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右腕   作者: ばいばるす
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第三章 異形 (3)

 そこには闇があった。

 瞼を閉じて出来る闇よりも、深く凝った、常闇だった。奥行きも広がりも、全てが一様の闇に同化し、狭いのか広いのかさえ分からない。わずかに知覚できる己の輪郭すら、端からさらさらと流れていく。


 音もなく、耳の切れるような静寂の中を、連綿と、つたい落ちていくものがある。握りしめた一握の砂にも似て、一粒一粒、指の間にその存在の軌跡を宿らせては、こぼれ落ちていく。

 時にそれは、もう思い出せない誰かの笑顔であり、並んで眺めた夕焼けであった。

 馬上にあって感じた風と、馬の背から伝わってくる振動と躍動であった。

 振り仰いだ空の青さと、雲の白さであった。

 身を斬るような清澄な朝の大気であり、せせらぎに差し入れた手の冷たさであり、天窓から覗く星々であった。

 眠れない夜と、頭の中で繰り返した独白と、染み入るような冷めた夜の大気であった。

 それらは、過去から蘇り、再生される側から闇に落ちて、消えていく。束の間の追憶を点々と宿らせては、流れ去っていく。


 (…思い出せ)

 新しい記憶もあれば、古い記憶もあった。優しい記憶もあれば、そうでないものもあった。


 誰かが言った。お前は臆病者だと。

 もう一人が言った。腕なし、と。

 更にもう一人が、背中を押した。咄嗟に利き腕だった右手をつこうとして、顔から地面に落ちた。頭上で、笑い声が沸いた。

 (そうだ。思い出せ)

 背中に馬乗りになられ、左腕を拘束され、右の袖をちぎり取られた。二の腕の中程までしかない右腕の切断面が外気に晒される。肉が盛り上がり、先のすぼまった切断面。彼等は、それを眺め、あるいは興味本位で触り、口々に何かを言って、笑い合った。


 (…憎い)

 誰かが肩を抱き、手をさしのべた。見覚えのある女性。でも、誰かは分からない。大丈夫、と彼女は問う。その瞳にある、憐憫。顔を伏せると彼女は、それを封じるように覗き込んだ。

 泣いているの?泣いているのね。泣いていないと答えても彼女は入れなかった。可哀想に、と重ねる。

 可哀想な子。

 (憎い、はずだ)

 さらさら、とこぼれ落ちていく。

 もはや名前の分からなくなった人たちが、入れ替わり立ち代わり自分の前に表れては、去っていく。笑い、怒鳴り、慰め、嘲り、諦めては通り過ぎていく。

 (お前を傷つけた奴等。馬鹿にした奴等。哀れみ、見下した奴等。そう、お前は許してなどいなかった)

 だが、それも直に終る。悔しさも痛みも、ほの暗い虚無に喰われて消えていく。一つ、また、一つと。離れていく。

 (いいや。それでも、消えない記憶はある。消せない記憶がある。望もうが望むまいが、消しようのないものがある。お前は忘れて等いない。思い出せ)


 −ーー古い、古い記憶の中に、叫びがあった。

 (そうだ、それでいい)

 優しい人肌の温もりと、鋼鉄の刃の感触と、焼けるような熱さと、溢れて伝う生暖かい液体と、斬って捨てられた腕があった。悲鳴があり、恐怖があり、痛みがあった。

 焼け付く痛みの底から、もつれ合った感情が幾重にも折り重なり、精製され、一つの理解が産まれた。

 心の奥深い場所に封じ込め、重い掛けがねをかけて、忘れようとした。

 誰の目にも触れさせず、意識を向ける事すら己に禁じて、時の風化を待った。だが、日の光の届かない、空気の流れの停滞したその場所に、風化などありようもなかった。扉を叩き、掛けがねを揺らすその音は、押し込めれば押し込める程、日々大きくなっていくようだった。

 (己を偽ってえた仮初の平安に、安息があろうはずがない)

 だが、その音に耳を塞ぎ、怯えた日々も、直に終るだろう。消えてなくなる。深い深い闇の淵に塗り込められたまま、他の全てと同じ、闇に帰る。

 (いいや、消えてなくならない。なくなって、たまるか)

 だが、それで解放される。ようやく、楽になれる。

 (楽になど、なれるはずがない。お前が認めようと認めまいと、それは、そこに存在する。消えてなくなりなどしない。その痛みは本物だ。見ろ。放置され、膿ただれ、腐臭すら放つ、傷口がそこにある。癒されない。癒される事などない。未来永劫。その根源を立つまでは)

 それでも。

 (お前が感じた痛みを、悲しみを、憎しみを、全てなかった事にしようというのか?)

 それで、誰もこれ以上、傷つかずにすむのなら。

 (傷つくだと?誰が傷つく?)

 誰もが。

 望んでいない。目をそむける。知っている者も、口にする事はない。だから、口にしない。だから、忘れる。覚えていない振りを。

 (違う。お前はただ自分が傷つくのが怖いだけだ)

 その通りかもしれない。もう、これ以上、傷つきたくない。覚えていない振りを続けるのは、苦しかった。

 だから、もう、楽になりたい。人から笑われるのも、馬鹿にされるのも、本当は平気じゃなかった。笑われる度、指を刺される度、笑顔を作ろうとする度に、心のどこかが、きしみを立てる。その音は鈍く小さく、でもそれを聞くたびに、自分の中で一つまた一つと何かが壊れていくような気がした。

 だから、もう楽になりたいと願うのはそんなにいけない事だろうか?

 (逃げ続け、目を背け続ける事で楽なれる筈がない。お前は、一切の痛みを自分の内に呑み込んだ。他の誰でもない、その傷を自分に負わせた奴のために。お前を糞のように扱った連中のために。何よりも、そうする事しか出来ない哀れなお前自身のために。だが思い出せ。それは誰の痛みだった?決して、お前だけのものではなかったはずだ)

 自分だけのもの、じゃない?

 (流された血を、思い出せ)


 血。

 赤い、血。


 あれは誰の血だった?乾いた大地に染みこんでいく、黒く広がっていく。あれは誰の血だった?あれは、僕のものだった。違う。あれは…

 (お前は、忘れられるのか?)

 人肌の温もり。ぬるりと蔦う血の感触。鼻先に揺れる淡い色の髪。金木犀の香りがする、柔らかい体。

 どれだけ呼んでも、泣きじゃくっても返事はない。抱きしめても、取りすがっても、掌の下で次第に固くなっていく、あれは。

 (許せるのか?)

 母さん。

 (そうだ)

 母さんを、殺した。

 (その通りだ)

 父さんが、母さんを。

 (そうだ。忘れられるはずがない)

 父さんが、母さんを――――――

 (解き放て)



 殺した。



 常闇の世界にひびが入る。

 闇にかえった、闇にかえろうとしていた数多の記憶が、蘇り、集まり、膨れ上がる。幾度となく繰り返し再生されるそれ等の記憶達が、五感の上をかけずり回り、再び衍葵という輪郭を形作る。

 そして闇が弾けた。


 涙にぼやけた視界が、もう一度、世界を映す。頬を焦がす熱風と、煙と、むせ返るような血の臭い。

 そこには崩れかけた異形の首があった。

 (生きたいか?)

 それは、聞いた。





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