第四章 災厄の招き手 (2)
「それで、どうなったの?」
無邪気な凛音の反応がうらめしい。
事後に説明された凛音と違って、薙は当事者である。まず神山が燃え、日夏を追いかけて山に入り、腕を生やした衍葵の姿を発見し、ほうほうのていで集落に戻れば、部族の神事を司る巫人が、その衍葵にやおら不吉な託宣をくだし、刃を振り上げたのだ。日夏までをも巻き込んで。
まさに想像だにしない展開の連続であり、しかも、今、思い返してみるだに、それとて一連の事件のほんの始まりに過ぎなかったのだ。
魑魅魍魎、災厄、穢れ・・・次々と巫人の口からほとばしりでる禍々しい言葉の羅列に気圧されて、あの時は巫人が何を言っているのか正直分からなかった。全てが吹きすぎた今になって、ようやくこう言うことが出来る。あの右腕は、神山に炎を呼んだのかどうかはともかく、確かに災厄の招き手には違いなかった。
それで、と急かす凛音に、薙はため息をつく。
「衍葵の右腕はまだくっついてるんだから、想像できるだろ」
そう、いつまで経っても、血は大地を濡らさなかった。凶刃を止めたのは、日夏ではなく、巫人でもなく、衍葵本人だった。より正確を期せば、止めたのは衍葵の右手だ。
『・・・だ』
ゆらり、と衍葵が起き上がる。夢遊病者のような頼りない動きであったのに、つかまれた巫人はその右手を振りほどけずにいた。やがて、巫人の手から小刀が落ち、衍葵の足下に落ちた。
『・・・あいつは、どこだ』
それは衍葵の声でありながら衍葵のものではないようだ。衍葵が人形のようなぎこちない動作で、地面に落ちた小刀を拾い上げる。
『あいつ、だ……ようやく、見つけた、ようやく』
うわごとのように、衍葵はそうくり返す。深くこごった声の響きは、繰り返すうちに熱を取り戻していくように、そこから激情を帯びていく。うめく巫人を一瞥もすることなく、衍葵は自分を取り囲む人間たちに顔を上げた。
遠巻きにする人だかりを睥睨する目に、もはや気弱な少年の面影は見て取れない。
怒りに塗りつぶされ、激情に煮つまった目は、その場にいる誰をも見ていなかった。
巫人も、薙も、日夏をもさえ、他の部族民と十把一からげに素通りする目は、何かを探すように、右に左に動き、焦燥を深めていく。
限界まで引き絞られた弓弦のように、定まらない、ぶれる視線に、ただならぬものを感じて人の輪はじりじりと後ずさりしていった。
『ど、どうしたっていうんだ。衍葵』
『そうよ。落ち着いて。あなたは今、神山から戻ったばかりで混乱しているのよ』
こいつらは、何を言っているんだ。薙は思った。
これが衍葵に見えるのか。まるで俺たちを認識してない、この猛り狂った目が、衍葵のものに見えるのか、と。
それに、もう一つ、奇妙に思ったことがある。確かにその目に脅えるのは分かる。腕一本余計についた他には、物理的に何が変わったわけでもない衍葵だったが、その目には、人をすくませる何かがあった。薙自身、知らぬうちに掌と背中にべっとりと汗をかいていたほどだ。
それでも、彼らの声に潜むおもねるような響きは解せない。未知のもの、怖れるものに本能的にへつらうというのが人間の習性といえばそれまでだが、彼らのそれは、もっと実態のある、どこかしらあざとい媚のようなものが感じ取れた。
『衍葵、大丈夫よ。おちついて』
言葉とは裏腹に、その声は硬く、大丈夫だと衍葵に呼びかけるいう声の主は、決して人の群れから前へ進み出ることがない。いずれにせよ、その声が衍葵に届く事はなかった。
『答えろっ! あの女は、どこだ!! どこにいる』
狂騒に駆られた衍葵は吼える。
衍葵のいう所の、あいつ、あの女が誰なのか、薙には見当もつかなかったが、巫人には心当たりでもあったのだろうか。巫人の顔から、先ほどの神がかりの激しさが消えていき、脅えとも恐怖ともつかぬ感情にゆがんでいく。
