俺の敵は、誰だ?
Side Rio. ~有馬・L・慧人~
泣かれた。目の前で。
前兆はなかったんだ。ただ、楽しく会話していただけだった。
なのに。唐突に。彼女は止まった。悲しそうに歪められた表情。流れ落ちる涙。何度拭っても、それが止まることはなかった。
正直、すごく困ったし、なにしていいかなんて皆目見当がつかない。けど、そんなこと、考える必要もなかったんだ。俺の身体は、咄嗟に、そして勝手に、動き出していたのだから。
「よく分からないけど……好きなだけ泣いてくれ。泣いて、すっきりしな」
耳元で囁く。それが出来るのは、抱きしめたからだと思う。拒否はされてないんだ、しばらくこのままでも……。
「……授業をさぼってなにをしているかと思えば。ナニをしてい「違うわボケ!」……冗談じゃないか」
いきなりのワカメ登場ですか。タイミングの悪いことで。……ま、さっきのである程度泣き止んだみたいだし、別にいーんだけどさ。
「あ、今、直弥くんしか来てないとか思ってたでしょ? 私もいるからね?」
「……ソンナコトナイヨ? 小さすぎて気がつかなかったとか、ないからね?」
「え、ホントに気付いてなかったの?! 冗談のつもりだったんだけど!!」
……あー、いや、ホントすんません西沢サン。
あぁ~、うん。四人集まると、本当に締まらねーんだな。ゆるすぎる。これが俗に言う『ほのぼの』ってヤツなのか。自分たちが『ほのぼの』なんて空気を作っていると考えると、なんとも虚しいモノだ。
けど……。
みんなの登場で、涙の痕を残しながらも笑ってくれるイヴを見て……こんなほのぼのも、悪くないな、と、そう思えたんだ。
◆
俺があいつをイヴと呼ぶようになった日の夜。寮部屋にて。
……まただ。またあの視線だ。
誰のものかは分からない。ただ、視線だけが俺に突き刺さる。
ワカメ――直弥はいない。久しぶりに視線を感じた、今日に限っていない。疑いたくなるじゃないか。視線の正体は、お前なんじゃないかって。いくら変人でも、友人だから……そんな疑いは、かけたくない。
だから。視線の正体を、探しに行く。今度こそ、逃がしはしない。
俺は、みんなにはトマトジュースだと偽っている血の入ったペットボトルを取り出す。便宜上ペットボトルとは呼んでいるが、血の鮮度を落さないように、ヴァンパイアの術師(ここでは俺をヴァンパイアにしたアイツ)の魔法による加工がなされている特殊なモノだ。
ここまでの量をたくさんの人間から集めるのには、苦労したものだ。その血を、苦労して集めたそれを、一気に飲み干す。
俺のようになりきっていないヴァンパイアは、一ヶ月に一度だけ、500mlの血を飲み干せばそれで生命を維持できる。が、それ以上に飲めば飲むだけ、能力を発揮できるのは間違いない。
口に含んだ血が、俺の生命力を一気に底上げしてくれる気がした。いや、実際にそうだ。つい四日前、一ヶ月分の血を飲んだばかりなのだから、いつもの二倍の血を飲んでいるようなものだ。力が漲るのも無理はない。
跳ね上がる身体能力、研ぎ澄まされる感覚。周りで起きた全てを、敏感に感じ取ることが出来るようになった気がする。
そんな感覚を覚え、次の瞬間に……俺は瞳を開く。自分からは見えないが、血のように赤く、紅い瞳が、この世界に晒された。
さぁ、視線の正体を探し出してやろう。
◆
開け放った窓から、スッと飛び出す。音は立てない。近くに感じた視線も、俺に合わせて遠ざかるように動き出した。
……逃がしてたまるか。
追いかける。人間からは考えられない、全速力で。夜の闇や、それにまぎれる黒い服も相俟って、人間の動体視力程度では俺の姿を捉えられないのではないか。あっという間に、学校の敷地から外れた。
けど、それと同じかそれ以上のペースで、“視線”の正体は遠ざかってゆく。
なんだ、こいつは。ヴァンパイアから逃げ切るだけの身体能力を持つ者なんて、限られているはずだ。人間がそんなことを出来るなんてありえない(例えヴァンパイアハンターであったとしても)し、俺以上の身体能力を持つ完全なヴァンパイアは、アイツ以外にはいない。
そして、アイツが俺を追って日本に来ていたのならば、なんの躊躇もなく、堂々と俺の前に姿を現すだろう。アイツは……ヴァレリーは、そんなヤツだ。
では……なんだ? ヴァンパイア以外の……魔の者がいるとでも言うのか?
