第一章 隻腕の少年
日没。
灌木や茂みの影が長く大地をはい、赤い円盤が地平にその身を横たえる。
風が渇いた草原の上を吹きすべり、まばらな草をゆらしては散らす。
緋色にそまりゆく草原に騎影が一つ、夕陽をうけて、たたずんでいた。
馬上の騎手はまだ若く、十三四といった年の頃で、草色の頭布を灰褐色の髪にまきつけ、同色の上下に綿をいれた貫頭衣に成長途上の体をつつんでいる。
草原の民である事はあきらかだったが、黒髪黒眼を基調とする彼等の中にあって、灰褐色の髪と灰緑色の瞳は文字通り異色であった。
狩猟をたっとび、騎射に関しては比べる者のない草原の民。その一人にしては珍しい事に、少年の背には弓も矢柄もない。
武器といえば、腰に下げた小振りの半月刀一振りのみである。
もっとも、これは別段不思議なことではない。弓が少年にとっては用をなさないことは、一目見れば分かる事だった。
いや、むしろ少年の方が、弓にとって用をなさないと言うべきだろうか?
少年の長袖の右肘より先の部分は、風をはらむでもなく、ふくらむでもなく風任せにはためいては、ひるがえっていた。
本来あるべき質感と量感が、その袖布には欠けている。
両腕がそろっていなければ、弓は引けない。その点でいえば、少年が所持している刀も、片腕のみでは武器として、どれだけ実用的であるかは多いにうたがわしかった。
唇を引きむすび、隻腕の少年はこわばった横顔を、夕陽よりやや北、西北西に向けた。
灰緑色の視線の先に、巨大な三角錐が逆光の中に黒く、くっきりとそびえ立つ。
それは少年の部族の間では、神山と呼ばれる、その名のとおり、人々の信仰と畏怖をあつめる霊山だった。
不毛の大地に牧草地を求めて行きかう遊牧民にとって、草木の緑はは豊穣の象徴であり、山は蒼天と彼等のすむ大地をつなぐ祭壇である。
しかし己が部族の聖地をみているはずの少年の目には、畏怖というよりは、もっと個人的な不安が見てとれた。
「衍葵っ」
その呼びかけが、山と少年の対峙を終わらせた。
地をたがやして生きる者にとっては、聞こえるか聞こえないかの遠くの声だったが、草原に生きるものにとっては、十分に可聴域である。
少年は、びくりと山から視線を引きはがし、馬首をとって返す。
日没とは反対側の地平線に、小さな影が認められた。
見る見る内に大きくなっていく人馬の一対。集落で何かあったのではないか、という思いがまず最初に頭をかすめた。
そう時を待つことなく馬と乗り手の少女は、衍葵の元にたどり着いた。
溜め息と共に、発せられた第一声が、衍葵の懸念を払拭する。
「今夜の主役が、こんな場所で一人で何をやっているんだ。みな心配していたぞ」
心配?
衍葵の心配をしている人間などいるだろうか?いるとしたら、こんな所にいる衍葵を探し当てた張本人、日夏だけだ。
他の者は……そう、あるいは今夜の心配ならしているかもしれない。衍葵が怖じ気づいて逃げ出すと心配しこそすれ、彼等が衍葵個人の心配をする姿は想像しづらかった。
衍葵は曖昧にうなずき、夕陽に目を向けた。
「ごめん、日夏。すぐ戻るつもりだったんだ」
日夏も衍葵の視線を追って紅連の空に目をうつす。
「見事な夕焼けだな。まるで血を刷いたような赤だ。こういう時は魔が行き交うのだと曾様がいっていたか。衍葵、今夜は気をつけろよ。神山に入るんだ。魔にしろ神にしろ、せいぜいとって喰われぬようにな」
「そうだね。獲物を狩るつもりで、自分が狩られたら元も子もない」
笑い合って、二人はしばらく並んで夕空をながめた。
「不安か?」日夏が聞いた。
衍葵はゆるく頭を振る。
「まるきり不安でないといえば、嘘になるかもしれない。でも、大丈夫だよ。何も大鹿や狼を狩ろうなんて大それた事は考えていない。極端にいえば、別に贄は野鼠だってかまわないんだ。せいぜい、とって喰われぬ程度にがんばるよ」
那伽是の少年が大人になるための通過儀礼として成人の儀というものがある。
