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短編集

君は、桜の木の下に眠る

作者: 安井優

 桜の花びらが、まるで雨のように降る。


 地元では有名な進学校。

 その校舎が建てられたのは、もう百年以上も前だというのだから驚きだ。外壁も、手入れの行き届いたグラウンドも、建設当時のまま。色あせた様子もない。

「……やっぱり通いたかったな」

 僕は一つため息をつく。

「本当にバカだよな」

 そびえたつ荘厳な校舎を見れば見るほど、僕の中には未練とも、やるせなさともつかぬ想いが(つの)った。


 僕は今日、自殺する。

 不合格を言い渡されたこの高校の屋上から、飛び降りるつもりだ。


 ❀


 満を持してこの高校を受験したのは、つい数週間前のこと。

 模擬試験では合格圏内だったし、中学校の進路担当の先生からも、塾の先生からも「お前なら大丈夫だ」とお墨付きをもらっていた。もちろん、僕自身も、そう思っていた。

 だって、僕はこの高校に入るために、小学校のころからずっと一生懸命に勉強に励んできたのだから。

 けれど、結果は『不合格』。

 信じられなかった。当たり前だ。試験後に行った自己採点でも合格できるだけの十分な点数だったし、面接だって完璧にこなした。

 それでも、掲示された合格発表の紙に、僕の受験番号は無かった。

 あまりにも信じられなくて、思わず近くにいた教師らしき人に声をかけ、特別に試験結果を見せてもらったくらいだ。

 愕然(がくぜん)とした。

 よくあることなのかもしれない。漫画や小説の中でも、たまに出てくるくらいだし。

 解答欄がずれていた、なんて。

 周りにいた大人たちも、同情の念を隠せなかったようで、僕になんと声をかけるべきか迷っていた。そして、迷った末に出した言葉は「残念だけど、決まりだから」だった。

 そんなわけで、僕の夢はあっけなく散った。それこそ、桜のように。


 幸いにも、滑り止め……つまり、第二希望ともいうべき高校にはトップで合格していて、明日から、僕は新入生代表としてその高校へ通うことになっているのだから、胸を張ったって良いと思う。

 でも、心にぽっかりと空いた穴がふさがることはなかった。

 明日からの準備をする気にもなれない。

 当たり前だ。

 僕が行きたかった高校は、ここなんだから。


 僕は決めた。

 ――自殺しよう。

 どうせ死ぬなら、自分の好きな場所で死にたい。

 高校には申し訳ないが、死んでからのことを考える余裕なんて、今の僕にはなかった。

 僕のせいで、僕の愛する高校の名前に傷がついてしまうかもしれない。けれど、それさえも、僕がこの高校の歴史に名を刻むようで、胸が満たされる。狂っていると思うかもしれないけど、それくらい僕は追い詰められていたのだ。

 高校受験に失敗したくらいで。そんなことで。きっと、みんな口をそろえて言うだろう。

 僕には、そんなこと、ではないのに。

 いわば、長年の夢。

 僕にとっては、この高校に入ることこそが、かけがえのない夢だったのだ。


 ❀


「君、何してるの?」

 僕が感慨(かんがい)(ひた)っていると、後ろから声がした。

「ぼ、僕は! 怪しいものではありません!」

 咄嗟(とっさ)に振り返ってついて出た言葉は、怪しいもの、そのものだ。

 視線の先。桜吹雪が淡く視界を染め上げた向こう側。

 この高校の制服を着た、女子生徒が立っていた。

 スカートからスラリと伸びた脚が美しい。それどころか、風になびく黒い髪も、柔らかな春の陽ざしを反射する瞳も、しっかりと伸びた背筋も、堂々としていて恰好が良かった。

 彼女はにこりと微笑んだ。

「もしかして、新入生くん?」

 入学式は明日だ。彼女は、僕をこの学校の新入生だと考えたらしい。

「え、あ……いや、えっと」

 どう答えようかと言葉を濁せば、彼女はクスクスと笑った。

「入学式は明日だよ。間違えちゃったの?」

「いえ、その……」

「違うの? じゃあ、不法侵入?」

 僕を見る目が、ゆっくりと怪訝(けげん)なものに変わる。言葉の軽さとは裏腹に、その瞳の奥に(たずさ)えた警戒心は本物だった。

 ここで変に思われて、追い出されてしまってはたまったもんじゃない。

 慌てて、僕は大きく首を振る。

「いえ! 間違えました!」

 自分の言葉にうんうんとうなずけば、彼女は再び笑った。

「あはは、冗談だよ。ま、いくらこの学校が私服登校オッケーの学校でも、その恰好で入学式は考え直した方がいいかもね」


 そう。この高校は、制服こそあるが、基本的には私服でも問題ない。

 生徒の個性を尊重する、という校風も好きだった。自主性を重んじ、自由を与えるとともに、そこには責任が(ともな)うことをきちんと教えてくれる。人としても成長できる場所だ。

