第四章 災厄の招き手 (3)
『衍葵が戻ったと聞いたが』
刹羅様は、人だかりの外から、確かそんな事を言った。声に動揺が見られたのは、あるいは気のせいであったかもしれない。しかし、衍葵の肩がびくん、と跳ね上がるのを見たのは気のせいではなかった。
『・・・あ』
それは最初はかすれた声だった。
『あああああぁぁぁぁぁっ!!』
悲鳴とも咆哮ともつかぬ絶叫が衍葵の口からほとばしるや否や、丸めた背中がさらにばねのように曲がり、鉤爪の形をした両手の指が大地に喰い込み、踏み切る。まとわりつく日夏をものともせずに、矢のごとく飛び出した衍葵は、遠巻きにする人だかりを突き飛ばし、薙ぎ払い、とても人とは思えない速さ、動きで跳躍を繰り返して、目指す人間に迫る。
ほぼ直線を描く衍葵の進行方向には、状況を把握出来ていない刹羅がいた。
悲鳴のような咆哮がやまない。剣技も何もない、獣の動作で、手に持った刃を、高く飛び上がった上空から、我が身もろとも叩きつける。
刹羅が刀を抜いて、それに応じ、ぎぃん、と鈍い音が暗夜に響き渡った。
血の飛沫と折れた剣先が宙に舞った。
その果てに薙達が見たものは、刹羅に馬乗りになった衍葵と、彼の手に握られ、刹羅の肩に深々と突き立てられた小刀の柄だった。信じがたいことに、激突で折れたのは、儀式用の小刀ではなく、刹羅の刀の方だった。
衍葵は小刀を引き抜き、一度は仕損じた急所をめがけて、なおも振りかぶった。
『衍葵っ!』
追いついた日夏がそれを止めようと割り込む。先ほどは、日夏の静止で止まったはずの衍葵は、この時、割り込んでくる彼女にすら横凪の一撃を飛ばした。
切っ先をそらすために半ば自分から飛んだとはいえ、斬撃を受けて吹き飛んだ日夏には目もくれず、衍葵の凶刃は迷わず、再び刹羅を向けられようとする。
だが、そこに生じた一瞬の隙に、薙は後ろから衍葵に組み付いた。
『う、あああああああぁぁっ』
声帯を壊さんばかりの異様な叫声を間近に聞く。衍葵を後ろから羽交い絞めにしたものの、それを振りほどこうとする衍葵の力は、尋常ではなかった。部族の男達が加勢してくれなかったら、恐らくは数秒も持たなかったに違いない。
動きを封じられた衍葵はそれでも尚、手負いの獣のごとく暴れまわり、結局、態勢を立て直した日夏の手刀が、その首に打ち込まれて気を失うまで大人しくなる事はなかった。
刹羅様は、言葉もなく、また折れた刀を手放す事もせず、ただ見開いた目で自分の上からどかされる衍葵を見ていた。その肩口から衣服が血に染まり、赤い色がじわじわと広がっていく。
振り返って、気を失った衍葵を見ると、今しがたの凶行が嘘のような、見慣れた顔がそこにあった。しかし、嘘ではない証拠に、その気弱気な顔には、返り血の飛沫が点々と跡をつけて残っている。
刹羅と衍葵が運ばれていっても尚、薙はそこに立ち尽くしていた。頭の芯がじんじんんと痺れ、心も体も飽和状態だった。
『日夏!大丈夫か』
誰かが上げたその声を聞いて薙は我に返る。
『ああ。かすり傷だ。腱はやられてない』
先ほどのもみあいの最中に、負った傷だ。抑えた腕の傷口から、血がぽたぽたと腕を伝い、指の先から地面に滴っている。口でいう程、浅い傷ではなかった。
ようやく、その時になって悪寒がやってきた。
自ら後方に飛んでこの傷なら、まとも受けていたなら、どうなっていたというのだろう?衍葵の獲物が小刀でなかったのなら、どうなっていたのだろう?相手が日夏や刹羅様でなかったのなら、果たして怪我だけで済んだだろうか?