内容はしごく単純で、十五の春の最初の月満ちる夜に神山にはいり、供物となる獲物を狩って集落にもどってくるというものである。
贄が巫人の手で火にくべられ、煙となって蒼天に送られるのを見て、儀式は完結し、少年は戦士の仲間入りをはたす。
おりしも季節は春。
そして今夜は衍葵が十五になって、はじめての満月だった。
「無理はするな、といおうと思っていたんだが、その様子だと、どうやら逆に、はっぱをかけた方がいいみたいだな。丁度いい機会だ。どうせなら、うんと大きな獲物を成人の儀の供物にして、皆をおどろかせてやれ」
日夏に悪気はないのだと分かっている。こんな冗談ような言葉にさえ反応する自分の方がおかしいのだ。
期待をはげみにして頑張れる人間は、自分に自信のある人間だと衍葵は思う。
しかし彼にとっては、むしろ重圧だった。好意はありがたいと思うかたわらで、その期待を裏切ってしまったらという不安の方が、まさってしまう。
何の期待もされない。それはそれで満足とは程遠いのだが、そちらの方が衍葵にとっては常態であり、楽だった。
考えてしまうのだ。弓も引けず、刀も満足には振るえない肩輪の少年。その限界を。
大物を捕らえてきて、みなを驚かせる?
夢想するのは自由だ。
だが現実の惨めさに立ちかえった時、それではよけい傷つくばかりではないのか?
いまの自分には、大物云々はおろか、滞りなく儀式を終わらせる事で頭がいっぱいだというのに。
傷つき、臆病になった心は自衛に閉ざされる。
甘い期待をいだいて、結果だれかの失笑をかうよりは最初から諦めた方がマシだと。下手に真面目になって本気になって、挙句、自分の限界を突きつけられるよりはと。
だから今までそうであったように、これからもずっと部族の日陰者でいいのだと。
口には出せぬ思いを水面下に沈めて、衍葵は表情を取りつくろった。
「がんばるよ」
こんな風に卑屈にあきらめてしまう自分を自分自身嫌いなように、きっと日夏も好きではない。
だから、口にしない。
自分には分不相応な好意を向けてくれている、たった一人の幼なじみに嫌われたくはなかった。
衍葵は自分が誰かの好意に値すると考えたことはない。
同年代の少年たちは、衍葵を不具の臆病者と断じてはばからなかったし、大人達はさわりがたい膿のように彼を敬遠した。
人格の形成期をそういった環境で過ごした子供にとって、健康な自画像を形成するのはむずかしい。
ただ日夏だけは、すこし違った。
どこがどう違ったのか、はっきりとは説明しづらい。兎にも角にも、日夏は、衍葵の身体的欠損をタブーとして扱うことも、それを材料に馬鹿にするようなこともなかった。
衍葵の隻腕は、その混血の証である淡い容姿とともに、彼女にとっては衍葵の個性の一端でしかなかったらしく、なぐさめるでもなく、けなすでもなく、要するにとりたてて注意を向ける対象には映らなかったらしい。
といって配慮を欠いていた訳ではない、というのが不思議だった。
良きにつけ悪しきにつけ、日夏は衍葵を特別扱いしなかった。片腕では無理な事に彼を誘う事はなかったが、そうでない事には遠慮なしに衍葵を連れ出した。
剣の鍛錬もその一つで、日夏がいなかったのなら衍葵の刀は本当にただのお飾りになっていたに違いなかった。
強いて近い表現を探すのなら、それは『対等に扱った』という事だろうか?
彼女にとっては、他の誰に対してと同じ、普通に接しただけなのだろうが、それは衍葵にとっては決して普通ではない事だった。
問題があるとすれば、それは衍葵自身が自分を他者と対等に扱えなかったことだ。対等な立場でとられた態度、言葉も、そうでないと思っている者の心には歪んだ投影をむすぶ。
好意を同情ではないかと疑い、励ましを持てる者の傲慢だと受けとる。友情は憧憬に変質し、時として嫉妬に転化しうる。
太陽のような日夏。いるだけで周りを照らし、暖める。
彼女がいなかったのなら、衍葵の人生は今以上に色あせたものになっていたに違いない。
だが彼女は知っているだろうか?
