お願い名前を呼ばないで
すみません。なんか中途半端かもしれません。
そして、甘い。
時々、視線を感じていた。目が合うと、すぐに視線は逸らされた。そんなやり取りを今までに数回繰り返していた。
振り向いた先にはいつも同じ人がいる。武井直樹。休み時間の間だけこのクラスに来る3つ隣のクラスの人。
そして私、秋元麻衣が1年のときから好きな人。
初めて会ったのは、1年と少し前。この高校の合格発表の日だった。
私は、友だちと一緒に学校の正門に立っていた。必死であるかわからない自分の番号を探して。
番号が近くなかったので、私たちは少し離れて自分の番号を探していた。
「あった」
叫ぶ声。友人のもの。嬉しさと同時に焦りを感じた。
ゆっくりと番号を追っていく。
「134」その文字を確認した。手に持っていた番号も確認する。
「…あった」
叫び声ではなかった。
小さな呟き。それが2つ。
隣を見た。目があった。自分より少しだけ背の高い、優しそうな男の人。
「君も?」
彼が聞いた。おそらく自分の呟きが彼に届いていたのだろう。
「え、はい」
「俺も」
嬉しそうに笑った。はじけるような笑顔。一瞬息をするのを忘れた。
手を差し伸べてくる。
私は躊躇い、彼の顔を見た。少しだけ照れたような表情を浮かべながら彼は言った。
「これからよろしく。同じクラスになれたらいいね」
「うん」
頷き、私は彼の手をとった。
暖かく、大きい手。
「じゃあ、バイバイ」
彼はすぐに手を放し、多数いる受験生の中を抜けて行った。
私は、友だちが迎えに来てくれるまで、ずっと自分の手を見つめていた。
正直、彼の顔を覚えていたわけではない。一瞬の出来事であったし、合格発表の時ということで、気持ちも高ぶっていた。そう言う時の記憶は時に現実と違うことがある。
そして、彼も私のことなど、覚えていなかった。廊下ですれ違った時も、声をかけられることなどなく、覚えているようでもなかった。
それでも私は思い出した。彼の笑顔を見たからだ。
はじけるような笑顔。それを見たのは、1年の秋に行われた球技大会の時だった。
彼は、サッカーを選択していた。うちの学校では、部活で選択しているもの以外の競技を選択しなければならない。彼は普段はバスケ部のエースであり、運動神経は良かった。
「頑張って!」
歓声が響いていた。そして時々、個人名を叫ぶ黄色い声が混ざる。
「直樹―!」
その声も時々聞こえた。
一回戦は、私のクラスと彼のクラスだった。私は友だちと自分のクラスを応援していた。
試合の終盤。彼がボールをキープした。ドリブルで交わし、そしてボールを放つ。
軌道が僅かに曲がり、キーパーの身体を避けるようにしてボールが吸い込まれていった。
歓声が上がる。
中心で彼が笑っていた。あのはじけるような笑顔で。
その瞬間、すべての音が遠く聞こえた気がした。彼だけが視界が映る。彼の笑顔だけが。
そして思い出した。彼の手のぬくもりとその時抱いた気持ちを。
それからずっと、気が付くと彼を探している。
「また、直樹くん来てるね。ま、バスケ部のほとんどがこのクラスだからね」
「絵梨」
「もしかして、また目が合った?」
絵梨が軽く首を傾げる。彼女は私が彼を好きな事を知っている唯一の友だちだった。中学から一緒の彼女とはなんでも話せる友だちになっている。
「…うん。私が見過ぎてるのかな?」
「そんなことないんじゃない?だって、言われるまで麻衣が武井くんのこと好きなんて気付かなかったもん。むしろ、武井くんが麻衣に気があるんじゃないの?」
「…それはないよ」
そう言いながらもどこか期待していた。彼が好きなのは、私なのでないかと。
そんな話をして数日後、私は彼に告白された。
「好きです。付き合って下さい」
右手で首を触りながら、真剣な表情でそう告げられた。
「はい」
「え…?」
「えっと…私も好きです」
「本当に」
「うん」
「やった!」
そう言って笑った彼は、少しだけ顔を赤く染めた。小さくガッツポーズをする。
「あ、あのさ…今日から、麻衣って呼んでもいい?」
「え?」
「あ、やっぱり急過ぎ?」
「そんなことないよ。そう呼んで」
「ありがとう。…麻衣」
