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右腕   作者: ばいばるす
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第五章 きずあと (2)

  焼け焦げた臭いが、鼻につく。大量の樹脂と獣脂を火にくべたような、なんとも嫌な臭いだった。

 風向きが変わるたびに灰が巻き上がり、煙が目に染みて視界が滲んだ。下生えが燃えて降り積もった地面は柔らかく、歩くそばから新雪のように沈んでは足跡を残していく。

 辺り一面、焼け野原だった。

 燃え残った草木や動物の死骸も、元の色は見る影もなく一様に黒い固まりと化して地面に散らばっている。かつては緑の裾野だった斜面のそこかしこにくすぶる残り火が、まるで鬼火のように揺らめいて見えた。

 皮肉なものだ、と日夏は思う。一年前、父である族長を相手どってまで立ちたかったこの場所に、いま誰にも咎められずに立っているというのに、ちっとも心は晴れない。

 (こうして見ると、案外と小さな山だな。神山というのは)

 近寄ることを許されない神聖なる禁足地は、それゆえに遠目にも大きく見えたものだ。いや、草原という平坦さに倦んだ目にとっては等しく、不毛の地平線をかぎる緑の小山には何かしら胸をつくものがあったのかもしれない。

 春の移動の季節の度、神山は緑に賑わいはじめたその姿で日夏等を迎えてくれた。十六年間、季節の繰るごと、その景観との再会と別れを繰り返してきた。自分が産まれるずっと昔からそこあった景観が、この先もずっと続いていくものだと思い込んでいた。


 日夏は腰に下げていた水筒を取り出すと、中身を地面にそそいだ。

 水は灰の降り積もった地面に降りかかり、点々と黒い染みを残して吸い込まれていく。陥没した水滴の跡を日夏は無言でみつめた。

 乾いた草原に生きるものにとって水は貴重な資源のひとつである。水源の確保は往々にして部族の抗争の種になるし、本式の祭儀ならば水は絶対に欠かせない装具の一つだ。葬送はその代表格であり、渇いた大地に生きた者が死してなお渇えることのないようにと、生者は死者に水を送るのだ。

 「誰を弔っておるのか」

 日夏は振り返った。

 「…曾様、いらしていたのですか。もう出歩いてよろしいのですか?」

 巫人は、この五日間というもの、ずっと床についていた。日夏や刹羅のように、物理的な傷を負ったわけではない巫人だったが、精神に負うものか、それとも神託という巫技を行った負担か、とにかく五日前の出来事いらい熱が下がらずにいた。

 「お主とて怪我人ではないか。そうそう動き回ってばかりいては治るものも治らぬぞ。利き腕が使えなくては、弓はおろか刀とて満足に扱えぬだろう。那賀是きってのじゃじゃ馬娘も、爪と牙をそがれては、この老い耄れと大差ない。これで少しは大人しくなってくれれば怪我の功名というものじゃがな」

 そういって巫人は布で釣った日夏の右手を目で示す。日夏もそれを追って自分の腕に視線を落とす。

 包帯の巻かれた右腕は、まだ力が入らず、動かすたびに痛みが走る。

 「この腕は、己の慢心と未熟の結果だと思っています」

 「止められると思うておったか?」

 「…はい」

 この五日間というもの、何度となく頭の中で反芻した情景が再びよみがえる。

 そこにいるのは、血塗れの刹羅であり、暴走した衍葵であり、その中にあって、あまりにも無力な自分であった。

 思い出すほどに、自分は自分に為しうることを十分に為してなどいなかったという気がしてならない。

 変えられたはずだった。止められたはずだった。もしもあの時ああしていれば、と無意味な仮定にとりつかれ、身をやくような悔恨を噛み締める。

 痛みを伴う映像を、繰り返し己に見続けることを強いるのは、ただ忘れないようにするためだ。

 衍葵が流した血を、喉をつぶさんばかりの異様な咆哮を、悲鳴を、無力だった自分とそれが招いた結果とを、等しく心に刻みつけ楔にしなければならない。もう二度と同じものを見ないために。

