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右腕   作者: ばいばるす
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第二章 成人の儀 (3)

 

 山は湿った匂いがした。

 乾いた草原にはない湿った土草の匂いだった。

 生い茂る植生も、鬱蒼とした緑も、神山と呼ばれるに相応しく、この乾いた大地の上で何故ここだけがと思わずには置かないように、生命の賑わいを育んでいる。夜の闇の中でも、生命の営みは木々のざわめきの間に、枯れ葉を掻き分ける小さな気配の中に感じられた。


 神山に入って、まだ一刻にも見たなかったが、衍葵は額の汗を拭って、息をついた。

手近な木の根に腰を下ろし、左腕で刀を抜いた。咄嗟の時に刀を迅速に抜けない片腕の自分としては、裸のまま持ち歩いていた方がいいように思えたからだ。

 たわむれに満月に掲げてみると、銀の光がきらきらと刃先にそって落ちていく。

 よく使い込まれた一品だったが、その用途はこれまで、なたの域を出た事がなく、果たして今日という日が、ただの一回も生き血を吸った事のないこの愛刀の初めての夜になるかは、疑わしかった。


 ――――鼠の尻尾など引っさげてきた日には、絶交だからな。

 そう言った日夏を思い出す。笑おうとしたが、途中、唇が奇妙な形にねじれて止まってしまった。

 あんな形で別れたまま、成人の儀に赴くというのは心残りだったが、彼女とは話をする時間も機会もなかった。

 慣例では成人の儀の前の見送りは禁じられている。成人の儀の試練の主旨は、あくまでも一人で成し遂げると言う事であり、神山に赴く時もたった一人ひっそりと立たなければならない。同道を許されるのは馬一頭、それも神山につくまでの話であり、山に入る時には本当に一人になるのだった。

 それに、正直なところ、こうなって少しほっとしている自分がいた。いま日夏と顔を合わせるのは、まだ少しきつい。

 今度こそ、失望をつきつけられるかもしれないと心がざわつく。そしてまた、そうなった時、平静を装える自信は、今夜ばかりは怪しいのだった。


 ――――私に恥をかかせるな。

 父を憎いと思った事はない。薄情だとも。嫌いだとも。

 父親を目にする度に、心を浸食する、あの感覚に名前をつけた事はない。

 ひとたび名前をつければ、その感情は根を張り、葉を生い茂らせ、自分自身、制御できないまでに成長していくような気がした。定義する事はすなわち、認める事であり、自分の内にそれを根付かせる事だった。

 あるいは、そうするべきであったかもしれない。求めても得られぬものに拘泥してより深く自分を傷つけるよりは、いっそ己の一部ごと、抉り取ってしまった方が痛手は少なかったかもしれない。

 だが、そうする事によって、自分は今まで曖昧なままにする事によって守られて来た某かのものを失う。自分を構成し、支えて来た何かを切り捨てる事になるだろう。たとえ、それが―――

 (どれほど愚かしい願いだったとしても)

 心を搦めとろうとする、どす黒い触手から逃れようと、衍葵は刀を握りしめた。感情の残滓を払い落とすように立ち上がり、歩き出す。


 まずは、動物の足跡が残っているような真新しい獣道を探さねばならない。

 その後はその足跡上に、自分の背丈とそう変わらないくらいの、細く、しなやかな若木を見つける。あるいは適当な高さにある枝でもいい。

 ひとたび適当な場所を見つけたならば、後は自分の懐に忍ばせてある紐と少しばかりの運が何とかしてくれる。

 もともと儀式の時を除いて神山は禁足地ゆえに、人の手に乱される事のない動植物の天地である。獲物は多い。時間はたっぷりとある。心配する事は何もない。そう、今は気を落ち着かせ、やるべき事をやらねばならない。


 歩きまわる事しばらく、衍葵は目的に適う場所を見つけた。彼はその場に膝をつき、あらかじめ、腰帯を割いてつくった紐で輪を形づくった。その輪を丁度、小動物の頭に合うぐらいの形に整え、周囲の低木を支えに輪を地面より少し上に固定する。

 結び目のない輪である。片側に作った小さな輪っかにもう片方を通したもので、先に輪のついた投げ縄のような形をしている。そして、投げ縄であれば持ち手に当たる部分は、曲げられた柔軟な若木の先に結びつけられていた。


 片腕とは思えない器用さで、衍葵は一連を作業を終えた。

 つまり、獲物がその輪を通り抜けようとして、頭を差し込んだ時点で、少しの負荷で外れるように固定しておいた若木は跳ね上がり、その張力によって紐は引き絞られ、輪が閉じて、哀れな小動物の首を締め、宙釣りにするという工夫である。

 薙であれば、姑息と糺弾しそうなやり方だったが、弓を引けない片腕の自分が山月刀を手に、なんにち山をかけずり回った所で鼠一匹捕まるかどうか心許ない。

 また、成人の儀に携行する武器に特別な制限はなく、あらかじめ用意しておいた紐の一本や二本が掟に抵触するとは思えない。それに、この成人の儀自体を、通過儀礼以上のものとは捉えていない衍葵にとって、とりあえず周囲の面目が立てばそれでいいのであり、戦士らしいからしくないかは二の次の問題であった。

 どのみち、自分に儀式を滞りなく終える以上の事は期待していない者達が、それを持って無効を叫ぶとも思えない。姑息だ、卑怯だ、くらいの陰口は甘んじて受けるつもりだった。


 周囲に同じ様な罠を周辺に幾つか仕掛け、後は待つばかりとなった時だった。

 最初は気のせいかと思った。だが、地面に耳を押しあてて、本当に地面が振動しているのだと気付く。立ち上がるころには、振動はもはや微弱ではなくなっていた。

 山は、いまやはっきりと振動していた。地鳴りに混じって、鳥の羽ばたき、動物のいななき、大小無数の足音がまたたくまに大きくなり、やがては耳を聾するばかりとなった。

 (…地震?)