 初めてその言葉を聞いたとき、学校はこうでなくては、と生意気にも僕は思ったものだ。

 かくいう僕の恰好は、ティーシャツにジーンズというラフなもの。彼女の言う通り、もし本当に入学式と間違えたのなら、考え直した方がいい。

 ただ、今日は自殺をしに来たのであって、服については頓着(とんちゃく)する気にもなれなかった。

 とりあえず、波風を立てぬよう謝っておく。

「すみません」

「ダメって訳じゃないけどね」

 彼女は嫌味なくサラリと笑みを作って、着る人の自由だもんね、と付け加えた。


「ね、新入生くん、時間ある?」

「え?」

 突然の誘いに、僕は顔を上げる。

「せっかくだから、中、入っていきなよ。一足先にさ。案内してあげる」

 まさか、そうくるとは。

 断ろうとした矢先、彼女に手を取られ、気づけば僕の足は地面を蹴っていた。

「え、ちょっと! え?!」

「ソメイヨシノ! 先輩って呼んでくれてもいいけど。新入生くん」

「先輩! どこ行くんですか?!」

「まずは生徒会室から~」

「なんで?!」

「わたしが生徒会長だからだよ!」

 ソメイヨシノ、と名乗った先輩は足が速かった。

 僕は、桜と同じ名前だな、なんて思いながら、薄桃(うすもも)の花びらが舞い散る春の陽だまりを駆け抜ける。

 繋がれた右手は、少し冷たくて、それが余計に春のあたたかさを僕に突き付けた。


「ここが情報室で、そっちが図書室」

 使い慣れているのであろう校舎を、スラスラと案内する先輩の後ろについて、僕はトボトボと歩く。

 思い切り走って疲れた、というのもあるし、これ以上彼女と一緒にはいたくない、というのもあった。

 案内なんて、必要ないのに。

 僕は、この学校の見取り図を描けるのではないか、と思うほど、この学校には詳しいつもりだ。この学校のOBである父親からよく話を聞いていたし、文化祭にも毎年のように足を運んでいたからだ。

