第三章 異形 (4)
北西の空が燃えていた。空を焦がす炎に、馬はいななき、異変を察知して天幕から飛び出して来た人々で、集落は昼のごとき喧噪に包まれていた。
「あれは、神山の方角じゃないのか」
「集落の外にいる家畜は大丈夫なのか」
「そんなっ、神山が」
「族長様は、どこだ!?」
立ち尽くし、あるいは右往左往するばかりの彼等の視線は、頼るべき人間の姿を探して、人波の間を縫って急ぎ足に向かってくる族長の一人娘の元に集まった。
彼女もまた、変事に寝床を飛び出して来た所と見えて、急いで着替えたに違いない襟元は乱れ、いつもは一括りにしてある髪も、下ろされたままだ。足を止めずに、顔にかかる鬢髪を振り払い、手にもったままだった山月刀を腰帯の間に差し込んで、自分に集まる視線に顔を上げた。
「落ち着け。族長は直にお見えになる。それよりも、誰か、手の開いている者を集めて、十人編成で、外にいる家畜の回収に当たってくれ。残りの者も臨戦態勢で集落で待機、追って族長の指示を仰げ」
ざわざわと喧噪が波のように伝わっていった。
「なぜ、十人編成なんだ?これは、戦なのか?」
「それは、族長様の命令なのか?」
「誰かが神山に火をつけたとでもいうのか?」
「族長様は、どうしたんだ?刹羅様は!?」
矢継ぎ早に繰り出される質問の嵐に、日夏は内心の舌打ちを、深呼吸に代えた。息を深く吸い込み、そして吐く。
「落ち着けと言っている!」
相手を落ち着かせようというよりも、黙らせて発言の主導権を握ろうとする類の一喝だった。
「いいか、家畜を連れ戻すのは、あくまで、この火災に脅えた家畜がどこに逃げるとも分からないため。これが他部族の襲撃の可能性は極めて低いが、もし万が一、これが襲撃であった場合、敵が真っ先に狙うのも、やはり家畜。だから、戦時の十人編成だ」
敵に遭遇しても応じる事の出来る必要最低限の数、また今の人員から割けるぎりぎりの数でもある。
「さっきも言ったように、残りは族長が参られるまで、武装して集落で待機。以上、これは族長命令だ。なぜなら、今からここにやってこられる族長様は、全く同じ事を命ぜられるに違いないからだ」
理解と動揺の狭間で揺れている彼等の葛藤に、日夏は最後の一押しをくれる。
「分かったら、早く動け!敵も家畜も待ってはくれない」
それがまるで号令であったかのように、趨勢は定まり、人々は動き出した。それを横目に確認しつつ、日夏は自分の馬に飛び乗った。後の指示は、程なく駆けつけてくるはずの父親の領分である。
「待てよ!」だが、馬腹を蹴るよりも、薙が馬の手綱を取ってその行く手を塞ぐ方が速かった。「日夏は、どこに行くんだよ」
「神山へ」
短く言い放つ日夏に、薙の顔色が変わった。
「なんでだよ!?」
「発火元と、衍葵の安否を確かめるためだ」
「だからって、一人では危険だ。族長様の決断を待ってからでもいいじゃないか。これが、他部族の奴等の仕業だというのなら、尚更そうだ。それに――――」
「どけ。一刻を争う」
薙の言葉の方が正しいと分かっていた。族長は直にやって来て、遅かれ早かれ火元の究明にも、人員を割くだろう。それまで待って、その部隊と共に行動するのが、正しいやりようだと頭では理解している。これが人災である可能性を考慮する限り、自儘な単独行動は避けるべきだ。 だが―――――――
(そんな悠長な事をしていたら、助かるものも助からなくなる)
この場のほとんどの者は神山の火の方にばかり注意を向けて、家畜の安否を気遣っても、今現在、火元である神山のただ中にいる筈の少年を、心配する余裕はないように見えた。
「手綱を放せ!」
日夏は重ねた。
「放さない!」と薙が応じる。「感情的になって間違った判断を下そうとしている人間に命令される筋合いはない。今の日夏は、全然、日夏らしくない。大体、なんで、いつも衍葵なんだ!?」
「時間が惜しい、馬鹿なことを言っていないで、どけ」
「そもそもっ、あんな奴が入ったから、神山が怒ったんじゃないのか!?あんな腰抜けが戦士の承認を受ける事を神山は許さないって、これはそういう事なんじゃないのかよ」
「それが、こんな状況で言う事か。時と場合をわきまえろ」
薙の顔が屈辱に赤らむも、道を開けようとする気配はなかった。論争する時間はなかった。力づくで、強行突破をせずるを得ない。それを実行に移そうとしたとき、
「薙は、お主の身を案じておるのじゃよ」