直樹くんは愛おしそうに私の名前を呼んだ。一文字一文字を噛みしめるように。けれど、彼に呼ばれる私の名前にどこか違和を感じた。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
「そう言えば今日は部活はいいの?」
「うん、休み。コーチに急用が入ったんだって。麻衣は吹奏楽部だったよね」
「うん。うちも今日は休みだよ。もうすぐテストが近いから」
「テストか…」
あからさまに落ち込んだ声に私は笑った。
「…麻衣も嫌だろう?」
少しだけ拗ねた声。付き合うことがなかったらきっと知らなかった。
「そうだね」
「…もう、笑うなって」
そう言いながらも直樹くんは笑う。
彼は、私にとって、初めての彼氏だった。今日は、初めての一緒に帰る帰り道だった。
それが幸せで、違和感のことなどすっかり忘れていた。
ただ、彼の口から初めて出会った時の話が出なかったのを少しだけ寂しいと思っただけだった。
次の日から、お昼は一緒に過ごし、帰りは手を繋いで帰るようになった。
ゴシップ好きの同級生に話しを大きくされ、2カ月経った今では、同じ学年の人には付き合っているということがほとんど知られている。
絵梨には一番に知らせてあった。付き合うことになったと言ったら、自分のことのように喜んでくれた。
これからは直樹くんと一緒に帰ろうと思うと告げると笑って「当たり前じゃない」と言ってくれた。
「何かあったらすぐに言ってよね!」
そう笑う絵梨は本当に優しくて可愛かった。
「麻衣」
部活のため、教室を出ようとすると呼びとめられた。
「どうしたの?」
2人でいることが当たり前になりすぎて、初めはあったからかいの声も今はなくなっている。
「ごめん」
直樹くんは顔の前で両手を合わせた。
「…何が?」
「今日、帰りに優一のところ行く約束しちゃって」
優一くんは直樹くんと一番仲のいい友だちだ。中学の時から同じバスケ部で活躍しているらしい。友だちでいいライバルだと思っていると直樹くんは少し恥ずかしそうに教えてくれた。
「そっか。じゃあ、今日は先に帰るね」
「本当にごめんな」
「そんなに謝んなくていいって。私も今日は久しぶりに絵梨と一緒に帰るから」
「そっか。でも、今日のお詫びに今週の土曜日は一緒にどこか行こう?」
「そこまですることかな?」
「することなの!」
そこまでしなくてもいいと思いながら必死の直樹くんが可愛かったので、私は頷いた。
今日は水曜日なので、土曜日はあと2日後だ。そう言えば久しぶりのデートになる。
そう思うと少し恥ずかしくなった。
「…でも、土曜日部活は?うちは休みだからいいけど」
「午前中だけなんだ。だから午後に行こう」
「大丈夫?」
「何が?」
「だって、部活の後じゃ大変じゃない?」
「いいんだって。麻衣に会いたいし」
「…」
「あれ?赤くなってる?」
そう言って顔を覗き込んでくる直樹くんは笑みを浮かべていた。
「べ、別に赤くなってないよ」
「ふ~ん。そっか」
そう言いながらも笑顔を崩さない。
「ほ、ほら。早くいかないと部活遅れるよ。私はもう行くからね」
「はいはい。まったく、麻衣はなかなか慣れないね。そう言う所が可愛いからいいけど」
からかう口調に反応するのは止めておいた。手を振り、彼を見送る。自分も音楽室へ急いだ。
どうせ、口では勝てないのだ。だってやっぱり、慣れていない。
付き合って2カ月も経つのに、一つ一つの言葉に反応し赤くなってしまう。まだ手を繋ぐ以上のことはできていない。直樹くんがペースを緩め、自分に合わせてくれていることがよく分かる。
ふと言葉を交わした瞬間。一緒に帰る帰り道で。些細なことで見えてくる経験値の差。
どうしようもないことなのに、時々無性に泣きたくなった。
走る気力はなくなり、ゆっくり歩いて音楽室に向かった。
「…あれ?」
ふと気が付いて鞄を開けた。
「あ~あ」
思わずため息が出る。机の中に明日の課題ノートを置いてきてしまった。
面倒くさいと思いながらも、来た道を戻る。
「ってかさ、直樹もまたかよって感じだよな」
教室のドアを開ける前に、中から声が聞こえた。「直樹」その名前に反応する。思わず手を離した。
「またって?」
「え?お前知らないの?」
「何の話だよ」
「まあ、そっか。あれ中学の時の話だからな」
「お前、もったいぶるなよ」