『気をしっかりもて、衍葵。お前のいう、あの人はもういない。お前は、悪いものに憑かれ、我を失っておるのだ』
さっきまでは、衍葵に憑いた悪いものに向けられていたはずの言葉は、今は衍葵本人に向けられている。衍葵の視線が手元の巫人に落ちる。
『いない?』
『そうだ。もう、いないのだ。お前は、それを乗り越えたはずだ。納得したはずだ。あれは不可抗力だった。誰も恨んではならない。そうだろう?お前は、誰も恨んでなどいない。そうでなければ、誰よりもまず、お前自身が苦しむ羽目となる。誰も恨まず、遺恨を引きずらず、それが誰にとっても―――――』
『黙れ』
急速に衍葵の顔が歪んでいく。巫人の手を宙に引きずり上げ、無理やり自分にむけさせる。
『いなくなってなどない。いなくなって、たまるか。あいつも、俺も。まだ、だ・・・・まだ、何も、何一つ、終わってなんかいない』
荒い呼吸。むき出しの敵意、憤怒、焦燥。そんな表情をした衍葵は、顔の造作すら違ってしまったようで、まるで別の人間に見えた。
そんな衍葵の中のどこに、衍葵を見出したというのだろう?巫人は尚も言葉を連ねる。ほとんど、哀願のような口調で。
『確かに、辛い出来事だっただろう。幼いお前にはことさらに。だが、お前は、それでも、ちゃんと、納得して、受け入れて――――――』
『黙れっ!』
押し黙った巫人に、衍葵は噛み付かんばかりに、顔をよせた。
『貴様は、何だ? 何者だ? なぜ、こんなにも俺を苛つかせる? 何もかも、知った風な口を利く?全てを決め付け、俺の代わりに結論を出そうとする? 答えろ、老い耄れ。なぜ、貴様の言葉は俺をこうも苛立たせる?』
『……え、衍葵』
衍葵は巫人を地面に放り出し、小刀を握りなおした。
『貴様は、不愉快だ』
衍葵は吐き捨てる。
今まさに振り下ろされようとする小刀の下で、巫人は動けない。
先ほどの情景が人物を置き換えて繰り返される。日夏が割って入るところまでそのままに、しかし襲撃者と被襲撃者が逆転して、奇しくも凶刃は二度その行方を阻まれる運びとなった。
背中に巫人をかばい、日夏は衍葵に立ちふさがり、その手首ごと斬撃を押しとどめた。
『衍葵っ!』
衍葵の体が遠目にも分かるほどに、びくりと飛び上がる。張りつめた瞳にわずかな撓みが生じ、刃ごしの日夏を映して、波打った。
『しっかりしろ、自分を見失うな。これはお前じゃない。お前の怒りでもない。引きずられるな』
『……あ』
決壊する。
見開かれたままの灰緑色の瞳から、涙が滂沱と溢れ出し、あれほど衍葵をを駆り立てていた激情を洗い流していく。小刀をもった衍葵の腕が、がたがたと震えはじめる。
『……ひ、なつ』
『そうだ、日夏だ。私が分かるな。衍葵』
ゆっくりと、日夏は衍葵の手首を解放する。そうすると、まるでつっかい棒を失ったように、衍葵の体が傾ぎ、その場に崩れ落ちた。
『・・・・あ、あ・・・俺は・・・僕は』
『大丈夫だ。曾様も、私も無事だ』
衍葵は嗚咽をもらした。
四つん這いになって身を丸め、左手を鉤爪のように地面に食い込ませ、衍葵はもがく。歯ぎしりの音がすれて聞こえた。
『・・に・・・にげ・・・日夏、巫人様』
『貴様、よくも・・・』
どちらも、切れ切れの呼吸の中で、かろうじて聞き取れた衍葵の言葉だった。まるで衍葵と衍葵でないものが、衍葵の内部でせめぎあっているような奇妙な光景だった。のっとられた、という巫人の言葉を薙は思い出した。
もはや聞き取れない呻き声を続ける衍葵に、日夏は歩み寄り、その右手から小刀を奪おうとする。だがそうはならなかった。
衍葵の父親、刹羅が、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきたからだ。




