愛されるよりも、恐れられた方が安全です。
1
「僕と婚約してくれないか、ロゼッタ。迷惑かな……?」
「……」
「どうしたんだ?」
「いいえ、ちょっと。その、驚いてしまって……」
アンソニー十四歳、私が十六歳だった、あの日。
控えめにそう言った彼が恥ずかしそうに顔を赤らめたのを私は覚えている。
騎士の娘として生まれ育った自分が、何をどうまかりまちがったのか、親戚筋の伯爵家の養子になってしまいその数年後にはこうして、有力貴族の子弟子女が通うと言われる学院の門をくぐって早や六年。
翌年には卒業を控えるというその年の春の瀬、長らく良い友人だったはずのアンソニーがそう申し出てくれたのははっきりといって私には分不相応というか。
ただただ、身分違いということとアンソニーが王位継承権を持たない王族ということもあり、首を横にふることしかできなかった。
「そうか。それは残念だ……」
「……ごめんなさい」
義理の父母からは、貴族令嬢の婚約はその多くが家同士が決めることが多いと聞いていた。
だから、一般的な恋愛が成就することは少なく、ましてや男性からの求婚があるとまで考えたこともなかった。
あの時、アンソニーには悪いことをしたと今でも思っている。
だって悲し気にさっていく彼の背中は、土砂降りの冬の日に冷たい寒水に晒され続けたこまねずみのように小さくなっていたのだから。
その翌月だ。
五月の頃だったと思う。
クィーン・アンやデューク、カスバートなどの家業で栽培しているバラの収穫を手伝っている時、彼は突然、我が家を訪れた。
栗色の駿馬に乗った、学院の青い制服を着た亜麻色の髪の男性。
従僕から伝え聞いたその風貌で、すぐに誰がやってきたかを理解した私は、思わずバラの枝を握り締めてしまい棘の痛みにこれは現実だと目を覚ます。
「……休みの期間、ですよ。公子?」
「公子はやめてくれ、まだ継承権も何もない、ただの公爵令息だ。話があるんだ」
「え? いきなりですか?」
家人に案内されてやってきた彼は、とりとめもなくそんなことを言い出した。
話の内容は理解していた。
彼が先日持ってきたあの話題だ。
2
学院の正装でやって来たところといい、それにしてはせめて馬車程度を走らせてくれば良かったのにと思ってしまった。
彼の身分では単騎で歩き回ることは、世間からすれば相応しくない。
爵位に恥ずべき行為と言われても仕方ないからだ。
そうなると体面を気にするのも惜しいくらいに急いで用意して来たのだろうと考えてしまう。
「いきなりだ。だが、これでも――そうだな、礼儀知らずか……。家を通して来るべきだった」
その天然なのか、どこか抜けているのか、考えずに行動して後から指摘されるのはいかにも彼らしいと言えば、彼らしい。
つまり、それだけ熱心で、本気で、しかも――二度とないというくらいの気構えで来たのだろう。
「いいえ、もう。ここまで来て遅いですわ。アンソニー……お父様がダメだと言われたら、いいですか?」
「その時は――覚悟をしている」
覚悟の中身を聞くのが怖かった。
彼はこれだと決めたらそれ以外の物事から関心が失われるほど、集中力が素晴らしい。それは良い傾向だけど、周りが幸せになれるような決断ではないかもしれないからだ。
何となく聞いておかなければならない気がして、私はアンソニーにどう決めたの? と一声かけてみた。
すると彼は言うのだ。
「家を捨てる決意をしてきた」
悪びれず、はっきりと……。
これには唖然とするしかなかった。
この世間知らずの公爵令息は、身分を捨てて庶民になった元貴族が今と同じように生活していけるとでも思っているのかと呆れてしまう。
「いいですか、アンソニー。世間はそんなに甘くありませんよ。貴方は家を捨てるなら軍隊にでも行って、軍功でも立てて下さい。将軍にでもなれば、どんな女性でも貴方を見るでしょうから」
「……ロゼッタ。僕は君が欲しいんだ」
この告白にはその場にいた家人はもちろん、公子が来たと聞き、庭園の端にから慌ててやってきた義母すらも驚いていた。
3
はあ、と大きくため息をついた私に義母は苦笑したものだ。
それでも義母は父親に会わせるなら資格が要りますよ、とアンソニーに問いかける。
彼はもちろんです、そう言い公爵様がしたためられたと思われる白い封筒を取り出して母にそっと預けて見せた。
「これは……」
「そうですか」
逃げられないわね、ロゼッタ。そう暗に伝える母の視線を受け、私は本心では歓喜の声を挙げそうだったけど、その瞬間はつらそうな顔をして見せた。
いま喜んで義父様の御機嫌を損ねた後、つまり――結婚はだめだと言われた時に喜びが無駄になることを恐れたのだ。義母は二人でしばらく待ちなさい、そう言い、庭園の中にしつらえた東屋に私達を置いて屋敷に入る義父の元に向かう。
伯爵家は公爵家よりも爵位は低い。
低いからこそ、アンソニーが一人でやってきたことが、義父の面子を軽んじたのではないと説明に行ってくれたのだった。彼は喜びのあまり、一人できてしまったのだと。まだ学院生であり、社交界にでたことの経験のない半人前なのだ、と。
二人の幸せを祝いましょうと、そう説得してくれているのが義理とはいえこの家に入って数年の親子をやってきた自分にも理解できた。
「これは……ダメなのだろうか?」
「少しは落ち着いてください。貴方の悪いところですよアンソニー。もっと周りを見て、ゆっくりと……きちんとして下さい。次はないんですよ?」
「すまない……」
そううなだれる、二歳年下の貴公子がとても可愛かった。