その明るさが、時に負担なのだと。
温もりは、自分自身の冷えを実感させる。光は周囲に影を産む。そして、その光がまぶしければまぶしいほどに闇は濃く影を落とすのだ。
衍葵は笑った。
彼にとって、それは使い古された擬態の仮面だ。
「しかし、おおぎょうだな日夏は。こんな誰でもとおる儀式に」
「誰でもという訳じゃないぞ」
力強く日夏は否定した。
「男でなければ、成人の儀はとり行われない。己が武と勇をしめし、天へ供物をささげて感謝をあらわし、巫人の立ち会いのもと戦士達の仲間入りを果たせるのは、男に生まれついた者だけだ。
逆にいえば馬や剣の腕前をいくら磨こうとも、男でないものは資格があたえられぬのだ……受けたくても受けられぬものが目の前にいるのに、そうそう浮かぬ顔ばかりするな。腹が立ってくるぞ」
「ああ、ごめん。でも日夏は……」
思わず衍葵はふきだしていた。
昨年のちょうど今頃、日夏が十五になる少し前の一件が思い出された。
彼女は族長である父親に、自分も戦士として承認を受ける権利があると主張し、談判した。
資格というなら、ある意味日夏には他の誰よりも成人の儀を受ける資格があったろう。
剣も弓も、男女の力の差の明らかでない年の頃もあって、同年代の少年達から一頭地ぬきん出ていたし、騎射の技術にいたっては熟練した部族の戦士でさえ舌をまく腕前だった。
勇も武も、おうおうにして軽視されがちな知でさえも、彼女に欠ける事なくそなわっていて、もし男子であったならと父親である族長を嘆かせた。
しかし、ふだんは娘に弱い族長も、この成人の儀に関してばかりは、にべもなく日夏の主張は突っぱね、許可なく神山に入ったのなら厳重な制裁を課す、とまで釘をさした。
しかし慣習法だからという以外には寄るべのない父親の論陣に娘が屈することはなく、難航した交渉と激化した親子喧嘩のすえ、日夏は遊び仲間の少年達を引きつれて集落をとびだした。
成人の儀がとり行われるのは十五になって最初の月満ちる夜であるから、その数日前の事である。
満月が朝の気配に薄れる頃−ー本当の成人の儀であれば、少年が供物と共に戻ってきてもおかしくはない夜明け前の一刻−ーに日夏は集落に戻ってきた。
部族の者の手前もあって、厳重に処罰するつもりで駆けつけた族長だったが、彼が怒声と平手を飛ばすよりも先に、日夏はゆうぜんと膝を折って一礼し、地面に並べた品物を示してみせた。
「神山には入ってはならぬという禁は犯しておりませぬ。女人であるが故に、成人の儀を行えぬとの仰せに納得した訳ではございませぬが、族長命令とあれば否やはござりませぬ。」
おおいに芝居がかった動作であり、口調であった。
「さりながら草原を渡り、天の下をゆくものとして、我等が天地にあまねく精霊達に供物を捧げるを阻む道理はございますまい。ここにある品々を我が儀と礼と共に、族長様と巫人に託しましょう。我が意を蒼天に届けたるよう」
おごそかに、そう言いおく日夏をよそに、族長の目は地面に置かれた数々の物品にぬい止められていた。
そこには、金と胡椒と、色とりどりの絹織物を始め、東と西とを行き来する貴重な品々が惜しげもなく並べられている。
出て行った時の数倍にも増えた馬の背には、まだほどかれていない荷さえあった。
日夏達が隊商を襲ったのだという事は、誰の目にも明らかだった。
なるほど。遊牧民は時として、農耕地を荒らし、定住民を略奪し、隊商から通行料を徴収し、あるいは襲う。
だが通常、それは歴戦の強者達の練達した連携をもって初めてのぞまれるものである。
商人側も馬鹿ではないのだから、一年をかけた稼業をふいにする事のないよう、それなりに用心と対策をかさねて草原を超える。
ましてや積んでいる荷がこれだけのものとなれば、隊商の規模もそれなりのものだったろう。
その襲撃を十五になるかならないかの一団でやり、ましてや成功させてのけたのだとすれば、これは無茶を通り越して、驚嘆の域だった。
結局ど肝をぬかれた大人達を尻目に、日夏もその仲間もさしたる処罰を受ける事はなく、この一件は後々まで語りつがれる日夏とその一味の武勇伝となった。