 つまり、先輩の余計なお節介ってこと。

「はぁ……なんでこんなことに」

 先輩に押し切られ、断れなかった自分を()やむ。

「新入生くん?」

「もう最悪だ……」

 足取りの重い僕に気を使ってか、先を歩いていた先輩は僕の方へ振り向いた。

「大丈夫? おなか痛い?」

「違います」

「あ! 疲れちゃった? 休憩する?」

 真剣な彼女の瞳に、すべてを見透かされてしまいそうで怖くなる。

 僕はその視線を()けるようにうつむいた。


「もう、いいです」

「どうしたの?」

 イライラする。

 何も知らないで嬉しそうに案内する先輩の話も、僕からすれば皮肉でしかない。

 どうしてあんなに必死になって勉強してきた僕が不合格で、こんな能天気そうな先輩がここの生徒なんだろう。

 通えない高校の校舎を見たって、今はもう、嬉しくもなんともない。

 もういいや。

 僕の中に渦巻いていたドロドロとした何かが、口からあふれ出る。

「僕、ここの新入生じゃないんです」

 僕は先輩の目を見て、はっきりとそう言う。

 そうでもしなきゃ、彼女はいつまでも、空を泳ぐ桜花のように、降り注ぐ日差しのように、僕に付きまとってきそうだったから。


「え?」

 驚いた先輩は、今までの笑顔を即座に引っ込めた。

「僕、ここの入試、落ちてますから」

 先輩は、驚いて大きくなった目を、さらに見開く。

 それから、今までの自分の行いをどう弁明すべきか迷ったように目を泳がせた。

 先ほどまでとは、まるで別人みたいだ。

 色々と言葉にしようとして、けれど、どれも良い言葉ではなかったのだろう。彼女は、口を開いては、あー、とか、うー、とか言葉にならない音を発したのみだった。

 しばらく迷った末、先輩はついに、取り(つくろ)うのはやめた、と顔にかいた。

「じゃあ、どうしてここに?」

 諦めた先輩から発せられたのは、素直な質問だった。

 だから僕も、素直に答えることにした。これ以上、隠しても仕方がない。

「自殺……しようと思って」

 僕の言葉を聞いて、先輩は顔をしかめた。

 怒っているのか、困っているのか、僕には分からなかった。

 やっぱり、言わなきゃ良かったか。

「なんでそんなこと」

 彼女の声は、先ほどよりも少しだけ低かった。

 何も知らない彼女に、どうしてとがめられなくてはならないのか。

 僕の中で何かが(はじ)ける。

 それが完全な八つ当たりだとしても、僕には止められなかった。


「そんなことって! 先輩には、僕の気持なんか分からないんですよ! 僕の夢は、この学校に入ることだったんですから!」

 長い廊下に声が響く。もし校内に生徒がいたら、聞かれてしまうかもしれない。

 それでも良かった。

 これは、僕の譲れないもの。たったひとつ、たったひとつだけの、大切な夢だったから。

 言い終わって、はぁ、とひとつ息を吐く。

 これで、終わりだ。何もかも。

 僕がそんな風に肩を落とすと、彼女の手が僕の手を再び握る。そうして、彼女は、もう一度走り出した。

「こっち来て」

「わ、ちょ、先輩!」

 やっぱり、彼女は足が速い。

 僕はあっという間に、図書室の奥に引っ張り込まれた。


 ❀


 彼女は僕を椅子に座らせ、しばらく無言で窓の外を見ていた。

 吹奏楽部が練習しているのだろうか。外からはトランペットやシンバルの音が聞こえてくる。明日の入学式で演奏するのかもしれない。

 運動部がグラウンドを走っているのか、()け声らしきものも一定のリズムで、音楽に花を添えていた。

 図書室には、僕と彼女だけだった。

 司書の先生の姿もない。本を貸し借りするためのカウンターに『しばらく不在にします』と書かれた紙が置かれていたけれど、どれくらいで戻ってくるのだろう。

 春休みでも、図書室は開放されているんだな。

 だんだんと冷静になってきた僕は、そんなことを考える。

 壁に備え付けられた振り子時計の音が、心地よく響いていた。


「……落ち着いた?」

 先輩はゆっくりと僕の方へ視線を向けた。

 怒っているのが分かる。

 どうして関係のない彼女が怒っているのか、僕には理解できなかったけれど、反射的に「すみません」と謝ってしまう。

 まあ、通っている高校で自殺者が出た、なんて、在校生からしてみれば最悪か。

「わたしは君のことをよく知らないから、偉そうなことは言えないけど。自殺なんてしちゃダメだよ」

 僕を(しか)りつけるというよりは、(さと)すような口調だった。

「……でも」

「生きたくても、生きられない人もいるんだよ」

 先輩の言葉は綺麗事だ。夢をかなえた人間だから、そんなことが言えるんだ。

「わかってますよ!」

 声を荒げれば、先輩が肩を揺らす。僕は立ち上がりそうになってしまった腰を椅子へ下ろして、うつむいた。

「……でも、どうしたらいいのか分からなくて……」


 いや、本当は分かっているのだ。

 自殺なんてしたって、どうにもならないということくらい。

 それでも、僕にはこの先、この気持ちを抱えたままどう生きていけばいいのか分からない。これ以外の生き方を、僕は知らない。

 この高校に入ること。僕は、その夢をかなえるつもりだったんだ。

 僕のあこがれである、父のような人間に、僕もなりたい。

 そのためには、この学校に入らなければいけなかった。


「どうして、君はこの学校に入りたいと思ったの?」

 先ほどまで怒っていたはずの先輩の声は、いつの間にか優しいものになっていた。僕の心をそっとすくい上げるような、やわらかな春風みたいな声だ。

「……僕の父が……この学校のOBなんです」

 彼女は黙って、僕の方を見た。どうやら続きを(うなが)しているらしい。

「……僕、父にあこがれてるんです。父は、この学校のことをよく話してくれました。父が高校生の時のことも」


 ❀


 この話をすると「そんなのは作り話だ」とからかわれた。だから、あまり話したくはなかったのだけれど。

 それでも、この高校の生徒なら、もしかしたら、と僕は淡い期待を抱く。

「先輩、千年桜って知ってますか?」

 彼女は、一瞬だけ目を見開いてから、まるで懐かしい記憶をたどるように目を細める。

「もちろん。この学校のシンボルだもの」

 そう、シンボル。この高校の、というより、正しくはこの街の、だと思うけれど。


 この街は古くから城下町として栄えてきた。

 当時の城の主、すなわち、殿様が、城下町に住む人々のために桜を植えたのが始まりで、この街は、春には花見の名所としてより一層栄えたという。その名残で、街には今でも多くの桜の木が残っているのだが、その代表格がこの高校にある千年桜だ。その名の通り、千年前からある桜の木、ということで、今でも親しまれている。


