侯爵家にて7
『奇しき因縁に、わたくしは一種の感慨を
おぼえつつ、○○卿解脱の修法檀に上がった
のである。
しかし、事はそうかんたんには運ばなかった。
○○卿自身の修法に入るまでに
じつに五たびの修法が必要だったのである。
こんなことははじめてであった。
これまではどんなに強い霊障のホトケでも、
また、強い霊障を背負ったホトケでも
ズバリ、修法に入れたものであった。
こんどはまったくちがうのである。
定に入ろうとすると、
凶々しい魔性の念波が襲いかかってくるのである。
真っ黒く、旋風のごとく渦を巻いて襲ってくる。
焚いているお護摩の火熱を消して、
肌が粟立つような冷気だ
一瞬、恐怖が項の毛を逆立てる。
「いったいこれはなんだ?」
たじろきかけた刹那、○○卿に憑いている霊だと
気がついた。
○○卿の解脱の前に、まずこの霊を解脱させねば
ならぬのだ、そう気がついた。
じつにおそろしい体験であった。
それはもう人霊の境界をはなれ、魔界に
入っていた。
○○卿より三、四代まえの、女性であった。
一心に法を修し、縁空の無我の
定に入りつつ、
わたくしは、何度も現実にひきもどされた。
もはやそれは完全に人間ではなかった。
怨恨・執念そのもののすがたであった。
身の丈にあまる白髪が、竜巻のような風に
暗黒の虚空に吹き上げられ、
宙に躍り狂っている。
頬は削げ落ち、蒼い苔のような皮膚が
燐光を放っている。
唇はほとんどなく、頬がそのまま耳まで裂け、
血を滴らせた真赤な舌が、その奥でおどっている。
呪いのことばを声かぎり絶叫しているかのようだ。
眼は、眼窩いっぱいに見ひらかれ、
真赤に血走っている。まばたきせず虚空をにらんでいる。
突き出たのどぼとけに、いたましく食いこんだ
一条の傷あと。
わたくしは戦慄した。
いままで無数の幽体に接してきたが、
いまだかつてこんな女怪を目にしたことはない。
現実のものだった、わたくしといえども
気を失っていたであろう。
何度か、定から立って、修法を中止しようと思った。
無気味などというものではない、そうだ、
映画にでてくるエイリアンを想像していただきたい。
必死に祈った。
いくら無気味でも、恐怖にかられても、
ここで法を中止したら、今度はわたくしが
憑かれるかもしれない。
そんなバカなことはないはずだが、
その思いにとりつかれ、わたくしは必死に祈った。
三度目の修法
凝然として宙をにらんで
動かなかった女怪の眼が、大きく、右に、左に
動いたのである。
しかし、まばたきをせず、こちらを見ようとしない。
目を合わせようとしないのだ。
爬虫類のように乾いた眼が、宙を見すえたまま、
大きく動いた。
四度目の修法
突然、女怪が、わたくしを見た
眼が合った!
瞬間。
その目が深く閉じられたかと思うと、
ふたたび大きく見ひらかれ、
おお!涙があふれ出たのである、
滝のごとく、泉のごとく、涙があふれる!
潸然として、滂沱として
涙がほとばしり出る!
声はないが、身を、揉みに揉んで、号泣しているのではないか。
白髪が、乱れに乱れて、宙に舞う。
ばさっと、その白髪が、わたくしの額にふれたように感じ、わたくしは我にかえった。
定が断れた。女怪は消えた。
五度目の修法。
定に入った。
刹那!
おお、なんという美女だ。
これが、あの女怪か。なんという変容だ。
いや、これは、これがあの女怪の世に在るときの
すがただったのだ!
一一ゆたかな頬、透きとおるような白い額、
身の丈にあまるつややかな漆黒の黒髪は
きれいに束ねられている。
なによりもその眼だ。
切れながく、つややかに黒い瞳は黒曜石のようにかがやいて、
ふかい情感にあふれながら、たかい知性を思わせる。
絶世の美女にして、よほどの才女だったのでは
なかろうか。
紅梅の小袿に、紅の袴がなまめかしい。
年齢はわからない。二十歳前後か。
眼が合った。微笑をふくんでいるようだ。
唇がかすかに動いた、と思った瞬間、
背後を金色の大光明が走った。
完全解脱!
わたくしは、茫然として、うつつのまま、
かの女が消えた檀のかなたを見つづけていた
一一。』
「守護霊の系譜」平河出版より引用しました
舌ガンだった申込者の手術あと、右の耳下から
首の真ん中のところまで、メスが入っているのと、
○○卿の首をしめられたと思われる咽喉の傷あとと
「不吉の間」の、変死の女性の、咽喉の傷あとがそっくりそのままだったそうです。




