第四章 災厄の招き手 (1)
紺碧の空に、白い綿雲がぽっかりと浮かんでいる。剥き出しの肌を洗う風は心地よく、頬をくすぐる草の調べに耳を傾ければ、すぐにでも、うとうとしてきそうな昼下がりの午後。
しかし、四肢を大地に投げ出し、そのような牧歌的な静寂の中にわが身を置いても、薙の心が立ち返る場所は同じだった。
目を閉じれば、今でも瞼の裏に炎の残影を見つけられる。そう、今とて山火事が完全に鎮火した訳ではなく、神山の方角を向けば細くたなびくいく筋もの煙を見つける事になるだろう。
集落に戻れば尚、悪い。折角の日和を台無しにしかねない陰気な面相の族民達が肩を寄せ合って、五日前の出来事と部族会議の行方を論じ合っているに違いないのだ。それに耐えかねて飛び出して来たものの、結局は心が向かう先は変わらないということを再確認するだけの結果になってしまった。
「・・・衍葵、か」
以前はその名を耳にするたびに苛立ちを覚えたものだが、今、口にして見ると、その名は何とも言えない後味の悪さを残した。彼らしくもなく、鬱々とした気分をかこって、薙はため息をついた。
「衍葵が、どうしたの?」
突如として、頭上から降って沸いた声に、薙は飛び上がらんばかりに驚いた。思わず、上体を跳ね起こし、心臓に悪い乱入者に声を上げる。
「凛音っ!何で、お前がここにいるっ」
「失礼ね。薙を心配して追いかけてきたんじゃないの」
「つけてきたのかよ」
「人聞きが悪い・・・それより、何?私の気配にも気付かないほど、一心不乱に衍葵の事考えてたの?日夏の事、じゃなくて」
しゃらん、と髪飾りの音を鳴らして、凛音は薙の隣に腰を下ろす。
彼女の言葉をいちいちまともに取り合うのは愚の骨頂と知りつつも、つい、「別に誰の心配もしていない」と応じている自分がいた。
「誰も心配しているなんて言ってないよ。考えてるのって、聞いただけだよ」
「うるさい」
くすくすと凛音が笑う。
笑うたびに、しゃらしゃら、とその髪飾りが音を立てて薙を落ち着かない気分にさせる。凛音は、赤の羽織と腰巻、下ろし髪に金鎖を幾房もあしらった、年頃の少女らしい華やかな装いに身を包んでいる。
こんな風な衣装を身につけていては狩りは出来ないだろうなと思う傍ら、似合っていると認めざるを得ないのも事実だった。もっとも、それを口に出してつたえることは薙にとっては敗北宣言に等しい。なにに対しての敗北なのか、それは薙にも分からない。
「それで?何があったの?あの夜」
薙は肩をすくめる。
「結局、お前も野次馬根性か」
正直な話、集落の人間たちの質問攻めには閉口している。事件の一部始終を目撃していたもう一人の当事者、日夏は族長の娘である以前に例の一件で負傷した怪我人であるり、目下、薙一人が質問の矢面に立たされているといっていい。
「集落の皆に例の一件の話を聞いても、人によって話がまちまちだったり、食い違ったりで。それよりも、最初から最後まで間近で見ていた薙から直接きいた方が確実だし、面白いかなって」
「面白いって……」
薙は顔をしかめる。
「不謹慎な事、言うなよ。怪我人が出てるんだぞ」
「あら。薙にそんな事言われたくないわ。薙だって、衍葵の事いじめてたじゃない。それが、衍葵があんな事になっちゃったからって、急に掌を返したように、今度は心配? 馬鹿みたい」
自分でも自分の心境の変化を戸惑っていただけに、この指摘は痛かった。別に衍葵の心配をしている訳ではないのだが、不思議と以前のような直球の怒りはわいてこない。
衍葵のせいで日夏と刹羅様が負傷した以上、本来なら自分が衍葵糾弾の急先鋒に立っていてもおかしくはなかった筈なのだ。では、なんなのかと問われると、答えに迷うのだが、集落の一部の者の言うように、全てが衍葵のせいだったという論調には組しかねた。
むろん衍葵に責任がなかったとは思わないし、怒るには怒っているのだが、その一方で名前のつけられない感情が心の片隅にわだかまっている。
「それとも罪悪感、感じてるの?衍葵があんな風になっちゃった原因が自分だったと思ってる?」
心の内を見透かされた思いだった。
思わず相手を睨み返すも、凛音は動じず、甜としたものだ。
辛辣な事を飄々(ひょうほよう)と言ってのけるこの年下の少女が、薙は苦手だった。口が立ち、しかもうるさい人間には勝てない。
なお不幸なことに、薙が凛音に抱く苦手意識はあくまでも一方通行のものであり、凛音にとって薙はどうやら、かまうべき存在であったらしいということだ。
しかし、厄介なのに捕まってしまったと思う一方で、ここで打ち明けてしまえば少しは気が楽になるかもしれないという気持ちもある。そもそも、こんな風に一人で悶々としているのが、薙は大の苦手だった。
