猫の励まし
【猫の励まし】
ソフィアは、エルダー司祭の寝室の隣部屋にいた。
既に、必要なものは揃え、準備は出来ている。
だが…――
「……っ…」
乙女は椅子に座り、祈るように目を瞑っていた。
頭に浮かんでは消える、不安と恐怖。
震えを抑えようと、負のイメージを振り払おうとするが、それが余計に不安を助長してしまう。
(しっかりしなくちゃ。私が失敗したら…また……―――)
“お前さえ生まれてこなければ、お前の母親は…”
“わああぁぁ、助けてくれーー!”
“この子だけは…この子だけはどうか!お願い、許して!”
ドクン――
「っ!」
過去の嫌な記憶が甦り、心臓が嫌な音を立てる。
自分が失敗したら、複数の人の命が失われる。
心優しい司祭も、罪を着せられ、牢に入れられた少女も……そして、かけがえのない存在である、猫の青年も……―――
それだけではない。
色々と助けてくれたオリバーにも迷惑をかける上に、今も自責の念に囚われているヒューゴは、ずっと罪悪感を引き摺ることになるのだ。
けれど…
(落ち着かないと…この瞳の力を制御できないと失敗する)
彼女が持つ、サファイア色の青の瞳。
この瞳こそが、ソフィアの治癒魔法の要なのだ。
瞳に宿る膨大な力を利用して、彼女の治癒魔法は高度な治療も行なうことができる。
しかし、治療が高度であればあるほど、瞳の力を酷使しなければならず、万が一制御できなかった場合、この力は暴走して周囲を破壊してしまうのだ。
だから、軽い治療にしか魔法を使わなかったのだ。
切り傷や打撲程度なら、瞳の力をそこまで酷使する必要はないから。
更に、この力の厄介なところは、ソフィアの心が安定しないと使えないことだった。
それ故に、この瞳は持ち主であるソフィアにとって、かなり手を焼く代物なのである。
只でさえ、成功率が半々なのに、自分では制御しにくい力を酷使しなければならないという状況。
機から見れば、何故あんなことを言ったのかと思うだろう。
それでも、この力を最大限に発揮し、使いこなせたことが、一度だけあった。
それは…――――
チュウッ
「っ!?!?」
突如、眉間に何かが吸い付き、言葉にならない声を上げる。
目を開けると、そこには…――――
「ルカ!?」
彼女の真正面でにこにこと白銀の紳士が笑っていた。
「何するの!?その前に何でここに!?」
一人だった筈の部屋にいつの間にか侵入してきた彼に、乙女はパニック状態に陥った。
一方、もう数え切れないほどキスをされているにも関わらず、あいも変わらず顔を真っ赤にして恥じらうソフィアに、ルカは笑みを深くすると、悪びれることなくこう告げた。
「これは失礼。私が入ってきた事にも気付かないご様子だったので、つい悪戯心が……」
「~~~もうっ!」
そのまま、プイッと顔を背ける。
けれど、それはほんの一時だった。
暫くすると、ちらっと恥ずかしそうにルカへと視線を向ける。
「………でも…おかげで緊張がとれた……ありがとう…」
その表情に、猫紳士はすぐさま吹き出した。
口元を抑え、肩を震わせるルカに、ソフィアが抗議の声を上げる。
「もうっ!何で笑うの!?」
「フフフ、すみません。先程の表情があまりにも可愛らしかったものですから…」
猫紳士は目尻を拭い、何とか笑いを堪えると、そのままソフィアの身体に腕を回してきた。
意外にもたくましい腕が、乙女を包み込む。
「……ですが、まだ少し緊張されていますね。身体が強張っています」
ルカがソフィアを抱きしめ、ダークブラウンの髪を撫でる。
その心地よさに、ソフィアの目に涙が滲む。
「ルカには、敵わないね」
「……と言いますと?」
「―――心配して来てくれたんでしょう?前の姿の時も、あなたは私が泣いていると、よくこうしてそばに来てくれたから」
いつも、一人だったソフィアは、慰めてくれる者も励ましてくれる者もいなかった。
