第五章 きずあと (1)
「手早く済ませろよ。交代が来ないうちに。それと――――――」
見張り番は執拗に念を押したいようだった。
「ああ。分かってる。約束は守るさ。脅迫めいたことをするのも、これが最初で最後だ。例の事は、誰にもばらしたりなんかしないし、これ一回きり、二度と持ち出したりしない。ここから出てくる頃には、綺麗さっぱり忘れてるさ」
見張り番の渋面をよそに、薙は天幕の垂れ布をくぐった。
まだ日も高いというのに、締め切られた天幕の中はほの暗く、空気は重苦しく滞っていた。天幕の内布にそって補強用の柵がぐるりと張り巡らされている他には、炉も家具もなく、地面すらむき出しの殺風景さは、そこが通常の天幕ではないという事を誇示しているようだった。
何もない空間の中央に打ち込まれた太い杭には、後ろ手に縛り付けられている人間がいる。
縛り付けられたまま、両足を地面に投げ出して、首を肩に預けている姿は、一見して眠っているようにもみえた。記憶にあるものよりもその体は、ひと回り痩せたように思えた。
「おい」
声を投げかけると、灰褐色の前髪が揺らぎ、ゆっくりと頭が持ち上がる。その前髪からのぞく、面変わりのあまりの激しさに薙は、ぎくりと足を止めた。
削げた頬、ひび割れた唇、振り乱れた髪。古い、血と汗の臭いが鼻につく。監禁状態というのは、これほどまでに人を荒廃させるものだろうか。
薙を見返してきたのは、感情の風化しきった二つの空洞だった。これまで薙を苛立たせてきた脅えも卑屈も、何一つ見当たらない、すべてが消え失せたかのような二つ穴は薙を映しても何の反応も見せなかった。
虚をつかれ立ち尽くすこと暫く、薙は咽を鳴らして、ようやく声帯の機能を取り戻した。
「……その、なんだ。元気か?」口に出してから、自分の言葉の馬鹿馬鹿しさに気付く。「って、元気なわけないか。何言ってるんだろうな、俺」
無意味な言葉で沈黙を埋める中、ふと衍葵の足元の食器に気付く。碗の中には、手をつけられないままの食事がそっくりそのまま残っていた。少なくとも、食事は与えられているというわけか。
「食わないのか?……あ、手を縛られてたら食えるわけないよな。あいつら何考えてるんだ」
憤慨して天幕の外にその旨を伝えるが、返ってきた見張り番の声が言うには、
「無駄だ。この三日というもの、そいつは食い物ひとかけら、飲み物一口だって口にしてない。口元までもってったって口に入れようとしないんだから、仕方ないさ……多分、もう食う必要もないんだろう。少なくとも、人間の食い物はさ」
あまりといえばあまりな物言いだったが、実をいえば薙自身、見張り番と同じ考えが脳裏をかすめたがゆえに、その言い様を責めることは出来なかった。
しかし、衍葵の衰弱ぶりを見る限り、何も食わなくとも平気というわけではないだろう。
「そうでなくとも、情けない体格してるお前が、絶食なんかしても骸骨になるだけだぞ」
やはり返事はない。
「いっとくが、俺は別にお前を心配していわけじゃないからな。ここに来たのは、あの夜、神山で何があったのか、それを―――――」
「薙」
咽に絡んだ、低い声に、話しの途中で遮られた薙は、その事も忘れて押し黙った。あの夜以来、初めて聞く衍葵の声は、想像していたものよりも随分と平坦に響いた。
「出ていってくれ」
そう告げる声は硬く冷たく、取り付く島もなかった。一方的に拒絶された薙は、しばらくは何を言われたのか理解できず、従って反応を示すことが出来なかった。だが、やがて相手の言葉が脳裏に浸透していき、自分がどういう種類のあしらいを受けたのかを理解する。
「……出てけ、だと?今、出てけっつったか」
ずかずかと一気に距離をつめて、怒りにまかせて相手の胸倉を掴みあげる。
「こっちが、気を使って下手にでてりゃ、いい気になりやがって。てめぇ、一体、何様のつもりだ」
薙の激昂に、「お願いだ」と衍葵は力なく繰り返す。
「僕の近寄らないほうがいい。分からないんだ、自分でも。何をしてしまうか。僕は……危険だ」
「ふざけるな。なんだ、それは? 脅しのつもりか? 部族きっての臆病者が、たかだか一本や二本、新しい腕を生やしたからって、大層な口をきくもんだな」
「………」
「どうしたよ。変なものに憑かれてるんだろ? 腹が立ったんなら、あの夜みたいに奇声を上げて暴れてみればいい。そしたら、俺なんてわけないだろう。え? この化物憑きが」
