第五章 きずあと (4)
「わしは、この目で見たわけではないし、その経緯を、衍葵や刹羅に問いただしたことはない……問いただせるわけもない。ただ、あの欠けた右腕を見るたびに、そして今回の事件も…あの一件を重ね合わせて見てしまったという事は否定しない」
脳裏にちらつく衍葵の顔に、下手な同情を重ねてしまわぬよう日夏は自己を律する。いま大事なのは過去の出来事に憤ることではなく今の衍葵を救えるかどうかだ。
「……そうですか」
感情を抑えたつもりだったが、その声はやはり相手を責める響きをともなって聞こえた。
「では、あの夜の曾様の託宣も、私情が絡んだもので真性の巫技ではないと思っていいのですか」
あの夜、神山から戻った衍葵を巫人は不吉な託宣で迎えた。
「それは、違う!」と巫人はやおら声を荒げる。
「あれは危険なものだ。あれこそが衍葵にとり憑き狂わせたものだ。あの瘴気……憤怒、憎悪、狂騒、飢餓感。禍々しい波動。わしが感じたあの感覚だけは、嘘ではない。託宣は本物だった。わしは衍葵の中にいる『あれ』に触れた。
あれは…そう、化物としかいいようがない。黒い何かを煮詰めたような、濁った闇。憑き物を宿した人間に共通するものだが、あれほどの感覚を覚えたのは初めてのことだ」
確かに、あの時の衍葵は、憑かれているとしかいいようがなかった。平素の衍葵とは似ても似つかぬ表情をして、衍葵ではありえない言動を示した。
それに神事に用いる祭儀用の短刀で、あれほどまでの負傷を刹羅に負わせられたというのは、はっきりとおかしい。自分の傷にしたところで、どうも治りが遅いように感じるのは気のせいではないかもしれない。
「ならば、あれは何だというのです?神山の主が化物で、それにとり憑かれたとでも?」
「しかとした事は分からない。分からないが、あんな禍々しいものが神山の主であろう筈がない。主は死んだ。この山にいて感じぬか?」
そういって、巫人は灰の地面に膝をつき、掌をつけた。
「ただ燃えただけではない。この山に集まっていた地の気が、そう、主の存在によって集められていた気が、一気に拡散したような…いや違う。忽然と、どこへともなく立ち消えたのだ…もう、この神山は神山ではない。たとえ、また草木が生えてこようと、山は元通りにはならぬ。山は主あっての山じゃ。主なくしては栄えぬ」
日夏は戸惑いを露にした。
「主とは、その、本当に存在するのものなのですか?」
神山には主が棲む。
山を守り、生命を寿ぎ、実りをもたらすが、時として傲慢な侵入者に罰を下す。
そんな話は昔語りによく聞いたが、それを文字通りの意味で受け入れていたわけではない。少なくとも、死んだ死なないと論ずることが出来るほど実態のある存在だとは思ったことはなかった。
巫人はその様子をみて溜息をつく。
「わしの語る全ては、どうやらお主たちには子供騙しの御伽話と受け取られておったようじゃの」
「………」
「神山が禁足地であったのは、相応の理由のあることじゃ。主はいる。いや、いたというべきか。みだりに山に立ち入れば、主の怒りに触れる。それに昔の風習に、凶事が続くと山の主に乙女を生贄を捧げるというものがあってな。若い女が山に入れば、主にかどわかされるとも言う。神山の女人禁制は、ある意味その名残といえよう。なんにせよ、山の主は、穢れなきを好み、穢れを厭う」
穢れ。
あの時も巫人はそんなことを言っていた。衍葵は穢れに捕らわれた、と。
「『山喰い』、『わたり』、『穢れ』……そう言ったものを聞いたことはあるか?」
「いえ。私が覚えている限りでは曾様の昔話に登場した事はない思いますが」
「口にすると、そのものを呼び寄せるというからの……色々な名でかたられるが、その指し示すところは同じじゃよ。地を渡り、山を喰い、草木を枯らし、行く先々に瘴気を撒き散らす。
その姿は融通無碍。その本性は、救われることのない憎悪、収まるところを知らない憤怒、底のない絶望、癒やされることのない渇き、満たされることのない餓え」
「なにやら、随分と抽象的ですね。それが、衍葵を『のっとった』と?」
巫人は日夏の懐疑的な反応に溜息をついた。
「わしとて信じておらんかったさ。少なくとも、そんなものが跳梁しておった時代は過ぎ去ったと。しかし、わしはあの夜の衍葵を見たとき、真っ先に頭に浮かんだのがそれじゃった。その直感を神託と認めるか、私情の絡んだわし個人の解釈というかは、お主らに任せる。しかし衍葵にとり憑いたものが何であれ、尋常なものではない事は確かじゃ」
「しかし、ただそれのみでは―――」
「人の話は最後まで聞けと教えたはずじゃ」
と巫人は日夏の抗弁を遮った。
「衍葵自身の証言もあるのじゃよ。あやつは神山で二体の異形の死闘を目撃したと言っておる。その内の一体が自分に話しかけてきたとも。そしてどうやら、あいつは己の身にそれを受け入れたらしい」
本当なら部族会議の参加者以外に話すべきことではないのだがな、と巫人は付け加えたが、日夏はもはや聞いてはいなかった。
(あの馬鹿)
実際、衍葵の身に何があったか、巫人の言う事のどこまでが信頼におけるのか日夏には分からない。しかし。
(何を好き好んで、自分の不利になる証言をする? 嘘をでっちあげろとまでは言わないが、せめてだんまりを決めこむなりなんなり、いくらでも仕様があるだろう?