彼女自身が、人との関わりを狭くしていたことが大きな原因だが、それでも患者を助けられなかった時は己の力不足を嘆いたし、一人が寂しくて涙を流したことはあった。
そんな彼女の心を見透かすかのように、この猫はソフィアが一人悲しみにくれると、膝に乗ってきた。
「あの頃に比べたら、貴女はだいぶ素直になりましたね。初めは、何度も膝から下ろされたり、部屋に逃げられたりと大変でした」
最初は、何者にも頼らず一人で生きると固く決意していた為、つまらない意地を張り、猫である彼ですら拒絶した。
まるで、自分の弱さを見透かされているようで、怖かったから。
「ごめんね…」
「謝らないで下さい。今はこうして、私に心を開いてくれている。それで十分です」
うっすらと頬を染める表情は、どこまでも優しい。
「あの頃は、貴女の膝に乗って抱かれることしかできませんでしたが……」
そう言いながら、ルカはソフィアのつむじにキスを贈る。
「今は、こうやって貴女を抱きしめることができる。今の姿を与えてくれた、女神バステトには感謝しなくては…」
そのまま、彼は自らの額をコツンと彼女の額に重ねた。
エメラルド色の瞳が、優しい光を湛えている。
「大丈夫」
柔らかな声音が、そう囁く。
「大丈夫ですから」
「ルカ…」
「自分を信じて下さい」
「………」
「……もし」
何も答えない彼女に、ルカが額を離す。
「もし、どうしてもご自分を信じることができないのであれば…」
大きな手が、ソフィアの顔を包み込んだ。
真っ直ぐな視線が、乙女のサファイア色の瞳へと注がれる。
「貴女を信じている私を、信じて下さい」
彼の言葉に、ソフィアが大きく目を見開く。
「私は、貴女を信じています。私の命を救ってくれた貴女を……信じています」
「…っ…ルカ…」
「貴女なら、きっと出来ます…――――私を、信じていただけますか?」
その問いに、彼女は泣きながら、コクッと頷いた。
零れ落ちた涙を、ルカの赤い舌が掬う。
「しょっぱいですね」
「…涙はしょっぱいものだよ」
そう言って、彼女は顔を上げた。
その瞳には、もう不安の色はない。
「頑張れそうですか?」
紳士の問いに、ソフィアはしっかりと頷いた。
「うん、もう大丈夫―――…ありがとう。ルカ」
乙女は覚悟を決めると、意を決して一歩を踏み出したのであった。
「……………」
ソフィアがエルダー司祭の元へと足を運んだ直後、別室へと移動したヒューゴは、未だ自責の念に駆られたままだった。
近くのソファに座り、ただ一人黙って俯いている。
すると――――
バシャッ!!!
「!?」
ポタポタと、彼の髪から滴が落ちる。
呆然と顔を上げると、傾けたグラスを片手に、白銀の紳士が冷めた目線で青年を見下ろしている。
「………いきなり何しやがる!!!」
唐突に、頭から飲み物…冷たいラベンダーティーをぶっかけてきた紳士の胸倉を掴み、ヒューゴが怒声を上げる。
怒りを湛える金色の瞳に、ルカの翠色の瞳はどこまでも冷たいままだった。
胸倉をつかまれたまま、彼はソフィアに向ける表情とはうって変わって、無表情のまま彼を見据える。
「おや、そんな顔もできるのですね」
「お前…っ……ふざけているのか!?」
「ふざけているのは貴方のほうでしょう?いつまで落ち込んでいる気ですか?」
ヒューゴの手を掴み、無理やり身を離すと、そのまま衣服を整え、鋭い視線を青年に向ける。
「落ち込んでも、何の解決にもならないでしょう?」
「うるせえな、俺だってわかっている!わかっては……いるんだ」
そう言って、彼は再びソファへと腰を落とした。
そのまま頭を抱え、息を吐く。
「わかっているさ。俺が、ここで落ち込んでも何の解決にもならねぇのは……けどよ、どうしたって考えちまうんだよ。自分の無力さを……」
自らの力のなさを嘆く青年の姿に、ルカの瞳から鋭さが消える。
「俺は、ガキの頃からじいさんに迷惑をかけてばかりだった。だから、己を鍛えて、力をつけて……立派になった姿をじいさんに見せてやりたかった。それが恩返しだと思ったからだ」