ありえない話ではないかもしれない。俺をヴァンパイアにしたヴァレリーから、世界のいろいろな力を持つ者について学んだが、極東の地には“妖”と呼ばれる存在がいたらしい。
やはりこいつらも絶滅していると教えられたが……ヴァンパイアも絶滅していると考えられているにも関わらず、存在している。妖がこの日本に存在していても、おかしくはない。
――考えながらも、必死で追う。いつの間にか入った森の中、鬱蒼と茂っている木々の間を追い続け、やっと少しだけ、追いつけた気がした。事実、ヤツの背中が見える。後ろ姿から、中年の男だということが分かった。
「《Montre-moi tout》」
ぽぅっと、俺の瞳が紅く輝き、辺りを仄かに照らす。
俺の瞳は元々、生物が抱く感情を全て見通す能力を秘めている。が、完全ではない。魔の者の感情を読み取ることは出来ないからだ。
それでは意味がない。……目の前の“視線”の正体は、明らかに魔の者。それだけの身体能力を持っている。
案の定、呪文を唱えた瞬間に、“視線”の正体の背中から、感情が溢れ出してきた。
『ひぃい! やめてくれ!! 俺は動きたくないんだ!! 痛い、痛い痛い痛いいたいいたいぃぃ!! 腕が! 脚が! 痛ぇんだよ! 痛いぃぃ!! も、もう殺してくれぇぇ!!』
な、なんだこれは…!
溢れ出してきたのは、ただひたすら恐怖に染め上げられた感情と、痛みから逃げるための自殺願望のみ。その感情は支離滅裂で、やがて言葉として意味を成すものはなくなり、ただ悲痛な叫びだけが伝わるようになった。
……それと同時に、ヤツの動きがだんだんと遅くなってゆく。身体が限界を迎えたかのように。
遅くなったヤツを追い越すのは雑作もなかった。回り込み、紅く光る瞳でヤツの虚ろで光の灯っていない瞳を見る。
「《Obéis-moi》」
ヤツの虚ろな目と、俺の紅い目が合う。唱えたのは服従の呪文。感情を読み取ることの出来る俺だからこそ出来る、禁呪だ。
感情を読み取り、支配し、服従させる……正直、気分のいい術ではない。が、ここでは止むを得ないだろう。――服従させて動きを止めなければ、こいつは死んでしまう。
服従の呪文が成功し、俺の命令どおりに動きを止めた。こいつを強制的に動かしている術者が誰かは知らないが、俺の元々持っていた能力とヴァンパイアの能力を合わせた禁呪でならば、対抗できたようだ。
口だけは自由に動くようにして、質問をしてみる。
「おい、あんたの目的はなんだ」
……………………………………。
答えは返ってこない。こいつ自身の感情は視えるが、術者の感情までは見る事が出来ないのだ。それに伴って、術者を服従させることも出来ない。
視えている感情は『痛い』だけだし、今のこいつから得られる情報など、なにもないだろう。
……せめて、解呪してやれればいいんだが。そうすれば、俺が服従させなくとも、こいつは不可能な動きで逃げなくてすむ。これ以上の痛みに襲われることもないだろう。
そう考え、俺が解呪の方法を探り始めた途端のことだった。
《くふふ……あははははっ!》
……目の前の男から、狂気の滲む笑い声が聞こえてきたのは。
がくがくと動く口にあわせて、外見には合わない青年のような声が聞こえてくる。術者の声だろうか。
《君はおもしろいね! この人形の動きについてきて、支配してしまうなんて。やっぱり、君の服従の力はほしいよ》
「……あんた、何者だ? 俺の服従の力を使って、何をするつもりだ?」
質問する。答えは、返ってこない。
《……とはいえ、この身体は限界のようだ。まったく、使えない。人間というのは、かくも脆弱な生き物らしい。やっぱり、人間に世界を支配させてはいけないね》
「……なんなんだよ、あんたは。あんたの目的は、人間を滅ぼすことか?!」
《違う違う。……けど、物語はね、黒幕の思惑が読めちゃおもしろくないんだ。だから、目的は言わないよ。分かった?》
「けど、これは物語じゃない! 現実だ」
《はは、そうかもね。……じゃあ、一つだけ。ヒントをあげるよ》
―――――俺は昔、ヴァンと名乗っていた者だよ。
そう告げられた。
ヴァン? 知らない名。ただ、どこかの国の魔の者であることにかわりはないだろう。……調べておく必要があるみたいだな。
《じゃあ、これで俺は失礼しようかな。痕跡は、残さないからそのつもりで》
言葉だけが残る。……男の身体は、灰になって消えたからだ。
くそ! なんなんだよ、いったい! ヴァンって誰だ! あの気に障るしゃべりかたはなんなんだ! ……直弥のしゃべり方と、同じじゃねぇかよ。声が違っても、しゃべり方が同じなんだよ……!
なぁ、ワカメ。あんたは、俺の敵なのか…?