笑んだ。
「井下、藍くんですか?」
はいそうですと声帯は震えず、なんとか肯定の意として首を縦に振る。すると男性はにっこり笑って、手招きした。
「そこは危ないですから、降りてらっしゃい」
どうやら不法侵入に対してなんの興味もないようだ。少し血の気を戻したが、僕の顔はまだ白い。 とりあえず地に足をつける。若干フラフラしながら、男性に近づく。
「素晴らしいですね」
男性は笑みを深いものにして、もちろん賛辞として僕にそう言葉をかけたのだろう、しかし僕にとっては最大の屈辱であった。白かった顔がさっと赤くなる。失礼と分かりつつも、差し出された目的物を奪い取るように受け取る。男性は唖然としている。
「すみません、気に障るようなことをしてしまいましたか」
先の僕の行動に怒ってもいいようなものを、男性は眉をハの字にして謝罪してきた。もちろん僕がそんな行動に出た理由は分からないようだけれど。
「いえ、その、こちらこそ失礼しました」
大分気が落ち着いたようだ。冷静になって頭を下げる。男性は僕の行動こ困ったように頭をあげてくれと言った。
「よかったらお詫びにお茶でもどうですか。美味しいお茶菓子もありますし」
僕の方が詫びるべきだろうに、ちょっとどうするか困ったが、ここで断るのもまた申し訳ないと思い今度こそははいと声を震わせた。