青年の言葉に、紳士は黙って耳を傾ける。
「やっと、力をつけて……己の役目を全うできるくらい成長できたと思った。なのに、結局俺は……何もできなかった。挙句の果てに、俺自身がじいさんに毒を手渡しちまった」
そう言って、拳を振るわせる、自称騎士の青年。
一見、明るく楽観的に振舞っているが、その本質はどこまでも責任感が強く、そして情に厚いのだろう。
ルカは、もう冷たい視線を彼に向けることはしなかった。
そして――
「……貴方が毒を手渡したことは、変えられない事実です。幾ら嘆いても……起きてしまったことは覆せない」
その言葉に、青年は自嘲気味に笑う。
「そうだよな……だから、俺は……」
「だからこそ」
ヒューゴの言葉を遮り、ルカがはっきりと告げる。
「だからこそ、己の不始末は己で拭うべきなのでは?」
その言葉に、黄金色の瞳が大きく見開かれる。
「お前…」
「貴方の今すべきことは何ですか?落ち込んで、ただ現状を見ているだけですか?」
「っ!」
「貴方が力をつけたのであれば……その力を使って恩師を救えばいい。それに―――」
ギイィィッ――
「っ!」
扉を開けて入ってきた人物達に、ヒューゴが視線を向ける。
「貴方には、貴方を慕い、力を振るう心強い味方がいるでしょう?」
「ハハ…」
揃った面子を見て、自称騎士の青年が笑った。
そして、彼らを前にしたヒューゴの瞳に、再び力強さが戻る。
彼は、今度こそ自ら立ち上がった。
「――よし、じゃあ早速鼠捕りに取り掛かるとするか!」
ヒューゴの掛け声に、彼らは皆それぞれに頷いた。
それから青年は、ルカへと視線を向ける。
「当然、お前も参加するよな?」
青年の言葉に、ルカは無表情でこう言った。
「私は貴方の臣下ではありませんが……」
「気付いてんだろ?俺はお前の上司の更に上司であり、お前の名づけ親だぜ?」
ニッと笑う自称騎士に、ルカはやれやれと溜息をついた。
「仕方ありませんね。これも仕事です」
ルカの返答に、彼は屈託のない顔で笑った。
「ハハ、期待しているぜ。猫は鼠捕り得意だもんな」
「……やはり、知っていたのですね」
「あぁ、報告を受けていたからな」
「………」
「そんな顔するなって。俺は使えると思った存在は、とことん使う主義だぜ?」
そう言って、片目を瞑る彼に、ルカは再度冷めた表情で彼を一瞥した。
「―――なるほど、オリバーも人使いの荒い上司を持つと大変ですね」
「一応、褒め言葉として受け取っておくぞ。クソ猫」
仲が良いのか、悪いのかわからない二人の雰囲気に周囲がおろおろする中、ヒューゴは真剣な眼差しで皆を見据えた。
その場の空気が一瞬で変わる。
「―――解っているな?今回の目標は、教会に掬う鼠の捕縛と、その裏側に隠されたものを引き摺り出すことだ。それぞれ、配置につけ」
彼の命令に、各々が各自散っていく。
「ルカ、お前は俺と来い」
「……いきなり何ですか」
「何だよ、俺に名前呼ばれるのが嫌なのか?」
あっけらかんとした彼の態度に、ルカは真顔のままポツリと呟く。
「別にそうではありませんが…」
「そっか。それと、さっきはありがとな。お前なりの励ましだったんだろ?」
「……………」
「おいおい、待てよ!何怒ってんだ?」
スタスタと先に部屋を出て行こうとするルカを、ヒューゴが追いかける。
「待てって。おい、ルカ!」
「ヒューゴ、無駄話はこの辺にして下さいね。鼠が逃げてしまいますよ?」
「お、やっと名前呼んだな?いつも“貴方”とか“彼”呼びだったから、いつ呼ぶのかと…―――」
「貴方も“お前”呼びだったでしょう?」
青筋を立て、怖い笑顔を浮かべるルカと、そんな彼の態度に動じないヒューゴは、言い合いをしながらも、ある場所へと向かっていったのだった。
別タイトル:猫の神対応と塩対応
ルカ本人曰く、雄に優しくする趣味はない(そうでもないが…)
あと、ヒューゴの正体、バレバレ…ひねった話は難しいな(;^ω^)