衍葵は思い出し笑いに笑う。
「あの時は、おどろいたな。成人の儀の供物に、隊商を襲うなんて、きっと誰も考えつかない」
「まあ、神山に、隊商はうろついていないだろうしな」
そういって日夏は照れたように混ぜっかえした。
衍葵は、この大胆であふれんばかりの生気に満ち満ちた幼なじみに、賞賛と好意を惜しまない一方で、一抹の嫉妬を禁じえない。
彼女は、自分の持ち得ない、また焦がれてやまぬ物を、ありあまる程持っていた。
草原の民の特徴をよく表す青黒の髪、黒曜石の瞳に比べて、自分の淡い色彩のなんと色あせて見えることか。
躍動感にあふれる体躯は、若鹿のようにしなやかで狼のように俊敏。ひとたび弓矢をとればその真価を発揮して遺憾なく、馬上にあってみれば、いっぷくの絵のように目がうばわれる。
といって、日夏という少女に普通の子供らしい部分がなかったわけではない。
真夏の陽射しを思わせる黒眼は、大人たちを困らせるイタズラを考える時ほど、きらめきを増したし、普段は不適に結ばれた唇も、笑うと年相応にくずれるのだった。
勇壮な騎馬の民の中でも、資質という点では誰もが認めるその武勇。
放埒なばかりの自由さと、型破りな行動は、同年代の少年達にとっては反感であれ尊敬であれ何らかの感情を引き出さずにはおかない存在で、日夏は彼等の首領格として、いたずらを率先する一方で、歯止めにもなっていた。
総じて言えば、日夏は彼等をよくまとめあげていた。
ある意味、誰よりも少年の夢を体現する存在が、少女であったのは皮肉である。
しかもその一種、野性的な魅力は、近隣にまで聞こえる彼女の美貌を減じることなく共存していた。
ひとたび髪をほどいて、くしけずり、花と装飾品でもあしらった日には、草原一の美女と称しても名前負けはしていない。
ただ日夏自身がそういう格好を好まないようで、滅多に女らしく装うことはなかった。
衍葵としては普段の日夏の姿の方が、下手に戸惑わないですむぶん安心できたので、べつだん他の者が言うようにもったいないとは思わなかった。
じっさい日夏には、金銀の装飾品や上等な衣装などよりも、草原の風の方が似合っていると、衍葵などは思う。
しかし荒くれ者の少年達が、彼女の前で大人しくなるのは、日夏の異性としての魅力とは無関係だ。ましてや族長の娘である事とは何の接点もない。
彼等は実力のない者には従わない。物理的な力がものを言う、遊牧民の気風にあって、彼等ぐらいの年頃は、特にこの傾向がつよい。
逆にいえば、力のない者、臆病だと認められた者には、父親の地位がなんであろうと、一片の敬意も払われる事はない。
現に衍葵の父親は、部族最強の戦士であり、族長の右腕と信頼が厚かったが、その地位と尊敬が、衍葵個人の評価とはまったく無関係だったのと同様に。
「日夏の婿になる人は大変だな」
「なんだ、いきなり」
「だって、自分より強い男でなければ、夫とは認めないと族長様に宣言したんだろう?」
「ああ、あれは…」
ばつの悪そうな顔を浮かべる。
「一種の方便だ。螺族から、私に婿をどうかという申し出があってな。父上が乗り気で、しつように進めるものだから」
族長の一人娘である日夏に男兄弟はなく、彼女の夫となる者が、次期族長になるものと目されていた。
婿養子の話は噂にうとい衍葵の耳にも届いていたが、じっさいに日夏自身に確かめことはなかった。
「だれか、心に決めた相手でもいるの?」
そう聞くと日夏は肩をすくめてみせた。
「なるほど。その手もあったな」
「じゃあ、政略結婚が嫌なだけ?」
「いや……問題は力の均衡、我等が那賀是にたいして螺族の規模が大きすぎる点だ。
父上のおっしゃる事にまるで理がないという訳ではない。確かに近隣部族で小競り合いを続けている今の状態は不毛だ。
宥和の手段としての婚姻をつかう。二つの部族が一つに統合される。そういう選択肢も排除するべきではないだろう。
しかし問題は、やはり力の釣り合いだ。螺族に比して、我等が那伽是はあまりに小さい。力関係は明白だ。現状でこんな縁談を進めたら、果ては二部族の併合ではなく、一方的な併呑という事になりかねない」
