三好2
1558年6月2日
三好家は長曾我部の突然の侵攻に大慌てであった。さらにその際に河野家に連絡を取るが、河野も同時に侵攻を受けているようで、支援は受けられそうになかった。
長慶も講和のために長曾我部に使者を送るも、帰ってきたのは返答は鉛玉の入った箱だった。それで長曾我部が本気を出したことを悟ると、すぐに主要な城に動員を進める。特に白地は一番増援が多かった。それは讃岐や阿波の城の兵が少なくなるほどである。想定通り、白地城は一番最初に攻撃を受けた。遠方から大砲による攻撃を受け、城郭の至る所が破損した。これはまずいと打って出ても、防塁で守りを固めた長曾我部軍に銃撃されとん挫した。そんな戦闘が3日続いたある日、突如勝瑞城と海部城、洲本城、十河城が攻撃を受けた。特に海部城と勝瑞城がひどく、1日に200発近くも砲弾が飛んできた。どこにそれだけ砲弾があるのか、と言われれば10隻近くの輸送船によって、大量に運び込まれているのである。さらに陸路についても馬によって昼夜問わず輸送が続いていた。もともと砲弾は、ほぼ毎日生産され岡豊城などの各城に備蓄されていた。今回はそれを引っ張り出してきたのだ。といっても備蓄にも限界があり、最近では廃城となった城に備蓄されていた。そんな量の砲弾が降り注ぎ、海部城はたった1日ですぐに降伏。十河城は早期攻略を目指した親泰の手で強攻。3日目に間合いを2町―――――およそ200m―――――ほどまで詰め、史実の第一次十河城の戦いのように大筒千挺ほどで櫓を破壊。さらに城壁も破壊した。その夜、数名の忍者が城門に近づき、大量の火薬で城門を爆破した。その爆音を聞いた後、親泰は動いた。
爆発より少し前、長曾我部の陣にはわずかな明かりを残し、それ以外の明かりはなかった。こちらの行動を敵方に知られぬためである。
「急げ急げ!」
そんな声と足音だけが聞こえる。
しばらくすると、準備が整ったのかその音も消える。すぐ後に爆発が響く。そして準備完了と爆発の報告を聞いたであろう親泰が士官に命じ、その士官が部隊の前まで行き「攻めかかれ!」と命令を発する。
そして集結した3千名は十河城に向かって突撃を始める。最初は歩き、30mほどまで来たところで走り始める。破壊された城門は周りの建物も崩れ侵入が難しいが、それでも城内に入れるだけよかった。手空きの者が瓦礫を退け、それ以外の者は突入という状態がしばらく。気づけば瓦礫は退かされ、侵入が容易になっていた。
城内の様子は惨憺たる様で、三好方の敵で立っている者は少ない。
「十河一存、討ち取ったり!」
そんな声もどこからか聞こえてくる。まるでどこかの世紀末を思い出しそうだが、そこまで十河城は荒れていない。多少大砲による砲撃で城壁やら石垣やらが壊れている程度である。直そうと思えば1、2カ月で元に戻るだろう。莫大な費用を犠牲にして。
その後、十河一存の討ち死にを知った三好勢は降伏。親泰は戦後、堂々と入城することとなった。
短いのはご容赦ください。そのうち2、3千文字くらいに増やします。




