第三章 異形 (1)
注意: この章は、一部、残酷な表現を含みます。
「無様だな」
目を明けると、そこはまだ、火の粉の舞い散る森の中で、血と吐瀉物に塗れながら、木の幹に背をもたれかけさせている自分がいた。
「その姿でなお、その様か。こちらはまだ形態さえ換えておらぬというのに」
再び同じ声が耳朶を打ち、衍葵は声の主を求めて視線をさまよわせた。その少女のような高い声と、冷ややかな抑揚が、ひどく不釣り合いな声の主を。
そうするうちに、やがて、視界の内にそれを見つけた。なぜ、今まで気付かなかったのかは分からない。
先程の爆風の震源地とおぼしき開けた場所が、木々をなぎ倒した後に出来ていた。そこだけ抉り取ったように無惨に地肌を晒した地面の上に立つ、二つの影。
一人と、そして一体。
その一体は、人ではなく、獣でもなかった。化物としか形容できない姿がそこにあった。
猿とも狼ともつかない輪郭。有に馬の三倍以上はある巨体。その右半身は、赤黒い長毛を引きずり、その左半身は爬虫類然とした鱗に覆われている。頭部の顔半分は狼に良く似ていたが、片目は潰れ、たった一つ残された目は、血を塗り込めたような赤だった。
その背骨にそって隆起する連なりは、ある場所では角のようであり、またある場所では肉腫のようでもあり、不揃いな列をなして、腰から頭へ、頭から鼻の頭まで伸びていた。
折れてひしゃげた翼は、蝙蝠の羽と鳥の翼を掛け合わせたようであり、実際ある場所は羽毛をはやし、他の場所は、黒い被膜に覆われていた。
それは部分部分だけ取ってみれば何かに似ているが、衍葵の知る如何なる動物とも相容れない生き物だった。
左と右と、大きさも形も違う非対称の造形は、まるで無作為に生き物の部分を継ぎ合わせた、寄木細工のようだった。
しかし、その神に呪われたとしかいいようのない異様にも関わらず、件の生き物は、ひどく傷つき、死にかけているように見えた。
四肢を踏みしめて立ってはいるものの、その牙の隙間から漏れ出る荒い呼吸音は不規則であり、その口腔から溢れ出る血泡が涎となって、止め処もなく地面をつたっていた。最初は赤と黒の斑のように見えていた体色も、肉を露出した傷口と流血が、 漆黒の体を斑に染め上げているに過ぎないようだった。
そして、その生き物が、牙を剥き出して対峙する相手は人間の少女。少なくとも外見は、そう見える相手だった。
「みずから仕掛けてくるからには、よほど自信があろうかと期待していたのだが、この程度とは。興冷めだ」
先刻からの声の主は、その少女のようだった。
燎原に浮かびたつ、小さく、か細い立像は、異形の巨体に比べて、いかにも頼りない。
しかし、やはり、この少女もただの少女であろう筈がなかった。
風に煽られ、吹きすさぶ火の粉を纏う少女の髪は、老婆のような白髪であり、その皮膚も色白などという形容を通り越した、色素という色素を抜き取ったような白さだった。そして、その瞳は化物と同じ真紅。
白子。
実物を見るのは初めてだったが、話には幾度か聞いた事があった。色素を持たずに産まれ、光に弱く、赤い目を持つ動物や人間達。風習によっては彼等を忌子とし、その赤眼を邪眼と見なす。またある所では、白子は神の使いとされ、畏れられているとも。
集落に立ち寄る商人達から仕入れた知識だった。もっとも、その内の一人に言わせるところ、白子はただの先天的な病気であり、体も弱く、長くは生きられない哀れな生き物に過ぎないのだと言う。
しかし、とその商人が続けて言った言葉が耳に蘇る。
――――縁起が悪いっていう気持ちも分からんじゃない。赤い色は血の色。そんな色を瞳に宿したものは、どうしたって禍を呼び寄せるのかもしれん。
だとしたら、自分の死も、また彼等によって呼び寄せられたのだろうか?
そうだとしても、どうして彼等は三十歩と離れていない場所にいる自分を無視しているのだろう?気付いていないのか、気付いていて路傍の石のごとく気にもとめていないのか。
案外、後者かも知れないと思って、衍葵は表情もなく笑った。
考えてみれば、この山で死にかけている生物は自分だけとも思えない。この、炎だ。無数の山の命たちが、今この瞬間も、叫び、いななき、もだえ苦しみながら、その命の灯心の最後の一欠けらを燃やしていることだろう。
その中にあって、どうして自分の生の瞬きばかりが他よりも明るいことがあるだろう?