中にいたのは2人の男子だった。今日、英語の小テストがあり、点が低かった人には課題が出されたことを思い出す。
「俺、直樹と中学が同じだから知ってるんだけどさ、あいつの元カノの名前も『麻衣』だったんだよ」
「え?今カノと元カノの名前が同じってことかよ。…それ、秋元が聞いたら結構複雑だよな」
「ま、たまたまだろうけどな、複雑だって。…しかも、直樹、元カノが初めての彼女でさ、結構マジだったんだよ。別れたのも、お互い目指す高校が違うからっていう理由だったみたいでさ」
「嫌いになって別れたんじゃないってことかよ」
「そういうこと」
「余計複雑じゃん」
「しかも、元カノすげぇ美人」
「うわぁ~。秋元、可哀想」
「実は、直樹、秋元と元カノ被せてたりして?」
「お前、冗談でも可哀想だろう。ま、確かに秋元は可愛いって言えば可愛いけど、すげぇ美人ではないしな」
「いや、お前も十分可哀想な事言ってるから」
クラスにいる2人は笑い、そして話題は変わった。
けれど私の頭の中には先ほどの会話が再生される。
頭の中が真っ白になった。足が勝手に動く。
息が切れていた。
気が付くと、公園にいた。よく2人で来る公園だ。ここまでどうやって来たのか覚えていない。
空を見上げた。
星が見え始めている。携帯を開いた。19時を少し回っていた。
ディスプレイを見ると不在着信があることがわかった。絵梨からである。
メールが3通届いていた。
「どうしたの?」そんな内容のメールが2つ。
そして、もう1つのメールには、「先に帰るから、直樹くんに送ってもらいなよ」と書かれてある。
携帯を閉じ、空を見上げた。
自然と涙は出てこなかった。
直樹くんを信じているから、ではない。自分は知っていた気がした。
「麻衣」そう名前を呼ぶ彼は、自分を見ていないのではないか。それをずっと思っていた。
だから彼はキスさえしてくれないのだ。
「麻衣」
呼ばれ、振り向けば、笑顔の直樹くんがいた。
いつだって私の名前を愛おしそうに呼んでくれる。でも、視線の先にいるのは、本当に私なのだろうか。
ずっと、思っていた。名前を呼ばれるたび、どこか違和感を抱いた。
けれど、気付かない振りをしていた。
「…こんなに好きなんだ」
思わず声が漏れる。
こんなに好きだったのだ。抱いた違和感を無意識でなかったことにするくらい。
離したくないと思うくらい。
「代わりでもいい」そう思った。けれどその想いはすぐに消えた。
代わりなんかじゃ嫌だった。私を、「秋元麻衣」を見てほしかった。
彼の口から出る「可愛い」も「好き」も「会いたい」も、全部私に言ってほしかった。
私を通して見る「麻衣」にではだめなんだ。
代わりになれないくらい好きなんだ。きっと、初めてあの笑顔を見た瞬間から。
不意に手に持っていた携帯が震えた。
「直樹くん…」
ディスプレイに「武井直樹」の文字。一瞬ためらい、そして出た。
「もしもし」
「麻衣?」
名前が呼ばれた。私の名前であって、私の名前ではない。
「…」
言葉に詰まった。声が出ない。
「…麻衣?」
いつもと違うことに気付いたのか、こちらを伺うような声。
「どうしたの?」
涙をこらえて言った。
「今まで優一の家にいたんだけど、なんか優一のやつ彼女に呼び出されて出てっちゃって追い出されたんだよ。…それで、なんか麻衣の声聞きたくなったんだけど…麻衣。どうかした?」
「…」
なんでもない、その一言が出てこなかった。「声が聞きたい」その言葉すら、きっと私ではない「麻衣」に向けている。
「…なんか今、車の音がしたけど、もしかして外?」
「…」
「どこにいる?」
「…」
「麻衣」
声が心配していた。
「…公園」
思わず声に出していた。
「わかった。すぐ行くから、そこ動くなよ」
どこの公園かは言わなかった。それでも、わかることが嬉しかった。声を聞いて気が付いてくれるのが嬉しかった。来てくれることが嬉しかった。
どうすればいいんだろう。
どうすれば好きじゃなくなれるんだろう。
「…麻衣!」
呼ばれた。
声をした方を見ると、自転車に乗った直樹くんがいる。
公園の前で、自転車を捨てるように置き、こちらに走ってきた。
「もう、暗いよ」
見ると額には汗が滲んでいた。息も切れている。
「帰ろう、麻衣」
「…呼ばないで」
声がかすれる。
「え?」
「名前を呼ばないで」