ぐるぐると、頭の中で堂々巡りする思考を誰かに打ち明けてしまえば、少しは楽になるのだろうか。
「・・・俺、あいつに、言っちまったんだ」
「何を?」
「臆病者とか、腕なし、だとか。他にも色々・・・あいつの成人の儀の前に」
「それって、いつも言ってる事じゃないの?」
何を馬鹿な事をとでも言いたげに、凛音は身も蓋もなく、そう応じた。普段の薙であればそこで腹をたてて口を閉ざしそうなものだったが、この時ばかりは、「お前なぁ」と上げかけた抗議の声も呑み込んで、悄然と続ける。
「でも、さ。ほら、曾様も言ってたじゃないか。邪は何もない所には取り付いたりしない。そこに素地があり、土壌があるからこそ、付け入る余地があるんだって。そして、衍葵は、あの神山で悪いものに捕らわれた・・・・・別に、全部が全部、俺のせいだなんて思ってる訳じゃない。でも、思っちまうんだ。もし、あの夜。せめて、あの夜、俺があんな事を言わなかったら、何かが変わってたんだろうかって。神山も燃えず、衍葵も以前通り、刹羅様や日夏も・・・・」
薙は、自分の顔が不本意に歪んでいくのを感じて、顔を伏せた。
一人で考えていた時はそうでもなかったのに、こうして口に出して誰かに話した途端、心が脆くなったように感じるのは何故だろう。自分は、もっと強い人間のはずだ。だが、自分は何か一つでも出来ただろうか?刹羅様が襲われとき、日夏が斬られたとき、何か一つでも止められただろうか?
止められはしなかった。そう、自分はあの一件の当事者などではない。もっとも間近で見ていただけの、ただの傍観者だ。
「まったく、重症ね。猪突猛進、単純馬鹿の薙が、こんなになるなんて。大体、罪悪感覚えるぐらいなら、初めから衍葵を苛めなきゃいいのに」
「お前な。こっちは真面目に―――――」
「でも、薙のせいじゃないよ」
ふいに、凛音が真顔になったので、薙は口に出しかけた言葉を途中で失った。凛音は体をよじって薙を覗き込み、自分の瞳に薙の瞳を映しこむ。強い光を宿した栗色の眼差しがもう一度同じ言葉を繰り返す。薙のせいじゃない。
「―――――って日夏ならきっとそう言うよ」
「なんで、そこに日夏が出てくるんだ」
正直、日夏の事を考えるのは、今は少し辛い。動くべき時に動けず、守ると決めた人間に傷を負わせてしまった自分が、どの面を下げてその本人と向き合えるというのだろう。
「悪いものが好む土壌。薙がいうように、確かに衍葵は、心の裡にそんな場所をかこっていたのかもしれない。でも、それは衍葵自身が作り出した場所よ。衍葵が何か悪いものに取り憑かれたとしそれは他の誰でもない衍葵の心の弱さのせい。外部からの干渉は原因の一端になり得ても、決して主因じゃない。邪であろうと何であろうと、それを受け入れたのは衍葵。刹羅様や日夏にあんな事をしたのも、衍葵。あなたじゃない」
違う。日夏なら、きっとそうは言わない。これは、凛音の言葉だ。薙を励まそうする、また自身、己の言葉を信じている凛音の言葉だ。薙もまたその意見に異論がある訳ではない。ただ・・・
「ずいぶんと冷たいんだな。衍葵はお前の兄貴だろうに」
反論したくなる。自分でも自分の心の乱れが分からない。これでは、まるで、衍葵に同情しているみたいではないか。
日夏は肩をすくめる。
「兄といっても、一歳も離れていないけれどね。それに、兄なら他にもいるし、兄だからって、何が特別なわけでもないわ。ましてや、繋がってるのは半分だけ、まともに話したこともない異母兄妹よ。正直な話、私、衍葵がああなったと聞いても、別に驚きはしなかったわ。ついに、溜まっていたものが弾けちゃったかって、そんな感じ。でも、日夏はともかく父様の怪我は自業自得よ。だって、衍葵がああなったのには父様にも責めがある。ずっと衍葵を無視し続けてきたんですもの」
言われてみれば、確かに刹羅様は衍葵に対して、いつも冷たかったと薙は考える。
不肖の息子であるという事を差し引いても、刹羅の衍葵に対する態度はやはり不自然に思える。何故かなどと深く考える事はなかったが、今にして思えば、衍葵に距離を置いていたのは、何も刹羅様ばかりではない。部族の大人達は多かれ少なかれ同じだ。どこか、衍葵を避ける雰囲気が部族全体に存在していた。
今、初めて、衍葵の心の裡に思いを馳せる。
父親に疎まれ、部族の者に遠巻きにされ、自分を始めとする同年代の少年からは蔑まれ、こうなってしまっても実の妹にすら心配のされる事のない。そんな環境にあるという事は、一体どういう気持ちがするものなのだろうか?