 「私が衍葵を止めなければならなかった。他の誰よりも私には、その責任があった。なぜなら私が衍葵を神山から助け出し、私だけが衍葵の友だったのだから」

 私だけが。

 それは慢心でも自意識過剰でもなく、この五日間という事後経過の末に抱かざるを得なかった実感だった。



 いま集落は恐怖と混乱と、一種の躁状態に揺れている。あの場にいなかった者までもが、あの日の出来事を自分なりに解釈し、これから起こるべくして起こることを見定めようと、真偽なかばの情報が入り乱れている。

 むろん、その噂の中心人物は、いま監禁状態にある「化物憑き」の衍葵だ。

 彼等は問う。

 ―――何が衍葵にとり憑き、衍葵の何をして憑き物を寄せ付けたのか? 神山を燃えたのも、やはり同じ理由のせいか? なぜ、襲われたのが他の誰でもなく刹羅様だったのか?

 彼等は言う。

 ―――衍葵は刹羅様を恨んでいたのではないだろうか。憎んでいたのではないだろうか。いや、きっと刹羅様だけではない。ひょっとして、部族のもの全員……

 ―――衍葵によくしてやっていた日夏だって、やられたんだ。俺達なんて言うに及ばずさ。

 ―――俺はあの時、衍葵を止めたんだ。刹羅様に止めの一撃をさそうという所をな。だから俺はあの腕にこめられた力を知っている。ためらいなんて微塵もなかったよ。信じられるか? 相手は父親だったんだぜ。いくら化け物にとり憑かれていたからって、なぁ?

 ――――――父親を殺したいほど恨むことだってある。それに、刹羅様は衍葵にとって、決して良い父ではなかった。

 ――――かわいそうな子よ。いつも一人だった。刹羅様のなさりようも衍葵には酷だったと思うわ。だから……あの子の気持ちも分からないではない。いつか、こんな事になるんじゃないかと。

 ―――ああ。人の目を、ちゃんと見ようとしない陰気な奴だった。得体のしれない所があった。腹の底で何を考えてたかなんて分からんさ。

 ―――神山が燃えたのにしたって…あいつは『成人の儀』を嫌がっていたっていうじゃないか。


 そういう会話が今の集落では、所を変え、人を変え、ひっきりなしに繰り返されている。推測の域を出ない、衍葵の内面に立ち入った勝手な憶測がまことしやかに囁かれ、全ての元凶は衍葵だったという向きになりつつある。

 じっさい一連の凶事には何かしら繋がりがあるのだろうが、そうでなくても全ての出来事を一つの原因で片付けたいと思うのが人なのだろう。

 彼等は、まさにそれを衍葵に見出し、確たる証拠もなく神山炎上の責任までもを衍葵に負わせようとしている。衍葵にも同情の余地はあるという意見にしても、衍葵元凶説を下地にしているという点ではなんら変わりはない。

 それをもって彼等を責めることはできない。また自分にはその資格もないと日夏は思う。自分自身、他の人間に負けず劣らず、この一件に関しては冷静を保てず客観性を見失っている。

 そもそも自分さえ衍葵を連れ帰ってこなければ、集落の皆が危険に晒されることもなく、刹羅が怪我をすることはなかった。これは事実だ。衍葵を助けにいったことを後悔することはないが、自分が負った責任を果たせなかったことは確かだ。

 しかし、それでもと思わずにはいられない。

 彼等が衍葵を語る口調は、中傷にしろ同情にしろ、あくまでも他人のものだ。他の誰か、自分達ではない誰か、もはや衍葵ではなくなった誰かを前提にした物言いは、ついこの間まで一緒に暮らしてきた衍葵を、もはや同じ部族民とは見ていない。

 そこに画された一線は、脅えであったり、憤りであったり、さまざまだが、全て部族会議が衍葵に下すだろう処罰を前倒しに受け入れたものだ。

 曰く、日夏と刹羅様を傷つけた衍葵は、決して許されることがないだろう。また、許されるべきでもない。



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