「でも彼等は、螺族は、那伽是の自主性は認め、それでいて、放牧地を持参金にするといっているんだろう?」
那伽是にとっては、悪くない話ではないかという意味合いをこめていった。
「そこが、くさいんだ。上手い話には裏があるか考えて当然だ」
そうなのか。当然なのか。
との感想をおぼえた衍葵に、日夏は自嘲気味に、「私の性格が悪いだけなのかもしれないが」とつけ加えた。
「だがたとえ、婿養子であろうと、一代限りの繋ぎであろうとも、族長は族長。部族の羅針盤だ。他部族のものをそこに据えるには、慎重になるに越したことはない」
「族長様はなんて?」
日夏の表情に、普段にない陰りが落ちる。
「父上は……老いた。男子のない焦りもあるのかもしれないが、今あるものを維持する事にばかりに焦点を当てておられる。地歩を固め後顧の憂いを無くそうとあせるあまり、意思決定のバランスを欠いているに見受けられてならない。
私には那伽是の自主性をおかされる危険性と映るものも、父上にとって杞憂に過ぎず、私の意見など部族間の宥和の機会を台無しにしかねない、わがまま娘の世迷い言にすぎんのだ」
「……」
衍葵に族長と日夏の立場のいずれが正しいのかは分からない。論ずる事さえ、出来はしないだろう。
ただ日夏は衍葵と一つしか違わない年で、彼女なりに部族の行く末を案じ、部族のためを考えているという事は理解できた。
それに比べて目先の成人の儀で手一杯の自分は、果たして真剣に部族全体の事を考えた事があっただろうか?
「……お前だから、こんな愚痴も言えるんだがな。他の者には言うなよ」
衍葵はうなずいた。
「言われるまでもないよ。でももし、仮に縁談が族長命令だったとしたら?」
日夏の瞳にいたずらっぽい、しかし抜き身の刀のような光がちらつく。
「私が私自身、部族のためになると判断すれば、婿でも嫁でもとってやる。しかし納得のいかない決断には、たとえ族長といえども従うことはできない」
強烈なまでの自我。それは、不遜と言い換えてもいい。
たとえ、族長命令であっても従わないと彼女は明言している。それは、いかな族長の娘といえども部族民の一人としてはあまりにも不穏当な宣言ではないか?
それでは、まるで自分の方が、族長に相応しいと言っているように聞こえかねない。
「たしかな事は、草原に一つの風が吹いているという事。父上にしろ、方向性はあやまっていても、その潮流に乗っているだけなのかもしれない」
「風?」
衍葵は聞いた。
「統合への風。皆がこのままではいけないと思いはじめている。こうして草原の民同士で身内争いをしている現状は、定住民達を富ませるだけで、我々自身の力を悪戯にけずるばかりだと。夷をもって夷を制す。それこそが奴等のやり口でもある。目下、我々は奴等の手の内で踊らされているというわけだ」
「じゃあ、いまのような部族間の抗争をやめて、協力しあえばいいという事?」
日夏は苦笑する。
「言うは易しだ。草原の者に、話し合いという方法はあまり合わぬようだ。相手を叩きのめし、血を流し、流させ、強さの在処を示さぬ事には、なかなか事が運ばぬというのが現実。海のものとも山のものとも分からぬ者に進んで己の部族の権利を渡す道理もない」
「じゃあ−ー」
「東の方に、王を名乗った者がいると聞く」
「王?」
「そう。もっとも螺族とさして変わらぬ規模で、父上などは、己の分もわきまえぬ井の中の蛙よ、と笑っていらしたがな。
だが形は必要だ。族民を鼓舞し、部族をみちびき視野を開く。王を名乗る事が必ずしも、たわけた事だと、私は思わない」
「その人が、統合を率先するとでも…?」
声には疑い……というより戸惑いが混じっていただろう。どうも話のスケールが大きすぎて、現実感がないというのが本当のところだった。
「どうだかな。確かに今は、井の中の蛙には違いない。カエルが狼に化ける可能性など、そうはあるまいよ。ただ誰かが、視野と力をかねそなえた者が、草原の統合を押し進める事が出来たなら……
