呂蒙の末裔に伝わる家訓
本作の挿絵のイラスト三枚は、みこと様より頂きました。
大ホールに鳴り響く万雷の拍手を壇上で聞きながら、私こと谷明明はホッと胸を撫で下ろしたのだった。
このフェニーチェ堺で開催されたシンポジウムである「堺商人の日明貿易に学ぶ自由都市の理念」も、どうにか無事に成功したみたいだね。
今回のシンポジウムが我が国と日本の友好関係を深める一助となってくれたなら、中華王朝側のパネラーという立場で出席した私達としても喜ばしい限りだよ。
何しろ私こと谷明明は中華王朝の丞相府に務める若手官僚であると同時に、「合肥の戦い」で孫権を補佐しながら活躍した孫呉の武将である谷利の直系の子孫だからね。
家名を汚す事なく御役目を果たせて、私としてもホッと一安心って感じかな。
まあ、それは私と一緒にシンポジウムに登壇した呂大燕も同じなんだろうけど。
丞相府という同じ職場に務め、尚且つ二人とも孫呉に仕えた武将の直系という縁もあり、私と呂大燕は何かと馬が合うんだ。
私が谷利の子孫で、向こうは呂蒙の子孫。
同じ職場に孫呉の将の末裔が揃うというのも、面白い縁だよね。
そうしてシンポジウムのパネラーとしての役割を全う出来た私達だけど、それはあくまでも「公人」としての話。
一個人として今回の訪日中にこなしておきたい用事は、まだ残っていたんだ。
「悪いね、明明。シンポジウムの後だってのに突き合わせちゃって。」
「気にしなさんな、大燕!私達の仲じゃない。桃園の義兄弟を気取る訳じゃないけど、私達三人は人様から『呉下の三羽烏』って言われてるんだからさ。まあ、その一角である妃紗麻だけは丞相府に置き去りだけど。」
公用車へ乗り込むなり頭を下げてきた同僚に笑い掛けながら、私は出張中の留守を預けた同僚に思いを馳せたんだ。
私や大燕と同じ丞相府の若手官僚である陸妃紗麻は、「呉の四姓」として名家に数えられている陸家出身の御令嬢なんだ。
だけど先祖である陸遜が「二宮の変」で憤死したという歴史的事実が一族レベルでトラウマになっているのか、「極力ストレスを溜めずに心穏やかでいるように」って親御さん達から約束させられているみたいなの。
その約束をキチンと守っているせいなのか、妃紗麻はアンガーマネジメントが誰より上手いんだよね。
王政復古しつつもキチンと近代化した我が国だけど、陸家の御先祖様への義理堅さは大した物だよ。
まあ後ほどわかる事だけど、御先祖様への義理堅さに関しては呂家の大燕も負けてはいなかったんだよね。
こうして私達二人を乗せた公用車は、堺市堺区の一角に建立された黄檗宗の寺院の山門前に停車されたんだ。
「成る程ねぇ…大燕は、この御寺さんを参拝したかったんだ。」
私は案内された寺務所の内装を見回しながら、不思議な程の安らぎを感じていたんだ。
何しろ黄檗宗の御寺は外観から内装に至るまで明代の建築様式に則っているから、漢人の私には我が家みたいに感じられるんだよね。
「そういう事だよ、明明。より厳密に言うなら、この御寺の境内の廟に用があるんだ。」
私に応じる大燕の笑顔にも、リラックスした感じが伺えるね。
シンポジウムを無事にこなした後だもの。
それも無理はないよ。
やがて私達は柔和な笑顔の印象的な老僧に出迎えられ、参拝客として記帳簿へ署名をさせて頂いたんだ。
「中華王朝から遠路遥々と当寺へ御越し頂き、恐悦至極で御座います。お若い方、当寺の武廟へ御参拝で御座いますか。出張先でも関聖帝君への御参りを欠かさないとは、愚僧と致しましても頭の下がる思いで御座います。」
「そう仰って頂けると、私としても喜ばしい限りですよ。ベトナムにシンガポール、そして台湾島の中華民国。私は海外出張の折に触れて、その国の関帝廟に御参りをさせて頂いているんですよ。」