「僕の父が、その桜を守ったんです」

 僕がおずおずと切り出せば、瞬間、彼女は何かに(はじ)かれたようにパッと顔を上げた。

「君の、お父さんが……?」

「僕の父は、入学式の日、千年桜の下で、当時生徒会長だった人に恋をしました。その人は、とても美人だったそうです。優しくて、笑顔が素敵な人だったと言っていました。父の一目()れだったらしくて、先輩に何度も猛アピールをしたって。振り向いてほしくて、何度も桜の下に呼び出しては、いろんな話をしたと、父が」

 僕が話し始めると、先輩は少しだけ切ない顔をした。

 それから、ゆっくりと

「……そんなとき、桜は切り倒されることになった」

 そう言葉を(つむ)ぐ。

 僕の話の続きだ。

「知ってるんですか?!」

 僕が目を丸くすれば、彼女は曖昧(あいまい)に笑った。切ないとか、悲しいとか、そんな単純な感情じゃなくて、もっと複雑なものががんじがらめになってしまったような顔で。

「有名な話だからね。古くなった校舎の一部を、改修する計画があった」

「そう! そうです! 千年桜はその工事の邪魔になるから、と切り倒されることになって。それを知った父と生徒会長が、署名活動を始めたんです。思い出の桜を残してほしい、と」

「でも、彼女は冬休みが明けてから、学校には来なくなった」

「父は、受験勉強が忙しくなったんだろう、と言っていました。彼女にフられてしまったと思いたくなくて、強がっていたって。それでも父は、懸命に署名活動を続けました。そのお陰で、桜を守ることができたんです」

 この話を知っている人に初めて出会ったからか、思わず興奮して喋り倒してしまった。

 僕がハッと我に返って先輩を見つめると、彼女はやっぱり、難しい顔をしている。

 泣くのを()えているようにも見えたし、微笑んでいるようにも見えた。

 どうしてそんな顔をするのだろうと僕が不思議に思っているうち、先輩は、まるで表情を見られまいとするように、窓の外へと顔を向けた。


「……彼女は結局、卒業式の日も現れなかった」

 ポツリ。こぼされた言葉は、(はかな)く、風にさらわれて行ってしまいそうだ。

「父は、せめて最後に、桜を守ったことを彼女に報告したかった、と今でも言っています。当時は携帯電話なんてなかったですし、彼女の連絡先も、住所も知らなかったので、それきりになってしまったそうですが」

 だから、僕は父にあこがれて、父の分まで、先輩を探し、伝えたかったのだ。

 桜は、今年も咲いているよ、と。


 先輩がゆっくりと視線をこちらに向ける。

 春の陽ざしをたっぷりと吸い込んだ瞳には、淡い桜色が揺れている気がした。

「君のお父さんは、恰好(かっこう)いいね」

 美しく笑みを浮かべる先輩は、今にも泣いてしまいそうだった。


「こんな話、笑わずに聞いてくれたのは、先輩が初めてです」

 なんて言えばいいのかわからなくて、僕は少し恥ずかしくなる。

 本当に、作り話みたいなのだ。それでも僕は、父を信じている。

 僕と同じように、父を信じてくれた先輩に、じんわりと胸が熱くなった。

「笑わないよ。絶対に」

 (りん)と背筋を伸ばして、図書室の向こうに広がる千年桜を見つめる先輩の姿に、どうしてかツンと鼻の奥が痛くなる。

 僕の父が好きだった生徒会長も、こんな人だったのだろうか。

 優しくて、美しい、桜のような人。

「友達はみんな、そんなのは作り話だって。でも、僕……そんな風には思えなくて。一生懸命に桜を守った父にあこがれているんです。だからこそ……、だからこそ、この高校に入りたかった」


