ぱかふわの煙
これまでと比べると少し長めです。
保育園における食育ってどう捉えて何をねらいにすればいいのでしょう。家庭が主体となって進めるべきことなんじゃないの?以前の僕はそんな風に考えて、保育の中に具体的な位置づけを見出せませんでした。ところが、ある出来事をきっかけに一気に危機意識を持つようになり、保育園でできることを様々に模索するようになりました。今回はそんなエピソード。
「ぱかふわ」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。一時期、テレビのグルメレポートなどで使われていました。
ぱかっと蓋をあけた瞬間にふわっと湯気が立つ様子を映像として見せることで美味しそうに見える演出方法のことです。
以前勤めていた園はクラスごとの給食。クラス分の料理をワゴンで運んできて担任が盛りつけていました。ある時、年長児クラスだけ給食が少し遅れ、ご飯が炊飯器ごと運ばれてきたことがありました。「今日ちょっと忙しくてさっき炊き上がったとこなの。少し蒸らしてから盛りつけお願いね」と調理さんからの伝言と一緒に。
せっかくだから、「ぱかふわ」やっちゃおう!と子ども達の目の前で「せーの!ぱかっ!」と蓋を開けると、期待どおり湯気と一緒に炊きたてご飯の匂いが広がって、子ども達も「わー!いい匂い!!」と盛り上がりました。
怪我の功名じゃないけど、これはこれで良い経験ができたなぁと思いながら子ども達と食べ始めたとき、同じテーブルのTくんが「あのさ、なんにも燃えてないのになんでケムリ出てたの?」と僕にたずねてきました。最初はなんのことか分からなかったのですが、「ほら、ご飯開けたとき。ケムリ出たじゃん」と言われて、驚きました。
「え、あれ湯気だよ。煙じゃないよー」と返すと不思議そうに、「お湯入れてないのに湯気出ないでしょ」と返されました。
この時点で、僕の頭の中は「???」でいっぱい。「ちょ、ちょっと待ってね。ご飯炊くときお水入れるでしょ?」「そうなの?」「Tくん、ひょっとしてご飯どうやって炊くか見たことない?」「うん、だって知らないもん」「そっか。じゃあ今度、お家でご飯作るとこ見せてもらいなよ。」
およそ5年くらい前のことですが、鮮明に覚えています。それだけ、僕にとっては衝撃的なやり取り。年長児が、ご飯を炊くという工程をまるで知らないということが、あり得るなんて、それまで思ってもみなかった。
でも、考えてみれば取りたてて意識しなければ、子どもが保護者の調理する過程を見ずに過ごすことは、あり得ることですね。特に保育園を利用する家庭は、より効率的に家事をまわすことが求められる状況にあります。お迎えの後、そこからご飯を炊き始めるなんてしない家庭も多いことでしょう。事前にタイマーをセットしておく、それも子ども達が寝ている間やテレビを見ている間にササッとやっちゃう。そんな「当たり前」の光景が目に浮かびます。
きっとTくん自身も僕と話すまで、ご飯がどうやって炊かれるかなんて考えもしなかったのでしょうね。それは、気づけば食卓にあるもの。用意されているもの。
このことがあってから、僕は子ども達の「食への関心」「食にまつわる体験」を相当な危機感を持って考えるようになりました。
家庭にそれを求めることは、ただでさえ忙しい保護者に余計な負担をかけるだけ。ならば、園でできることを体験として保障したい。給食室と話し合って米研ぎをお手伝い活動のひとつに加えました。週に何度かは、炊飯器を保育室に持ち込んで、子ども達の前でスイッチオン。遊びながら炊けるのを待つ、というようなこともしました。
そんな取り組みをしていくうちに、僕はきっとTくんのような子はまだまだ居るはずだと思うようになりました。自分たちの口に入る食べ物が、元はどんな姿をしていてどんな人の手でどんな工程を経て、目の前の食べ物になっているか。知らないし、知らないからこそ関心も持ちようがない。そんな子どもがあちこちにきっと居る。
だから食事中にたくさんその日のメニューや食材について話すようになりました。話題にしてほんの少しでも関心を持てるように。時にはふざけたりダジャレにして、関心を持ってもらうようにしています。まずは関心を持つことから。そこから、疑問に思ったことや発見したことを実際の活動につなげていこうとしています。そんな具体的な食育の取り組みについては、また別の機会に。
お読みいただきありがとうございます。
食べることって生きること。
食べることへの向き合い方が生活や人生への向き合い方につながっているような気がしています。