出迎えてくれた御坊さんに笑顔で応じる大燕は、どこか誇らしげだった。
呂蒙の末裔である大燕が、関帝廟へ熱心に参拝している。
見方によっては不思議な感じがするけど、これには深い訳があるんだよ。
こうして人品卑しからぬ黄檗宗の老僧に案内されながら、私達は関帝廟の参拝を始めたんだ。
知勇兼備な蜀漢の武将として義兄弟である劉備玄徳を支えた関羽雲長は、その仁義に厚い生き様から死後も多くの人々に慕われ、今日では関聖帝君として神格化されているんだ。
その関聖帝君を主神として祀る関帝廟は、日本においては黄檗宗の寺院に設けられている事が少なくないの。
日本の関帝廟は神戸や横浜といった中華街の物が有名だけど、この堺県堺市堺区の物も負けず劣らずに見事な物だよ。
左右に従えた腹心の周倉と息子の関平の像も精緻な出来だけど、その中央におわす関聖帝君の神像には恐れ入ったね。
頭には始皇帝を彷彿とさせる豪奢な冕冠を頂き、右手には「三国志演義」における関羽雲長の得物だった青龍偃月刀を携えて。
そして「美髭公」の異名の由来でもある黒々とした長い髭をたくわえた厳顔は、まるで紅蓮の炎で照らされているかのように真っ赤に染め上げられていたの。
その凛々しさと厳しさたるや、見る者に自ずと畏怖と崇敬の念を抱かせる程だったんだ。
「関聖帝君、私は孫呉の呂蒙を先祖に持つ呂大燕と申す者で御座います。我が先祖によって志半ばで討ち取られた御無念、御察し申し上げます…」
拝礼台に跪き、合掌して三礼の後に御祈りの言葉をお伝えする。
大燕の参拝作法は、実に手慣れた物だったの。
その後は金紙の御焚き上げや御線香の御供えといった付随する儀式を一通り執り行い、私達は関帝廟の参拝を無事にこなしたんだ。
宿泊先のホテルに戻り、ラウンジで一息ついて。
そのタイミングで大燕は、心から晴れ晴れした様子で身の上話を饒舌に語り始めたんだ。
どうやら彼女が関帝廟へ熱心に御参りしているのは、御家族との約束を守る為みたいだね。
「私の御先祖様の呂蒙って、『三国志演義』だと関公に祟られて死んだ事になってるじゃない。祟り云々は陳寿の脚色とも言えるけど、演義をキッカケに関公を好きになった人からすれば、私の御先祖様ってあんまり良いイメージが無いと思うんだよね。」
関聖帝君として祀られている関羽が今更祟りを起こすだなんて、正直言って考えられないよ。
だけど、蜀漢贔屓の三国志ファンや関羽推しの人達が呂蒙に向ける反感までは止められないよね。
「そんな反感が積もり重なった末に、風水的に嫌な気が来るかもしれないよね。そんな事になったらつまらないじゃない。だから私の家では関帝廟へ定期的に御参りしているんだ。幾ら私の一族が呂蒙の末裔だからって、関公御本人に御参りしていれば筋は通るんじゃないかな。」
そして晴れて科挙の試験に合格して丞相府に採用された時、大燕は御家族と或る約束を交わしたんだって。
「もしも出張先の国や地域に関帝廟があるなら、家族の分までキチンと御参りするってね。お陰樣で、参拝記念の品も随分と集まったよ。」
そうして嬉々とした笑顔を浮かべると、大燕は名刺入れから数枚程見繕ってテーブルに広げたんだ。
「和歌山の那智勝浦に神戸市、それに京都と大阪。さっき頂いたので堺も揃ったから、次は長崎の関帝廟に行けると良いかな。」
各地の関帝廟で頒布されている参拝記念カードが、ラウンジのテーブルに次々と手際よく並べられていく。
関帝廟によってデザインが少しずつ違うから、確かに集め買いがあるだろうな。
それにしても、呂蒙の子孫が日本に建立された関帝廟の授与品を集めているのも、何だか不思議な感じだよね。
この事を呂蒙と関羽雲長が知ったら、果たしてどう思うんだろう。
私としては実に興味深い所だよ。