 余計なことを言ったと思った。

 それでも止められなかった。

 僕の瞳から、涙がこぼれる。

 悔しい。

 自分の犯した(あやま)ちであるがゆえに、僕は、僕自身を責めるしかないのだ。

 これから先もずっと。

 この後悔を背負って生きていくことなど、僕には到底できないように思えた。想像するだけで、自責の念に押しつぶされてしまいそうだ。

 僕はもう、父のようにはなれない。

「僕の夢は、もう、かないません……」


 呟く僕の頭に、やわらかな感触。

 先輩が、僕の頭を()でているのだと分かった。

 こんなの、幼稚園以来だ。母親にだって、小学校へ入学してからはこんな風にされたことなどなかったと思う。

「そんなことないよ」

 先輩の言葉は、魔法みたいだ。

 僕に降り注ぐ満開の桜吹雪のように、僕を上へと引っ張り上げる。

「この高校に入学することだけが、君の人生じゃない。君が、お父さんみたいになりたいと思っていて、その夢をかなえる唯一の手段が、この高校に入ることだと思っているなら、それは違うよ。一生懸命に生きていくことが、大切なんだよ」


 先輩の言うことは正しい。

 父のような人間になる方法はいくらでもある。この先、生きてさえすれば。

 けれど、はいそうですか、とそれを簡単に認めてしまうのも恥ずかしかった。

 誰かに肯定されたかっただけだ。

 そんな僕でも大丈夫だ、と。

 そんなことはとっくに分かっていたんだ。

 先輩が、僕を導いてくれた。自信のない僕の手を引いて。


「……でも、僕……」

「大丈夫。君も聞いたことがあるでしょう? 桜は、冬が寒ければ寒いほど、美しく花を咲かせるって」

 僕の言葉をさえぎって、先輩は僕の手を再びぎゅっと握った。

 心の温かい人は、手が冷たいんだと言っていた友人の言葉は本当だったみたいだ。

 相変わらず冷たい先輩の手が、どうにも心地よかった。

「それ、父もよく言ってます」

 先輩と父さんは、会ったことがあるのだろうか。

 それとも、この高校に語り継がれている伝承みたいなものなのだろうか。

「人生も一緒。どんなにつらいことがあっても、それを耐え忍んだ先には、必ず春が来るの」

 先輩は、経験したことがあるのだろうか。

 長く続く寒さの先に、花が開く瞬間を。


「……僕も、そう、なれるでしょうか」

 彼女は大きくうなずく。

「うん。なれるよ。これから少しずつ、いろんな経験をして、大人になっていけばいいんだよ。生きてさえいれば、何度でも、この桜も見に来れるんだから」

 ね、と微笑んだ彼女の向こう側、窓の外で大きく桜吹雪が舞い上がる。

 まるで、ドラマみたいだ。

 僕はあいている方の手で、ゆっくりと涙を拭ってから、悪態をついた。

「不法侵入、ですけど」

「あはは。その時はまた、わたしがかくまってあげるよ」

 彼女は僕の手を離す。

 握られていた僕の手は、春の陽だまりを閉じ込めたようにあたたかかった。


 ❀


「……あれ? 先輩……? 先輩!?」

 (まばた)きをひとつした刹那(せつな)、僕の前から彼女はいなくなっていた。

「そろそろ図書室は閉館よ」

 いつの間に戻ってきていたのか、司書らしきおばあさんが僕の前に立っている。

「え?! あれ?」

「どうしたの、慌てて」

「あの! 先輩……ソメイヨシノって女の人を見ませんでしたか?!」

「ソメイヨシノ?」

「さっきまで、僕と一緒にいたんですけど!」

 おばあさんは大きく首をひねる。

「さてねぇ。誰も見てないけど」

 そんなはずはない。ついさっき、本当に一瞬前まで、僕の目の前にいたのに。


「……ソメイ……染井……。あぁ!」

 おばあさんはハッと顔を上げた。

「思い出しました?!」

由乃(よしの)ちゃんねぇ! 覚えてるよ。あなた、よくそんな昔の生徒を知ってるねぇ。親戚かなにか?」

 にこにこと微笑まれ、僕は、え、と困惑の声をあげる。

「いや、昔って……。ついさっきまで一緒に……」

「ははは。寝ぼけて夢でも見たんじゃないのかい。由乃(よしの)ちゃんは、私がまだ国語教師だった時の、生徒会長だよ」

「え?!」

「いやぁ、べっぴんさんだったねぇ。あの桜を守る活動を始めたのも、由乃(よしの)ちゃんだったのよ」

 おばあさんは窓の外に見える大きな桜の木を指さして笑った。美しく咲き誇る千年桜が、先ほどと変わらず日に照らされて輝いている。

 どういうこと?