火に煽られた羽虫と、自分と、この山火事の前では等しく無力には違いない。
いずれにせよ、それを知るための時間が残されているとも、思えなかった。
先ほどから随分、彼等の声も姿も不明瞭になってきている。もしかしたら、姿も形も違う二対の赤目は、死に際して自分が生み出した幻影なのかもしれないとさえ思う。
瞼が、重い。
「それにしても、随分な姿だな」
少女の声だ。紛れもない愉悦が、冷ややかな語尾を揺らす。
どうしてだろう、と衍葵は白濁した思考の裡で思う。少女の声は玲瓏として美しいのに、ざらついた余韻を聞く者の耳に残す。
「小物大物を問わずに、手当たり次第に喰い散らかしたか。元がどんな形をしていたのか、まるで分からなくなっているではないか。そうなるまでに一体、何体喰らった?」
からかうようにそう言った少女に対して、化物は低く呻いた。
『貴様ヲ』
血泡を吐き出す狼の口腔の奥から、くぐもった音節が一言一言、吐き出される。それは、聞き取りにくいものの衍葵にも理解できる言葉だった。
『貴様ヲ、殺スタメ二、必要ナダケダ』
少女は嗤った。
「不十分だったようだな」
『マダ、マダダ。終ラナイ。マダ―――』
異形が前足が力を蓄え、踏み切ろうとした、正にその瞬間。
「いや、終っているよ」
赤い血しぶきと共に、異形の前肢が宙を舞った。
重々しい落下音がそれに続く。前肢を失った異形は、地面に崩れ落ちた音だった。
少女は瞬時に二十歩の距離を縮めて、異形の懐にあった。残像すら捉えられない、消えて現れたとしかいいようがない動きだった。
「ふむ」と少女は一人ごちる。「前肢で急所を庇ったか?それとも、ひょっとして反撃しようとしたのか?」
そう言って左腕についた血糊を、振って払う。
いや、それは、もはや腕と呼べるべきものではなかった。少女の腕だったものは、いまや、まるで別の物体に成り果てていた。
少女の右肩より先の部分は、骨格が歪み、変形し、膨れ上がり、鎌のような形状をかたどっている。
歪な鎌の反りの内側に連なる数々の突起は、瘤のようでもあり、動物の爪のようでもあり、丁度、その足下に倒れる化物の異形に通じるものがあった。
なんであれ、その物体が、化物の前肢を切断したのだということは間違いなかった。
押し殺した嗚咽が三足となった異形から漏れる。失われた前脚を取り戻そうとでもするように、残された肢が地面の上をもがく。
異形は−ーーー衍葵は、その腕に向かって手を伸ばす。そうすれば、欠けた四肢の一部を取り戻せるとでもいうように。
斬撃で飛ばされた体の一部は少し離れた場所に落ちていてた。切り離され、たった一本、地面にとり残されたそれは、ひどく作り物めいて見えた。
かつては自分の体の一部であったことが嘘であるかのように、切断された腕は、他人行儀でそこに鎮座している。あがき、のた打ち回る、かつての主人を嘲笑うように。
肩と腕、本体と右腕、両方の切断面からどくどくと溢れ出す血だけが、かろうじて、かつて二つが一つであった名残をとどめている。
しかし、いつしか血は止まり、切断面は肉腫に変わる。それでも体は失われた一部の記憶を忘れられないのだ。
動かそうとするたび、触れようとするたびに、行き場を無くす生々しい感触。左手は、むなしく宙を掴むばかりで、もどかしさに気が狂いそうになる。
手の届かない痒み。実体を伴わない痛み。それは、錯覚なのだと己に言い聞かせる。
感覚を訴えるべき実体は、もうすでにそこにないのだから、痛むはずもない。だから、錯覚なのだと、言い聞かせ続ける。
ますます、きつく掌の中のものを握り締める。もうそこに何が納まっているのか思い出せなかったが、そうする事で少しでも救われたいと願った。
救済を求めていた。
身近に迫った死の手触りの中、恐怖よりも深い諦観が心身を凍えさせる。
うろのように底の見えない空白が、先刻から自分を覗き込んでいるのを感じている。それが何かひどく怖ろしいものだと感じているのに、それでも尚、生きたいと、何に変えても生きたいと、願えない自分がいて、その事が切実に悲しく、やるせなかった。
だから救われたいと願った。底冷えのするような空白のうろが、その最後の願いすら呑み込むまで。
むせかえるような血の匂いに、今はもう心は波立たない。
死に行く自分の目前で繰り広げられる一幕はいったい何なのか、自分が何故死んでいくのか、死ななければならないのか、それすらも、もう、どうでもいい事のように思えた。
重い倦怠感が思考を蝕む。
苦痛はもう大分引いた。やがて、全てなくなるだろう。




