左富士
「トイレに行きたいです」
朱音は席を立った。
「わかった」
警備上、のぞましくないが、やむを得ない。
服部は、車内を見回しながら、朱音と共に、座席の後ろの扉から出る。
大きな荷物はさすがに持てないので、念のため、簡単な術をかけた。
幸い、デッキにもトイレにも人の姿はない。
朱音に頷き、服部はデッキに立って、監視を続ける。
七号車の車両のほうに目を向けるも、特に席を立つものもない。
「ありがとうございました」
ペコリ、と朱音がトイレから出てきて、手を洗う。
「戻ろう」
服部が、朱音を促しかけて。
七号車の扉をあけて、一人の男が歩いてきた。
「待て」
朱音をデッキの左側に引き寄せて、肩を抱くようにして、男から朱音をかくす。
男が服部の前を通過する。
その一瞬。
二人の手から、空中に何かが解き放たれた。
「え?」
目にもとまらぬ素早さで宙を走ったそれは、男と服部のそれぞれの口に突き刺さる。
「ぐっ」
男は顎を押さえて、そのまま走り去った。
「服部さん。それ、黒はんぺん?」
服部は、もぐもぐと口を動かし黒はんぺんを苦労して完食する。
さすがに、熱い。恐るべき攻撃だ。
「さっきのひと?」
朱音の問いに、服部はふっと笑う。
「歯が弱かったのだろう。伊賀名物のカタヤキで顎を痛めたようだ」
さすがに日本一硬いせんべいは伊達じゃない。
「いいなあ、黒はんぺん」
朱音は言いながら、背を進行方向に向け、去り行く車窓を眺めながら、服部をまねいた。
新幹線は、静岡駅を通過し、安部川にさしかかる。
「どうかしたのか?」
朱音は問いに応えず、車窓を眺めている。
新幹線が、安部川を通過した。
「見えました!」
うれしそうに朱音が指をのばす。
その先に、青空をバックに美しい富士山が見えた。
「左富士……」
服部は唸る。
東海道新幹線の海側の座席で、唯一、富士山が見えるのは、静岡駅の西のここだけ。
時間にして、三十秒ほど。しかも、下りの新幹線なら、後方に見えるため、意識せずに見ることができたなら、本当に幸運である。
朱音は輝くような瞳で、富士を眺め、祈るように手を重ねる。
「朱音?」
「新幹線の左富士が見れたら、幸せになれるんですよ」
朱音はそう言って、服部の腕にそっとおでこをくっつけた。
「お前、席を立った理由は、これなのか?」
「違いますよ。偶然です」
くすくすと朱音は笑う。
「でも、ずっと見たいとは思っていました。できればすてきなひとと」
「……一緒なのが俺で残念だったな」
服部は、そう言って肩をすくめた。
七号車に入り、座席を確かめる。特に細工されたような形跡はなかった。
「いいぞ」
服部は、朱音を窓際へと座らせる。
「服部さん」
朱音は車窓に目を向けて呟く。
「私、運がいいっていいましたよね」
「ああ」
「本当ですよ」
そんなに左富士が嬉しかったのだろうか。
服部は、黒はんぺんで負傷した口内を伊勢茶で癒す。
車窓には茶畑が広がり始めた。