その後すぐだ、義父上様が急いで仕度させた馬車に乗り、両親と共に公爵家を訪れたのは。
最初はぎこちなく、それから緩やかに両親と公爵御夫妻の会話は弾み、誰もが否定の言葉を口にすることなく……。
そして――私達の婚約は正式に決まった。
しばらく経過したある夏の朝のことだ。
いつものように通学の馬車を降り、学院の芝に足裏をつけた時だった。
「アンソニー? どちら様?」
そんな言葉が自然と口を突いて出た。
彼は別の豪華な六頭立ての馬車――少なくとも伯爵家以上の貴族が載るようなそれから降りて来た一人の令嬢の手を取り、馬車を降りるのに手を貸していた。
4
「イブ様だ。王族の」
「イブ……王女様?」
王族の歓待を命じられているんだ、と彼は寄ってくるとそっと教えてくれた。
自分は彼女の幼馴染だから、案内を命じられたんだ、と。
その時は大変だなと思ったから特に問うことはしなかった。
間違っても彼は公子。
王位継承権を持たないだけで、王族なのだから身分が少し上の王族の案内などを申し付けられても不思議ではない。そう考えて彼の邪魔をしないように、イブ王女と二人でいるときはなるべく視界に入らないように気を付けた。
彼と他の異性が仲良くしているのを見るだけで、心が冷たくなってしまう。
そんな表情を、婚約者に見られたくないというのもあったからだった。
秋の頃になると、二人の仲はより親密になっていった。
学科をそろえ、まるで恋人でもあるかのように彼は振る舞っていた。
しかし、週末には我が家に来て食事をして帰る。
婚約者としての彼と、公子としての彼の二面性に振り回されている自分がいた。
「アンソニー様とは良い仲なのか?」
義父からそんな質問が投げかけられたのは、冬を間近に控えた頃だった。
王宮では王女とアンソニーは良い仲だと噂になっているらしい。婚約者の父親として、アンソニーの父親である公爵様に会わせる顔がないと、義父はぼやいていた。
不貞なんて行うこともないけれど、婚約者がいる男性が他の女性と仲良くしているのは――つまり、今回なら女である私に問題があるからだ。世間はそう見てしまうからだ。
爵位が高いというだけで、男性は得をするものだと知った時だった。
「……ロゼッタ。アンソニー様は公子ではなくなるそうだ」
「義父上様?」
「叔父上や兄上殿たちが相次いで病死なされた。イブ王女と懇意にしておけとは国王陛下の命令だったらしい。意味が分かるか?」
「……はい、義父上様」
その時はただそれだけ言い、うなづくしかなかった。
つまり、私達の婚約は成立しない。
義父の言いたいことはそういうことだっただろうと、理解する。
先に婚約したとか、恋人であったとか。
そういったものが通用しないのが貴族の社会だ。
女は家の代理人として政治に利用される。
それは――伯爵家に養子入りした時から理解し、納得していなければならない大事なことだった。
5
そして、冬の寒さも強くなったある昼過がりの午後。
学院の広間で、私達は再会する。
アンソニーは片手をイブ王女の腰に添えて、紳士然として腕を絡め歩いていた。
私達が出会ったそれは単なる偶然に過ぎなかったのだけれど――この頃になれば、もうアンソニーは我が家を訪れることはなかったから、すでにその約束も終わったものだと。
父親同士が話をつけたものだとばかり思っていた。
あちらは単なる公子から奇跡の様な偶然で次期王太子となった元婚約者と――陛下の肝いりでその婚約者になった王女様。
こちらは身分の低い下級貴族からようやく伯爵令嬢になれた、単なる女。
その差は歴然としてた。
「待ってくれないか、ロゼッタ」
「……え?」
道を譲り、その横を一礼して通り抜けようとした私を彼は呼び止める。
振り返ると、大切な存在を奪わないで! そう目で語り掛ける王女の姿があった。
「話が……あるんだ。まだ、あの約束は――」
「公子? いいえ、殿下。それはもう殿下の御心のままに成されて宜しいかと」
今更なに? まだ、愛しているとでも? その申し出を受けた時、本当に私には、我が伯爵家に幸福が待っているとでも?
彼の悪い癖が出ようとしていた。
返事によっては王女の顔つきが冷酷なものに変化する。
彼女の顔をチラリと伺ったとき、それは理解できた。
「何? 御心のままに、とは何を言って……」
「約束は公子と伯爵令嬢とのものでございますから。殿下には――ご理解を」
「そうか……」
「はい、殿下」
良かった。
王女様の笑みに余裕とアンソニーに対する微笑みと、私に対する優越感が見て取れる。
これで――伯爵家は安泰だ。
私はそう思った。
「では、……スィーリア伯爵令嬢ロゼッタ」
「はい、殿下」
「公子だった僕との……婚約破棄を命じる」
これを言えという、王女様の指示だったのもしれない。
彼女はうねるような金髪の奥に青い炎を讃えた瞳でこちらを冷たくにらみつけてくる。
きちんと受けなければ、私の未来も危うい。
じゃあ……返事をして差し上げます、アンソニー。
貴方への思いを込めて。
「はい、殿下。貴方は私にとって世界で最も大事な男性です。さようなら、アンソニー」
「えっ……」
「なっ!?」
アンソニーとイブ王女のくぐもった声がその場に響いた。
冬の冷えた空気が恐ろしいまでに嫉妬の炎を冷やしてくれる。
「では、王太子殿下、王女殿下。どうぞ、末永くお幸せに」
私は一礼すると、どす黒い闇色の炎を背中に背負った王女の隣をすり抜けた。
どれほど地位や権威をかざしても、奪い取れないものがこの世にはあると思い知ればいいのだ。
こうして、私の初めての恋は終わりを告げたのだった。