言った途端、涙があふれてきた。どうして、同じ名前なんだろう。どうして、彼の初めては私じゃないんだろう。
「麻衣?」
「呼ばないでってば!」
彼が伸ばしてきた手を思いっきり振り払った。
「私は、『麻衣』さんじゃない!」
言った瞬間、彼は目を大きくした。
「どういうこと?」
「わかってるのに聞かないで」
「…元カノ?」
「…」
「過去の話だよ」
彼の言葉に首を振る。
「…いつも違和感持ってたの。直樹くんに名前を呼ばれるたびに、私の名前じゃない気がしてた。目が合ってたのだって、私が直樹くんを見てたんだよね。…だって、私、こんなに好きだもん」
「麻衣」
「呼ばないで」
「ねぇ、聞いて。確かに俺の元カノの名前は『麻衣』だよ。…でも、そんなの関係ないだろう?」
「関係なくないよ。だって…名前を呼ぶたびに、元カノのこと思い出してる。…直樹くんの視線の先に私はいないでしょう?……代わりなんて、無理だよ」
「代わりなんかじゃない!」
「でも!…でも、嫌いになって別れたんじゃないんでしょ?」
「確かにそうだよ。お互い目指してる高校があって、どちらも折れなかった。…離れたら終わりだと思った。だから、別れたんだ」
「…今でも好きなんでしょ?」
私の言葉に、直樹くんは少し笑った。それから首を振る。
「なんでそんな発想が出てくるのかわからないけど、もう好きじゃないよ。離れたら終わり。その程度だったんだよ。…俺が好きなのは、秋元麻衣」
「でも、すごく美人だったって」
「麻衣の方が綺麗だよ」
「そんなことない!そんなことないよ」
「…どうしたら、信じてもらえる?元カノのことなんてもうなんとも思ってない。俺が好きなのは秋元麻衣だけ」
「…なんで?」
「え?」
「なんで、私なの?だって、クラスも同じになったことないし、委員会だって違う」
「……麻衣は覚えてないかもしれないけど、合格発表の日、俺たち会ってるんだ」
「え?」
「合格発表の日、俺、合格したのがわかって嬉しくなって、近くにいた人に話しかけたんだ。それが麻衣だった。…手を出して、『これから、よろしく』って言ったら、手を握って笑ってくれた。その笑顔が可愛くて、好きになった」
「…」
「その時持っていた紙に『秋元麻衣』って書いてあって、ずっと覚えてたんだ。入学してからすぐにその名前を探した。クラスは違ったけど、『秋元麻衣』がいた。廊下ですれ違っても反応がなくて、一瞬だったし覚えてないんだって思った」
「…」
「それでも俺は、『秋元麻衣』に惹かれた。委員会のとき、体育祭、成績順位者の紙…いつも麻衣の名前を探してた。その名前のところにいつも麻衣がいた。当たり前だけど、本当にそれが嬉しかったんだ」
忘れていると思っていた。初めて出会った時の一瞬の出来事なんて。でも、直樹くんは覚えていた。自分より鮮明に。
「…確かに『麻衣』の名前に惚れたのは本当。でも、それは『秋元麻衣』の名前だから。あの時微笑んでくれた、好きになった人を探す手掛かりだったから」
彼はずっと、私を見てくれていた。他の誰でもない、麻衣を。
「麻衣」
直樹くんが名前を呼ぶ。愛おしそうに。視線は私を見ていた。
微笑む。大好きな笑顔だった。
「…ごめんなさい」
謝ると直樹くんは首を振った。
「俺の方こそ、不安にさせてごめん」
「……もう一つ、教えてほしい」
「何?」
「どうして、キスもしてくれないの?」
その質問に直樹くんは僅かに動揺した。じっと顔を見つめる。
耐えきれなくなったように、少し視線を逸らした。
「…意地かな?」
僅かに首を傾げて答える。
「意地?」
「…麻衣から好きって言ってもらうまでは手を出さないようにしようって」
「え?」
「さっきのが初めてだよ。麻衣の口から、俺のこと好きだって言ったの」
「…」
「麻衣の好きが俺の好きと同じくらいになるまで待とうって思って」
「…」
「もしかして、不安だった」
「うん」
「麻衣」
呼ばれ視線を合わせた。
耐えきれなくなって、目を閉じる。
唇に柔らかいものが触れた。
初めてのキス。
「好きだよ。麻衣」
「…私も、私も好きだよ。…直樹」
「ありがとう」
微笑みながら彼はもう一度私にキスをした。
呼んでいただきありがとうございます。感想、評価等いただけたら、幸いです。
よろしくお願いいたします。