「僕の父が、活動を……」

 僕が(しぼ)り出したやっとの返答に、おばあさんは、あぁ、と声をあげた。

「そういえば、由乃(よしの)ちゃんが亡くなってからも、署名活動を続けてた男の子がいたねぇ」

「亡くなった?」

 ソメイヨシノが?

 ついさっきまで、僕の目の前で笑っていた、あの彼女が?


「そう。由乃(よしの)ちゃん、病気だったの。早すぎる死でねぇ。彼女も懸命に生きてたんだけど」

「……病気?」

 そんな話は聞いたことがない。

 父も、きっと知らなかったはずだ。

「そう。卒業式の日までは大丈夫って言っていたけど、あの年は寒い冬だったからねぇ。病状が急変して、卒業式の前日に亡くなったのよ」

「卒業式の、前日に……」

「優しい子だったからねぇ。周りの友達には隠してたみたい。私たち教師も、生徒たちには言わないでくれってご両親からお願いされたの。だから、この話は内緒ね」

 おばあさんは、しみじみと桜を見つめる。


 だから、先輩は黙っていなくなったのか。

 きっと冬休み中に、彼女は学校には通えない状態にまで体調を崩してしまったのだろう。

 彼女が病気だったと知ったら、父も、自殺していたかもしれないな。

 僕のように。


「桜は寒ければ寒いほど、美しく花を咲かす」

「え?」

 先ほど先輩から聞いた言葉をおばあさんがつぶやいたので、僕は驚いた。

由乃(よしの)ちゃんの口癖よ。今思えば、あれは、自分自身を勇気づけるおまじないだったのかもしれないね」


 僕の父にとっても、そうだったのかもしれない。

 父の言葉は、彼女の口癖を真似たものだったのか。父も、僕のように、先輩にそうして勇気づけられたのか。

 やはり、彼女はソメイヨシノだった。

 死んだ人が生き返るなんてありえないと思う。

 でも、僕はそんな奇跡を信じたかった。自分の手に残るかすかなぬくもりを、嘘だと思いたくはなかった。


「さ、暗くなる前に帰りなさい」

 おばあさんに(うなが)され、僕は桜を見る。

 先輩が――ソメイヨシノが、微笑んだ気がした。


「あの!」

「何?」

「ソメイヨシノさんのお墓って……」

 僕の質問に、おばあさんは少し考えてから首を振った。

「さぁ……ごめんなさいね」

「そう、ですか……」

 僕が肩を落とすと、おばあさんは、再び声を上げる。

「あ! まって、そうだわ。たしか、校長先生だったかしらね。当時の。彼女の遺灰を少しだけ、あの桜の木の下に埋葬したって聞いたことがあるのよ。まぁ、昔の噂話だけどね」

 噂話でもなんでもいい。

 僕には、それが真実なのだから。

「……千年桜の、木の下に」

「ええ。お父さんにも、よろしくね」

「はい。ありがとうございました!」

 気づいたら僕は、走り出していた。

 先輩に引っ張られたように、速く、速く。


 それから僕は、走って、走って、息が切れるほど走って、家へと帰った。

 父にこのことを伝えなければ。その気持ちでいっぱいだった。

 自殺をしようなんて思っていた気持ちは、気づけば、遠く、どこかに消えていった。


「父さん!」

 僕が玄関を開け放つと、父がリビングから顔を出した。今日が日曜日で良かったと、心から神様に感謝する。

「おお、おかえり。どうした? 急いで」

 父は僕の気など知らず、呑気に笑っている。


「高校の話をしたいんだ! 桜の……ソメイヨシノの話を」


 玄関扉から、ふわりと柔らかな風が吹き込む。

 どこからやってきたのか、桜の花びらが、僕と父の間を通り過ぎた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ゴミブクロンさんが言うように、全然全年齢でいけますね! むしろ若い人に読んでもらいたい小説です。 中学卒業間もない主人公の初々しさがひしひしと伝わってきました。 [気になる点] ややクリ…
[良い点] 鬱ってる序盤から徐々に春風が強くなっていくような。 [気になる点] この高揚感。上手いこと表現できないですけど、ジワジワ来ます。 [一言] これなら余裕で全年齢でいけますよ。
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