純文学について、あれこれ
結局、答えが出ませんでした(バカ)
でも、それが正解かも知れません。
それでも良ければ読んでやって下さい(笑)
無責任の権化か( ´∀`)Σ⊂(゜Д゜ )
純文学ってなに
そう聞かれて、明確な答えを出せる人って、小説好きな人や文芸作品読みまくってる人、自分でも物書きしてる人、そういった人たちでも少数では無いかなと思うんですよ。
斯く言う私も正直なところ、明確な答えは持ち合わせてないんですけどね(笑)
で、ネットなどを見てみたんですね。
すると、明治中期くらいから始まった言文一致運動なんかが出てくる訳ですよ。
これを見て、あー納得ってなったんですよね。
まあ、あくまでも要約された内容を読んだ上での私の解釈ですから、何一つ正しいところは無いとは思いますが、その上で興味がある方は読み進めてください。
純文学のイメージって、なんかお堅い文芸作品、難解な芸術志向の作品ってイメージがありませんか。
森鴎外や芥川龍之介、三島由紀夫に最近だと村上春樹とかですかね。
ライトノベルや大衆向けの娯楽作品とは違った芸術的で高尚な文学作品って感じの取っ付き難いイメージがあると思うんですよ。
でも、これに凄い違和感があって、純文学=高尚な作品って図式は変だなーって思ってたんですよね。
で、なろうで純文学についてのエッセイなんて見ていて、やっぱり同じ想いに至る方がいるんだなーと思ってネットなんかを見た訳ですよ。
で、前述の言文一致運動が純文学の起こりだったと知ったんですね。
言文一致運動自体、何と無くそんなんがあったくらいしか知らなかったんですが、そこから純文学というジャンルというか、「考え方」が産まれたと考えたら、色々と納得したんですね。
言文一致運動については私も詳しくはありませんから、簡単に解説すると、文章に用いる書き言葉と常用される会話に用いる話し言葉では書き言葉の方が古い用法になりがちなんですね。
話し言葉は日々変化していて、若者言葉のようなスラングや誤用が日常的に使われるうちに書き言葉にも影響を与えて言葉が変化していくんですね。
ですが、書き言葉の変化は中々遅く、つい最近でも最高裁判決に読点(。)でなくカンマ(,)を使う慣例を今年から改めたなんてのがありましたよね。
明治の言文一致運動もあまりにも日常の話し言葉から乖離してしまった書き言葉を、話し言葉に寄せようという運動だったようです。
例えると漢文の読み下し文のようなものをもっと分かりやすく翻訳しようという運動ですね。
師曰く「吾、十有五にして学に志す」
というような文語調の読み下し文を
先生は言いました「私は十五才で学問に志しを持ちました」
というような口語調の文章に変えて行こうという運動だったようです。
これは詰まる所、書式や様式の決まっている公文書などはともかくとして(それだって、あまりにも古めかしすぎては問題がある)文章による創作表現が一般的な言語表現から離れすぎては間口を狭くしてしまう。また、文語調の文体に囚われてはそうした文体を書けること、理解出来ることに重きがおかれて、多分に技術偏重になってしまう、もっと小説作品は自由で芸術性を重視すべきだ。という流れで純文学が作られていったようです。
で、これを踏まえて、純文学って定義が元々あやふやじゃね、やっぱり。ってなったんですよね。
ようは文語体の古めかしい文章では一般的には取っ付き難いし、小説家を目指したら文語体を使いこなせなくてならない、だと、画家になりたければまず、必ず油絵を描けなきゃいけない、みたいな変な制約が出来てしまう。
油絵も文語体も素晴らしいけれど、そうじゃないもっとライトな表現で間口を広げて、多くの人に自由な創作表現をしてほしい。というものですよね。
純文学は日本にしか無いようですが、当たり前だと思いましたね。
娯楽作品と純文学的な文芸作品との差が「より芸術的か」しか無いですけど、その「芸術的な」って部分が歪曲してますよね、これ。
元々の純文学は「技巧に因らない」「よりシンプルに文章表現を伝える」ことを目的として、「分かり易さ」を主軸に置いていたと思います。
なのに現在は多くの人に純文学は「堅苦しい難解なもの」と思われてしまっている。
結局は文豪の作品には同じ作者でも「文語調」「口語調」それぞれの作品があったりしますし、「口語調」で書かれた作品も現在では使わない表現や漢字などがあり、慣れていないと「読み難い」そして、総じて純文学といえば文豪たちの名前があがるので、多くの人にとって「あー、あの読み難いのが純文学」になってしまう、また、殊更に純文学を高尚なものにしたい人たちが「娯楽性の強いもの、大衆に媚びたものは純文学じゃない」みたいな変なイメージをつけてくる。
結局、純文学ってなんだろうって答えが出なかったんですが、純粋に「文学」を追求する。
この「文学」に何を当て嵌めるかなんですよね。
明治において、「一部の知識層だけがわかる古文のようなものを共有するのは『技巧を競っているようなもの』」という考えから、「もっと創作表現は自由で伸びやかで開かれたもので在るべきだ」ってなったんだとすれば、現在の口語調の普及は大成功している訳ですよね。
ですが、何にでも権威を求めたがる人たちのせいで「難解」な「間口の狭い」ものにされて、純文学が廃れていってます。
啓蒙そのものは成功しているのに、その代表たるジャンルが廃れるのは悲しいことですね。
そんなの純文学じゃない、なんて言うんじゃなく、新しい表現にチャレンジなんて、それこそ純文学だよねってなっていったら良いですね。
感想お待ちしてます。