今は方々に吹き荒れている風を集めて、一つの方向にまとめ上げる事が出来たなら……その向こうにはきっと新しい世界がある。まだ見ぬ、草原の民の国の形」
「それは…草原の覇者という事?」
こんな開けた場所に聞く者がいる筈もなかったが、声を潜めるようにして聞いた。
「いや、もっと――」
そういって、言葉を切る。
意思的な横顔が、きっかりと地平線を向き、深い黒眼の眼差しが、衍葵の知らない光を帯びて、彼方を見つめていた。
ずっと、同じ時を過ごして来た筈の幼なじみの、初めて見る横顔に、衍葵は魅せられた。
触れる程に近くにあって、尚こんなにも遠い。どれほど同じ時間を共有しても、どれだけの言葉をかさねても、ただそれだけでは埋まらない何か。
自分と彼女を隔てている何か。それが痛いほどに感ぜられた。
届かない距離と置き去りにされたような感覚。砂をかむような苦さの中から、衍葵自身想像だにしていなかった衝動が芽吹く。
嫉妬ではない、もっと身に迫る、もどかしい、じたばたと諦めの悪い感情。
そんな風になれたら、と。彼女と同じ場所に立ち、同じものを見れたら。同じ視野を共有し、同じ世界で呼吸できたら。
産まれ落ちたばかりの切望に衍葵はとまどい、おののいた。長年の内にしみ付いてしまった負け犬根性が、まだ名前さえない心の動きを、急いで摘み取ってしまおうとする。
分不相応な、馬鹿馬鹿しい願いだと。
それはつまり日夏と肩を並べたいという事だ。
自分のような人間が思うだけでも、おこがましい。第一そんな事を考えた所で、現実は変わらない。
日夏は皆に慕われる族長の一人娘。人望もあつく才能にも恵まれ、ゆくゆくは部族をおって立つやもしれぬ存在だ。
それに引きかえ自分はどうだ。弓さえしぼれない肩輪の少年。部族の日陰者。
比較にも、なりはしない。
「忘れてくれ。ただの夢物語だ。なにしろ我々ときたら、秋の放牧地の確保が最優先事項と来ている。世界はおろか、草原を語れる器でもない。まずは目先の問題を何とかしないと、本当に螺族と結婚させられるはめになりかねない。どうせ身売りをするにしても、もう少しましな相手に願いたいものだ」
いつもと同じ屈託のない顔に戻って、日夏は話題を変えた。
「話が脇道にそれてしまったな。今日はお前の晴れ舞台だというのに」
「そんな事は……」
「ああ、そうだ」
そういって、日夏は首にかかった革ひもをまさぐった。
「これをやる。私が初めて仕留めた狼の牙だ。きっと、お前を守ってくれる」
言われるまでもない。日夏がずっと首にかけていたものだ。
「もらえないよ、そんな大事なもの」
衍葵くんだりが身につけたのでは、その狼も浮かばれまい。
「やると言っているんだ。断るのは失礼というものだぞ。そんなに気がひけるのなら、変わりにお前の成人の儀の獲物の印をくれ。なに、牙の一本や二本が抜けても、贄としての価値はへらないさ」
「そんな……」
「それで、あいこだろう? せいぜい私の首を飾るに足る獲物を見つくろってくるんだな。鼠の尻尾など引っさげて来た日には、絶交だからな」
衍葵は笑った。今度は素直に笑えた。
「分かった。約束する」
しかし衍葵も日夏も、この時はまだ知る由もなかった。その約束の果たされる事のない事を。
この夜を境にして二人の運命は道をたがえ、再び交わるには、しばしの時を要する事となる。
そしてその時には、衍葵にも日夏にも草原にも、今とはまるで異なる風が吹いているという事を、彼等はまだ知らない。
「そろそろ集落に帰ろう。きっと皆が気をもんでいるに違いない」
それをきっかけに会話は打ち切られ、二人は集落へと馬首を向け、馬腹を蹴った。
抜いては抜き返し、返されては抜く内に、次第に競争の様相をていしていく二人と二頭。
夕陽の残照がその様子を照らしだし、赤黒くそまる雲が、はるかにその頭上を流れていた。
長い長い第一章をお読みいただき、ありがとうございます。そしてすみません。
以降の章は、大体3000文字から6000文字以内におさまっているので、何卒ご容赦のほどを…
(_ _)m
感想や評価などをいただけると、飛び上がって喜びます。