 足の間を通り抜ける鼠や兎達の群に目を見張り、その一匹が自作の罠にかかって跳ね上げられるのを尻目に、呆然と衍葵は立ち尽くしていた。

 逃げなければ、と思った。山を降りて、麓に繋いである馬を放して、それから―――

 ふいに光が視界を覆った。

 続いて、全ての物音を圧する轟音が耳を塞いだ。爆風で衍葵の体は吹っ飛び、木の幹に叩きつけられて、その根元に落ちた。


 一瞬、気を失っていたように思う。体中を襲う猛烈な痛みが、衍葵の意識を引き戻した。

 口腔に溢れる、ぬるりとした感触。

 全ての音を無くした世界がゆっくりと元に戻るにつれて、衍葵は自分の口から漏れ出る、異様な呼吸音を聞いた。ぜーひーと、まるで気管支に穴でも開いたかのような音で、暫く自分のものとは信じられなかった。

 口は陸に上がった魚のように必死と開閉を続けているのだが、空気が一向に流れ込んでこないのだ。肺が握りつぶされたように、呼吸が出来なかった。

 火がついたように熱いのは肺ばかりではなく、五臓六腑の内の幾つかはまぎれも無く損傷を受けていた。


 喉をこみ上げてくる異物感に、仰向けの衍葵は咄嗟に顔を横にして咳き込んだ。

 体が意志の力とは無関係に傾ぎ、すぐ隣の地面に赤黒い塊を吐いた。ぬめりを帯びたその塊は、明かりに照らし出されて、ちらちらと光の縞をひらめかせていた。


 血。


 ぞわりと不快な感覚が鎌首をもたげる。吐き気が再び喉を塞ぎ、衍葵は血の混じった胃の内容物を辺りにまき散らした。

 むせかえるような血の匂いに、過去の記憶が蘇りそうになり、耐えられず顔をそむけた。

 そむけた先にも、やはり赤があった。

 赤い、照り返し。満月の月明かりの中にあっても、その照り返しは不釣り合いなほど明るかった。

 森が燃えている、と気付くのに少しばかり時間がかかった。至近距離に結ばれていた焦点を、ゆっくりとその背後に移す。黒い影絵と化した木々の向こうに、赤い色が見えた。

 揺らぎ、踊り、爆ぜる、赤。

 ぱちぱちと音を立てて、一切を呑み込んで膨張していく炎は、空を焦がし、衍葵と五十歩と離れていない場所で猛威を振るっていた。


 立ち上がろうとするが、四肢に力が入らない。なんとか四つん這いならぬ三つん這いになり、最寄りの木に背を預けた。

 それだけの事をするのに、体の内部が尋常ならざる痛みを訴え、衍葵は三度、血を吐いた。吐き出した鮮血は、今度は顔をそむける事もかなわず、そのまま胸を汚した。


 (…僕は、ここで死ぬのか?)


 独白のような問いが、霞がかった意識に問いかけた。何が起こったのか、どうしてこうなったのか、その原因も理由も分からぬまま、血と吐瀉物に塗れて、だれにも看取られる事なく、一人、死んでいくのだろうか?

 いまだ何を成し遂げたわけでもなく、また成し遂げたかった何があるわけでもない。

 ただ息をひそめて生きてきた十五年間。それが今、唐突に終わりを迎えようとしている。

 気紛れに踏みつぶされた虫にも等しい、その生と同様あまりにも、ちっぽけな死。その生の証も死の証も、あまりにも、ぼやけて頼りない。

 自分の生の足跡はここで途切れ、時の風化に瞬く間に呑み込まれていくだろう。誰の心にも残る事はない。


 あるいは、日夏なら、悼んでくれるだろうか?いっきくの涙をたむけ、心の片隅に衍葵の記憶を残してくれるだろうか?

 凪いでいく恐怖の代わりに、虚無が広がっていく。

 痛みに混じって倦怠が四肢を痺れさせていく。体から止めどもなく、流れ出していく何かを見つめながら、衍葵は自分自身がどんどん空っぽになっていく気がした。

 視界の中で赤い色が滲んで、自分が泣いているのだと知った。


 まだ体に残っている僅かな体力をかき集めて、衍葵は胸をまさぐった。血に濡れた服の上から、震える指がその感触を探りあて、握りしめる。

 彼女の顔を思い浮かべようとするが、どうしてか浮かんでくるのは彼女の背中ばかりだった。自分を置き去りにして、去っていく。その、足音。

 それで分からないようなら、と彼女は言う。 

 それで、分からないようだったら――――

 何かを言わなければと思い口を開くが、異物感が喉をふさいで何も出てこなかった。去っていく日夏の足音を、呼び止める事すら出来ぬまま、ただ黙って俯いている事しか出来ない。


 「―――無様だな」

 その声が日夏の後姿を闇に溶かし、衍葵を再び炎に呑み込まれゆく神山に戻した。





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