分からないのか? 今の状態で、そんな証言をした日には、部族会議はお前を…)
その先の言葉を考えて、日夏は唇を噛んだ。
そんな日夏の様子を見ながら巫人は溜息をつく。
「正直、衍葵に憑いたものが、何と呼ばれるものであれ、何が変わるわけであはない。山食いであれ、人の心の住まう小鬼であれ、同じように、人を惑わす穢れには違いない。問題は、あれが小物などではないということ。実態をともなった、より強力な何か…衍葵の自我など、すぐに飲み干してしまうじゃろう」
「祓えないのですか?」
「祓う、か」
巫人は皮肉気な表情を浮かべた。
「族長様にも同じことを聞かれた。祓えるといえるかどうかは怪しいが方法はある」
「なら―――」
「だが宿主ごとそうする事になる」
巫人の表情を見て、日夏はその意味するところを察する。
宿主である衍葵ごと、憑き物を祓う。
「…それは」
声が喉に絡む。
「衍葵を殺すということですか?」
「そうだ」
巫人は日夏の肩を叩く。
「それが部族にとって最良の選択だ…それにこれは衍葵自身の希望でもある。自分の自我が食い尽くされる前に、一刻も早く自分ごと化け物を殺してくれ、とな。ああ見えて、なかなか気丈夫な奴だ。正直、わしは衍葵を見直したよ」
日夏は左手の拳を握り締める。爪が食い込み、血が滲むほど強く。衝撃を冷静に受け止め、感情に流されずに、ただ確認すべきことを確認するために。
「それは、父上には…族長にはもう進言されたのですね?」
「ああ。それがもっとも確実な方法あり、そして恐らくは唯一の方法だと……わしを恨むか?日夏?」
「いえ」
本心とは言えない。
恨む気持ちはない、などとは言い切れない。
しかし巫人は族長に求められるまま、己の知識と見解を述べたに過ぎない。
彼は彼の規範にしたがって部族のために行動している。ただ己一人の感情から衍葵を助ける事に固執している自分が、どうして巫人を責めることが出来るだろう。
そして、父も……部族の長として下すべき判断を下すだろう。協議の末に、現時点で最善とおもえる決断を下すだろう。
そして、その答えを日夏はすでに知っている。私が父であれば―――
(衍葵を殺す事に同意する)
衍葵は凶事を運んできた。
衍葵をこのまま野放しにしておく危険性は明らかだ。
いまや衍葵の存在は族民の心を乱すものでしかない。
そして神事をつかさどる部族の三長の一人である巫人が、その解決策を提示しているのだ。反対する道理がどこにあるだろう。
衍葵を殺す決定は、妥当だ。
■ ■ ■
「…曾様、曾様がおっしゃったこの右腕、確かに不便なのです」
長い沈黙の後に、脈絡のないことを話し始めた日夏を、巫人はいぶかしげに見た。
「動くべきものが、動かない。何かの拍子に、利き腕を使おうとしている自分を発見します。弓を取り上げて、初めて、自分がそれを引けないことに気付く。体の一部のごとくあったものたちが、突如として反乱を始めます。普通の作業が難しくなり、当たり前に出来ていたことが出来なくなり、人の手助けを必要とすることもある。じきに治ると分かっていても、今まで開かれていた世界から急に締め出しをくったように感じて、自分を心もとなく思うことがあります……曾様ばかりでなく父にも同じことを言われたことがあります。お前は何も分かっていない、と。私の行為は、持てる者の傲慢であり、哀れみであり、それゆえに無責任であると」
淡々とした口調は、しかし常にない緊張をはらんでいる。拳を握り締めたまま、顔を俯けて、喋り続ける日夏を前に巫人は言葉を挟めなかった。
「その通りかもしれないと思います。同情し、哀れんでいるだけなのかもしれない。知らず知らずの内に衍葵を傷つけていたのかもしれない……私は衍葵のことを、おそらく自分で思っていたほど知りはしない。だから―――」
「…日夏」
巫人が労わるように伸ばした手が届くまえに、日夏は顔を上げた。巫人の案に相違して、その顔に涙はなかった。
「だから知りたいのです。自分の気持ちも、衍葵の気持ちも…何も知らないまま、納得のゆかぬまま、衍葵を殺させるわけにはいかないのです」
そうと決めたものの瞳が真っ直ぐに巫人を見る。
決意ではない。己が正しくないと分かっているものに決意などない。だが迷いもない。
一途な瞳だと巫人は思った。この一途さは、果たしてこの先、那賀是に吉兆と凶兆の何れを運んでくるのか。
「勝手なことばかり言っている自覚はあります。私情で動いている事も承知の上です。ですが曾様には先に申し上げておきたかった…私は衍葵を殺させやしません」
歪みのない、直ぐな眼差しが宣言する。
「たとえ、それで曾様や父上…いえ部族全体を相手どることになろうとも」