第三者の声。息をきらして着の身着のままの姿は、普段の彼の神秘と威厳を装った姿とはかけ離れていたが、その総白髪は見間違えようもない。
「・・・曾様」
巫人だった。
「女人は神山に入ってはならぬ。薙はそれを心配しているのじゃ。入るべきでないものが入れば、神罰が下る・・・・やはり、衍葵を神山にやるべきではなかったのかもしれぬ」
「曾様まで、そんな事をいうのか。これが、衍葵のせいだと!?」日夏は燃える空に手を振り上げる。「馬鹿馬鹿しいっ!仮にも神山と称される霊山が、たかだか人間一匹のせいで燃えたりするものか」
「理由が、なんだとしても」穏やかだが譲らない口調で、巫人は重ねる。「お前は、神山に入ってはならぬ」
「なぜだっ!?女だからというのは、聞き飽きた」
「掟だからだ。族長の娘であるお前が、掟をないがしろにする事は許されぬ。掟を敷く側にある者は、誰よりも掟に忠実であらなければならぬ。それが、けじめというものだ。それに、お前が禁を破ったなら、同じ理由で、族長様もお前を厳重に処罰せざるを得なくなる。分かるな?日夏」
「・・・・・」
日夏は手綱の持ち手を握りしめる。巫人の言葉には一理あった。遊牧の民にも、法はある。慣習法という名の法。先人の知恵という名の不文律の体系。中には、首肯しかねるような馬鹿馬鹿しいものもあるが、法は原則として尊ばれなれければならない。悪法であればこそ、変えるためには正当な手続きを踏まえることこそが要求される。
だが、そんな道理は犠牲にされる人間の前に、果たしてどれだけの説得力をもって響くというのだろう?たった今、神山にある衍葵の命を前に、処罰だの、掟だの、それが何だというのだ。どうして、そんな言葉しか出てこない?
「日夏、掟が軽々には破られては――――――――」
「軽々にだとっ」
遮って、日夏は、巫人に対した。常に親愛と尊敬を持って接してきた部族の長老、神々の代弁者を相手に、今は払うべき敬意を見失っている。
「衍葵は、今もあの炎の中にいるかも知れないんだ。たった一人で。助けを求めているのかもしれない。それを、軽々にだと?ここにいる連中にとって、あいつの命はそれだけのものでしかないというのか?」
「誰もそんな事は言っていない」
嘘だ、と日夏は思った。確かに、衍葵を積極的に嫌っているのは、むしろ薙などの若い連中だ。
しかし、巫人をはじめとする大人達の、衍葵に対する妙によそよそしい態度。それは、疎んじている表現がもっとも近く、衍葵の何が彼等をしてそういう態度をとらせるのかまでは知る由もなかったが、日夏はいつも感じて来た。彼等は、何か隠している、と。
それと、もう一つ分かっている事がある。彼等は、衍葵を嫌っていないとしても、決して好いてもいない。
「だが、衍葵の命と、日夏、お主の身の安全では、後者の方が重い。それを受け入れられないという程、子供ではあるまい」
心が冷えていくのか、滾っていくのか。いずれにせよ、分かったのは、これ以上の言葉の応酬は無駄だという事だった。自分も相手もゆずるまい。
「日夏!聞いているのか!?」
これ以上の問答は無意味。
「・・・曾様はお気が早い」
これは、帰ったら父上の御冠が怖いな、とそんな場違いなことを 心の片隅で思った。
「私は、族長の娘というだけで、いまはまだ一介の族民に過ぎないという事をお忘れですか?現時点では、部族にとって、衍葵の命と私の命、どちらが重いかなど言えはしないし、またそうであるべきです。それこそが曾様のおっしゃる、けじめというものでしょう。それに、私が将来、上に立つべき者だと言うのなら、なおさらの事、族民を守るために、まず己みずから体を張らないで、誰が体を張ってくれるというのか」
第一、と腰の山月刀を抜き放つ。薙が、ますます硬く手綱を握り締める気配があった。
「人一人の命すら救えない掟など、糞喰らえだ」
ぶつり、と左の手綱を山月刀で切り離すと同時に、薙の体を突き飛ばし、日夏は馬腹を蹴った。虚をつかれて、尻餅をつく薙と、呆気にとられている巫人を尻目に、人馬の一体は、瞬く間に遠ざかっていく。
「馬鹿野郎っ!」
薙は、拳を握りしめ、見る見る内に小さくなっていく背中に吼える。巫人は、色の薄くなった灰色の瞳に翳りを宿し、部族の次代の担い手の行く手を見上げた。西の空を焦がす炎は、先ほどより勢いを増しているように見えた。
「薙」
「ああ、承知の上だ」
飛び起きた薙は、己の馬を求めて駆け出した。すべき事は明白だった。
止められなかった上は、追い駆ける他にない。