薙が知っている衍葵は、心身共に軟弱な少年だ。他者におもねるような笑いも、人の顔を真っ向から見ようとしないところも、そのいちいちが癇にさわった。
挑発にも暴力にも抵抗一つしない、されるがままの投げやりな態度は、むしろ弱者という立場を逆手にとった一種の示威行動なのではないかとすら思えてくるほどだ。
衍葵は薙の戦士としての美意識からもっとも遠いところに位置している。
弱いのは仕方がない。負けるのは仕方ない。しかし、あいつは立ち向かおうとすらしない。最初から諦めているのだ。何もせず、何もしようとせず、最初から敗北を受け入れ、それに甘んじている。
そのくせ、自分ばかりが辛い目にあっているような被害者面をして、周囲の同情を誘うだけは一人前だ。衍葵のあり様が薙の目には、軟弱と映る。卑怯と映る。しかし、自分を苛つかせたそれらの衍葵達が、あの三日前の夜の衍葵の姿に重なった時、なぜか胸に痛みが点るのだ。
薙が腕なしと呼んではばからなかった衍葵は、もはやその蔑称を冠する事はなだろう。
薙が、炎の神山で見つけた衍葵は、無傷はおろか、欠けた右腕を生やした姿でそこにいた。自分の目で見たのでないのなら、到底信じられなかっただろう。しかし、薙はそれを見、触り、確かめた。わずかな継ぎ目の他には左腕と寸分変わらない、その右腕。知らぬものが見たならば、衍葵が産まれてこの方ずっと五体満足だったと信じて疑わないだろう、当たり前の人間の腕の形をしたもの。しかし、それを目の当たりにした時の、異様なまでの薄気味悪さを、薙は忘れられない。
これは何か悪いものではないのか、そう思った。
そして、その思いは、日夏と意識不明の衍葵を担いで集落に戻った際、最悪の形で実現される事となった。出迎えた族民達の注視の中、衍葵を地面に下ろすと、その異様を見咎めた最初の人間から、ざわめきが波のように広まっていった。
何をどう説明したものか考えあぐねている自分の隣で、固い表情をした日夏が『曾様を』と巫人を呼んだ。
そう、いかな日夏とて、次に起こる事までをも予測し得た筈もなかった。
目に見える傷は確認出来なかったものの、衍葵の服はひどく焼け焦げ血に汚れていて、彼が炎に巻かれる山中から薙達のいる麓までに降りてくる間、何があったかは分からない。何よりも、あの正体不明の右腕。あの状態の衍葵を、巫術や医術の心得のある人間に見せようとするのは、至極真っ当な行為であり、かんがみれば、そんな普通の状況判断すら自分は出来なかったのだという事になる。
巫人は、やがて人の輪を、かいくぐってやって来た。薙は、彼のすぐ脇に立っていたので、衍葵を目の当たりにした時の巫人の顔色の急変を間近で見ていた。
『曾様、衍葵を診てやってくれ』
日夏は、そんな巫人の様子に気付かないのか、急かすようにそう言った。しかし、巫人は衍葵に触れようとはせず、蒼白と化した顔で、一歩二歩と後ずさった。色を失くした顔色に、常ならぬ切迫した表情が浮かび、唇がわななく。人差し指が、まっすぐに地面の衍葵を指し、震えた。
『・・・な』何度も唇が開閉し、やっと言葉を紡ぎだす。『なんという、事だ』
『曾様っ、これは―――』
『それに、寄るでない!日夏』
なんという事だ、と巫人は口腔の中で繰り返した。
『それは穢れじゃ。古き文言に数多の名で記される、禍きもの。草木を枯らし、土を汚し、山を渡る不浄のもの。災厄の招き手。それこそが、神山に炎を呼んだのじゃ・・・・衍葵は、穢れに囚われた』
『違うっ!曾様っ、落ち着いてくれ』
『去れっ、魑魅魍魎め。衍葵の内よりとく去れっ!去って、泥濘に帰るが良いっ!』
『曾様!』
胸元の小刀を取り出し、巫人は迷わずに、それを衍葵の右腕に向かって振りかぶった。それを止めようとする日夏と巫人の腕が交錯し、衍葵の上でもつれあった。
そして―――――




