F.K. への手紙(2020年8月25日)
Give me a story that just makes me unreasonably vigilant. Keep me up till five only because all your stars are out, and for no other reason.
Seymour: An Introduction
ぼくは、これから、何を記述しようというのか、友である君に。
そう、君も知っての通り、ぼくは小説を書きたかった。根本的に、何か書きたいものがあるので、それを表現するためには、小説を書く必要がある、と考えたからだ。
しかし、本当にそうだろうか。と最近かんがえた。
ぼくには、心の中に、うまく言語化されていない何かがあり、それは形をとることを求めている。
その何かに形を与える際に、音や色ではなく、言語的な外形をまとわせる必要がある。と直感的に感じる。
それは、ぼくが、音楽や絵画の才に乏しいせいかもしれないが。
しかし、言語的な外形を与えるといっても、その方法は、詩や小説や評論など多様な形態をとることがわかっている。
そして、ぼくはここで、手紙という形式で、君に何かを伝えようと思う。
何から話をするべきなのか、それは自分にもわかっていないことなので、いろいろと話題がいったり来たりするかもしれないが、筆にまかせて書いていくことにする。
自動筆記、ダダイズムのそれのように。
市立図書館を覚えているだろうか。
君は昔、あのあたりに住んでいたから、きっと知っているだろう。あの小さくて暗い建物がぼくは好きだ。
本を守るためか、すこし暗く感じるあの建物の中で、ぼくはたくさんの時を過ごした。給水器があったのを覚えているか?
何か少し鉄の味がして、体に悪そうだった。
近くに高校とパン屋さんがあって、ぼくは小学生のころ、十冊くらい本を借りて、それで読みふけったものだった。
小学校のころが、一番、本を読んだのかもしれない。
自分のメールを読み返して思うのは、その文体の異様さである。冗長というか、ひどく神経質な印象を受ける。
あまりにもいろいろな可能性を考えてしまい、どこにもいけなくなる文章とでもいおうか。
あまりにもいろいろなことを考えすぎて、かえって言いたいことが言えなくなっているような感覚がある。
文章を読んで、これは異常者の文章だな、危ない文章だな、という風に見えることがあるそうだが、自分の数年前のメールを読むと、やばい感じは確かにする。
自分の問題とは何か?
「私」の消滅。
自分がいつか死んでしまうこと。
しかし、それを納得することができない。
ぼくは自分が死ぬことが嫌だ。
色々なものを感じていたい。
色々なことを考えていたい。
色々なことを思い出していたい。
色々な人と関わりあいたい。
心の浮き沈みを楽しんでいる。
何も感じられず、何も考えられなく、何も思い出せなくなるくらいなら、不幸であっても、何かを味わっていたい。
六境に執着している。
六境。ろっきょう。
色。しき。
声。しょう。
香。こう。
味。み。
触。そく。
法。ほう。
五感と意識によってとらえられるもの。
六境を捉えるものは六根。
六根。ろっこん。
眼。げん。
耳。に。
鼻。び。
舌。ぜつ。
身。しん。
意。い。
自分が消えることの恐怖。
のみならず、好きなものが消える恐怖。
好きな人との別れ。クラスメイトとのさよなら。
愛別離苦。
ぼくが苦しんでいることの多くは、仏教でも問題とされていたことだった。
ぼくは救いが欲しかった。
でも、神さまを信じることができない。
そんな自分でも、仏教なら、と思った。
しかし、何をすればいいのかわからなかった。
八正道を実践しろ。
本を読むと、そう書いてあるのだが、具体的に何をすればいいのか、わからなかった。
本を読んだ。
念処経と安般念経が鍵だと思った。
でも、具体的な方法がわからなかった。
それから時間をかけて、いろいろな本を読んで、ぼくが理解したところによると、戒を守って、瞑想をする。
そうすることで智慧が生まれ、苦しみから脱却できる。
そういうことらしい。
五戒。パンチャシーラ。
生き物を故意に殺してはいけない。
自分に与えられたものでないものを受け取ってはいけない。
不道徳な性行為を行ってはいけない。
(できればあらゆる性行為から離れたほうがよい)
嘘をついてはならない。
自分を酔わせるものを取ってはならない。
これを守って瞑想するのだ。
瞑想。
これもやり方が複数あり、自分にあったやり方を選ぶとよい。
ゴエンカ式。スンルン式。モゴ式。マハーシ式。テーイングー式。パオ式。シュエウーミン式。手動瞑想。スアンモーク式。禅。
色々ある。
何を選べばいいのか。
なんでもいいのだ。
ただ、それぞれの瞑想は、やり方だけでなく、最終到達目標地点も違う。
最終目標地点である悟りの定義が違うのだ。
そこの瞑想指導者を見て、そのような人になりたいかどうかを見て、考えるとよい。