挑発はしかし、何の反応も引き出すことはできなかった。襟元を絞り上げても、抵抗の気配はなく、木偶に掴みかかっているような気がした。生気のない灰緑色の目は、薙を見ているようでいて、そのじつ何も見ていない。
「話すべきことはもう話した。聞きたいことがあるなら、その人達に聞けばいい」
拳を振りかぶる自分を止めることが出来なかった。いつかのようにそれをすんでで止める事はなく、薙は感情のまま、衍葵の左頬にそれを振り下ろした。鈍い手ごたえがあった。傾いだ衍葵の顔を襟首ごと引き戻し、ふたたび自分に向けさせる。
「ふざけるな!お前。あれだけのことを仕出かしておいて、言うことはそれだけかよ」
平坦な声が、同じ言葉を繰り返す。
「気が済んだんなら、出てってくれ」
薙はもう一度、衍葵は殴り飛ばした。
二度、三度、殴る拳が痛くなるほど殴打を繰り返し、衍葵の襟首を締め付け、力任せに背後の杭に叩きつける。
「お前のせいで、何人怪我したと思ってるんだ。刹羅様だって、日夏だって……糞!神山が燃えているのが分かったとき、日夏がどれだけ心配したんだと思っていやがる。あいつは一人で神山にお前を助けに飛び込んでったんだぞ。止めるのも聞かず、自分の成人の儀の時さえ破らなかった禁を破って、炎の中に、だ。それを、お前は…!」
衍葵が顔をそらす。それを許さず、無理矢理自分に向きなおさせると、感情のなかった瞳にわずかな波紋が見て取れた。どうやら、まるで廃人になったというわけではないらしい。
「…な、つは」
「聞こえねぇな」
「……日夏は」平坦な声は変わらない。「日夏の傷は…」
「腱はやられてないが、傷跡は残るだろうな。一生」
わずかに揺らいだように見えた衍葵の表情を、薙は冷然と見下ろした。同情は微塵も感じなかった。少なくともこの一件に関してばかりは、こいつにその余地はない。顔をそらすことは許さないと思った。目をそむけることも。
「お前が父親につけた傷はもっとひどい。利き腕はもう使い物にならないそうだ。戦士として、刹羅様はもう終わりだ」
「………」
「満足か? お前は刹羅様を憎んでいたんだろう? 憎い相手を、自分と同じ不具に出来て満足か?」
ひどく残酷なことを言っている自覚はあった。
「満足かって聞いてるんだっ!」
衍葵は答えない。涙一つ、嗚咽一つ、こぼれなかった。
覗きこむと、その灰緑色の目は再びうろに戻っていた。それを見て薙は悟る。これは、こいつの自衛手段なのだ。外界から己を遮断し、殻に閉じこもることで、自分を守ろうとしているのだ。自分を殺すことで、自分を守ろうとしている。
薙は舌打ちをする。こいつは、ただ弱いだけじゃない。卑怯だ。他でもない自分の弱さが招いた事態をすら、直視することが出来ず、こうして逃げの一手で頬っかむり。
心を閉ざし、自分を殺せば、それで責任がなくなるとでもいうのか。自分が傷ついているから、それで自分が他に負わせた傷を忘れてもいいのか。弱ければ、逃げ出してもいいというのか。
薙が手を放すと、衍葵はつっかいぼうを失ったように崩れ落ちた。その死んだ目を見ながら、こいつは本当に木偶になってしまったのだと思った。衍葵は悪いものに食い荒らされて、もうその中身はいくらも残っていない。
「…これじゃあ、日夏がいい面の皮だ」
喉に異物感があって、吐き捨ててしまいたい気分だった。
「あいつは、あんな目に合わされても、まだこりずに、部族会議が少しでもお前に有利に運ぶよう駆けずりまわってる。でも、お前がこれじゃ、そんな努力、滑稽なだけだ。お前は、ここから出たいとか、生きたいとか、これっぽっちも思っちゃいないんだから……馬鹿だ、あいつ」
俺も。
馬鹿だと薙は思った。
俺の言葉は、こいつの上を滑って、その核心には届かない。やることなすこと空回りばかりで、自分の馬鹿さ加減に吐き気がする。こんな事を言いたくて来たわけじゃない。
だが、どうだ。出てくる言葉はどれも衍葵を傷つけるために周到に準備されたものばかり。それすらも、うろのような瞳に吸い込まれて衍葵にたどり着くことはない。
「本当に、馬鹿だ」
「……ごめん」投げ捨てられた態勢のまま、衍葵は僅かにみじろぎした。「薙、ごめん。日夏にも…」
「謝るな!」
びくり、と衍葵が震える。
「おまえに、謝る資格なんてない」
俺は無力だ。無力であるということにかけては、俺も衍葵と大した違いがあるわけではない。
「日夏に何か言いたいことがあるなら、面と向かって自分で言えっ! 俺は、おまえの使い走りじゃない」
そういい捨てて、薙は天幕を飛び出した。