そんな仮定は無意味だと知っていたが、それでも否定しがたい事実を薙に気付かせた。
衍葵、あいつは、刹羅様を殺そうとした。そして、それを阻むものは、誰であろうと、日夏であろうと殺しても構わないつもりだった。少なくとも、あの斬撃は何の躊躇も手加減もなしに日夏に放たれた。
胃の腑の奥から這い上がってくる何かが、怒りなのかそれ以外の感情なのかは分からなかった。それが衍葵に向けられたものなのか、あるいはその中にあってただ翻弄されるばかりだった自分に向けられたものだったのかも、分からない。ただ、敗北感だけが、強く残った。
(俺は、何も出来なかった)
薙は拳を握り締める。
あの日以来、刹羅様は臥せったままだが、噂に寄ると、その左肩より先は神経をやられていて、治癒しても元どおりに動く事はないのだと聞く。日夏の怪我は、それに比べれば浅く、包帯を巻きつけ片腕を釣った姿は痛々しいが、本人の申告どおり、幸いにも腱はやられいなかったため、直に癒えるだろうとの事だった。
しかし、それでも、傷跡は残る。それを日夏が気にする事はないだろうが、仮にも日夏は女性であり、嫁入り前の女性の体に傷跡が残るという事を軽々しく考えることは出来ない。
そして、薙はずっと日夏と行動を共にし、一部始終を目の当たりにしていたにも関わらず、彼女を守れなかった。それどころか、最後の最後になるまでは、気を呑まれて、動けずにいた。一連の事件のもっとも間近な傍観者。それが薙が自分自身に下した評価だった。
当然の話だが衍葵はあれ以来、拘束監禁を余儀なくされている。そして今、その処置を決めるに当たって、部族会議が開かれている。大天幕の中では、連日、部族の男達が集まって何かを協議しているが、その中で何が話されているのかを薙達が知ることはない。最終決定が下されるまでは、その詳細については立席者に、厳しい緘口令が敷かれているためだ。
「今日からは、父様も参席すると言っていたわ。まだ、熱が下がってはいないみたいだけれど」
凛音は、自分の父と兄に関する事だというのに、まるで他人事のようだ。無論、彼女は一部始終を目撃したわけではなく、伝聞で事情を知った訳だが、この不自然なまでの距離の置き方はどうだろう。
それまでの薙ならば、自分の事を棚に上げて薄情と詰ったかもしれないが、今はそこに凛音の心の微妙なひずみを見るような思いだった。
そう、ひずみはきっと最初から存在していた。衍葵に。刹羅様に。色々な人間の心の中に。ただ、自分にはそれが見えていなかった。そういうことなのかも知れないと今は思う。
「いい加減、元気出しなさいよ。湿っぽく考え込んでるのなんて薙らしくないよ」
そう、凛音の言う通りだ。悩むのは自分の流儀じゃない。これでは、それこそ衍葵の事を言えた立場ではない。
日夏に顔を合わせづらいと感じるのなら、なおさらのこと、逃げずに正面きって会ってみることだ。どんな言葉をかけたら、などという事は、まずは自分をその場に置いてから考えればいい。衍葵が今どうしているのか、部族会議の動向がどうなっているのか、知りたければ、何よりもまず己自ら動かねば始まらない。それでこそ、凛音の悪口雑言に足る猪突猛進の単純馬鹿に相応しいやり方ではないか。
「凛音、お前もたまにはいい事いうな。お蔭ですこし吹っ切れた」
足についた土ぼこりを払い、立ち上がると、少し視界が開けた気がした。薙の豹変振りが飲み込めない凛音は「ちょっと、どこいくの」と抗議の声を上げるが、その時にはもう薙は馬に向かって駆け出していた。
「待ちなさいよ。感謝しているなら、ちゃんと最後まで説明していきなさいよ!」
鐙に足をかけ、馬の背に飛び乗って初めて、薙は大声を放って返す。
「集落に戻る!」
「だからっ――――」
結局、凛音は呼吸を無駄にする愚を悟り、複雑な心境で、小さくなっていく人馬の姿を見守った。薙を励ましたのが果たして正解だったのかどうか、それを彼女は考えていた。




